福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

妙法蓮華経秘略要妙・観世音菩薩普門品第二十五(浄厳)・・7

2024-01-07 | 諸経

妙法蓮華経秘略要妙・観世音菩薩普門品第二十五(浄厳)・・7

・五には鬼難(前の羅刹は海島に居る。今の鬼は人中にあり。)

「若三千大千國土滿中夜叉羅刹。欲來惱人。聞其稱觀世音菩薩名者。是諸惡鬼尚不能以惡眼視之。況復加害。」

「若三千大千國土」とは鬼の居る處所を標す。「大千」を云ことは、處の廣きを挙げて鬼の多きを彰す。

「滿中」とは實に満るにはあらず。是假に設る辞なり。たとひ大千界に充満せる悪鬼なりとも脱るべしと云て、菩薩の利益廣大なることを彰すなり。若し實に満れば更に何よりか来らん。知ぬ是假に設るなり。

「夜叉」とは此には捷疾(せふしつ)と云。捷疾とは瞬息の間に大千界をも走り廻る者なるが故なり。又噉食(だんじき・がつがつとくらう)と云。人を食するが故に。又「やきしゃ(梵字)」の「きしゃ」の字に食の意あるが故なり。

「欲來惱人」とは、正しく難を彰はす。但し此れは未だ悩さざるに約す。若し已に悩さんにも、念ずるに免れずと云ことあるべからず。下に請観音經を引くが如し。

「聞」とは、夜叉羅刹の聞くなり。

「其」の一字は、稱名の人を指す。

「稱觀世音菩薩名者」とは、立行即ち機なり。

「是諸惡鬼尚不能以惡眼視之。況復加害。」とは、應を明かす。此の中に尚「不能以惡眼視之」とは、少分の害心の相を挙げて、深害は況やと云べき為なり。彼等の悪鬼稱名の聲を聞いて、或は悪心を翻して慈心を起こし、或は大士の威徳に畏れて退散す。是菩薩の折伏摂取の二徳に依る。折伏の用には畏れ、摂取の徳には懐く。懐くが故に慈心を起こし、畏るるが故に対治せらる。請観世音菩薩消伏毒害陀羅尼呪経に曰く、天竺の毘舎利國に五夜叉あり、俱に訖拏迦邏(きつどきゃら)と名く。面の黒きこと墨の如くして五の眼あり。狗牙上に出て人の精気を吸ふ。此に由て彼の國の諸の人民、大悪病に遇て、眼の赤きこと血の如く、二の耳より膿を出し、鼻の中より血を流し、舌噤んで聲出さず。食するところの物其の味變じて麤澁となる。六識昏暗にして酒に酔へる者の如し。時に彼の城中に月蓋と云長者あり。五百の長者と共に(毘舎利國には定まれる王なし。五百の長者かはるがはる國を治むといへり。)彼の國の菴羅樹園の大林精舎の重閣講堂に詣でて佛に言さく、世尊、今此の國の人民皆大悪病にあへへり。良醫の耆婆、其の術を盡せども救ふこと能はず。唯願くは世尊、一切を愍み玉ふて病苦を救ひ玉へと。時に佛の言はく、此れより西方に佛あり。無量壽と名けたてまつる。彼こに二の菩薩あり。観世音・大勢至と名く。恒に大悲を以て一切を愍み、苦を抜き益を得しむ。汝等五體を地に投げて西に向て禮拝し、香を焼き花を散じ息を数て念を摂め、衆人の為に無量壽佛併びに二菩薩を請じ奉れと。かくの如く説き玉ふ。時に釈尊の光明の中に彼の佛菩薩を見たてまつることを得たり。又佛(釈尊)の神力の故に、彼の二菩薩と共に毘舎利國に来たり、城門の閫(しきい)に住し、大光明を放ち城中を照らして皆金色と作す。即時に観世音、十方諸佛救護衆生陀羅尼(請觀世音菩薩消伏毒害陀羅尼呪經に「我今當に十方諸佛救護衆生神呪を説かん。たにやた うふに まふに とうばに たむばに たむばに ばんざあり ばんざあり しゆびてい ばんばんたらら ばーすいにたにやた いりみり ていしゆり かばり かばり くしやていとばんくしい せんだり まとうぎ らくしやらくしや さるばあさとばあさるばあばーやび すヴあーはー」)を説く。説き了て佛に白さく、世尊この神呪は十方三世の無量の諸佛の宣説き玉ふところなり。此の呪を誦持する者は常に諸佛諸大菩薩に護持せらるるが故に、一切の怖畏刀杖毒害疾病を免れて患なきことを得しむと。時に毘舎離の人、病悉く平復しぬ。菩薩又佛の重請に因て、消伏毒害陀羅尼(請觀世音菩薩消伏毒害陀羅尼呪經に「爾時、觀世音菩薩は大悲熏心し佛神力を承けて「破惡業障消伏毒害陀羅尼呪」を説く「南無佛陀 南無達摩 南無僧伽 南無觀世音 菩提薩埵摩訶薩埵 大慈大悲 唯だ願くは我を愍み苦悩を救護したまへ。 亦た一切怖畏の衆生を救ひ、大護を得せしめまたへ。

たにやただふに まふに とうばに たむばにあばしい まふに ばんざあり ばんざあり しゆびてい ばんざあらばさに しゆるしゆる ばんざあり どうるどうる ばんざあり しゅしゅるる ぶあんざあり どうどうぶぶ ばんざあらばさにすいんくしい てい いんくしい さるばあばやがと さるばだるまさたが あばや びぢや すぶあーはー 」)を説く。若し此の呪を念持すれば火難・王難・飢饉・盗賊・毒薬・病患・悪風・悪雨・牢獄・繫縛・杻械・枷鎖・夜叉・羅刹・猛獣等の諸の難あらんも悉く皆消滅せん。破戒の人の重罪を造れるも此の呪を誦持すれば戒品還て浄く業障を滅除す。(已上略称)。若し観心の釈ならば、一には果報の鬼。謂く地獄の中には執杖鬼あり。正法念處經第十七に曰く、閻羅執杖餓鬼は、若し悪業を作る時は閻魔王即ち此の鬼をして其人を罰せしむ。此の鬼の色醜悪にして可畏。頭髪ぶう乱(みだれる)し、髪倒にして身を覆ひ、長脣下垂耽耳、大なる腹にして手に刀杖を執り高聲に大に叫んで以て諸鬼を怖(おど)し。刀を以て罪人に擬して罪人の手を反縛して将て王の所へ至て罪人を呵責せしむ。其の鬼自らは飢渇に逼られて、但風気をのみ食して飽くことなし。此の鬼は昔、人として貧と嫉妬との故に國王・大臣・豪貴の人に親近して専ら暴悪を行じ、慈悲心なくして正理を行ぜず。諸の善人に軽しめ毀るる者の死して此の執杖鬼と成る。若し人中に生ずれば幽山険谷深河峻岸なんどの危怖處に生る。若し威勢ある者の此路に行けば其をして導かしむと(略抄)。餓鬼の中にも又有り。同經同巻に曰、無食鬼とは、若し水に趣けば水邊に水を守る大力の鬼有て、其の頭を打つと見て苦しむ。人中にありし時、慳貪嫉妬深く、妄語して欺き誑かし我強力なるを恃んで枉げて善人を誣て禁獄し、人の食を禁て死せしめ、自らなし、他に教て作さしめ、曽て改悔ることなき者この中に堕して五百歳を經と。又曰、食水鬼は人として貪欲深くして酒を沽(うる)に水を加へ、灰汁を加へ、或は、蚓を沈めて世の愚人を惑わし施を行ぜず、戒を持たず、法を聴かず、復他人に教へて作さしめ、遂に悔ゆることなき者、死して此の鬼となる。常に飢渇甚だしうして身を焼くが如し。周章し悶走して水を求むれども得ず。其の身堅澁にして焦がれたる鹵地(ろち゛・塩の地)の如く、身裂け壊れて擧體熾然、長き髪面を覆て見所なし。若し人河を渡るに脚より下り、遺落せる餘水を速かに接て飲んで以て活命す。又人ありて河の側にして水を掬て先亡の父母に施すことあらば、則ち少分を得て活命す。若し自ら水を取れば、水を守る諸の鬼杖を以て打つ。身の皮剥て苦痛して叫泣く。若し人中に生ずれば邊地の林も無く水も無く貧窮困厄なる處に住して常に喉の渇くことを苦み、恒に熱病に困むといへり。又長阿含経の十九には閻魔王宮に大鬼あって、晝夜三時に悩ますと見へたり

佛説長阿含經卷第十九第四分世記經地獄品第四「佛告比丘。閻浮提南大金剛山内。有閻羅王宮。王所治處縱廣六千由旬。其城七重七重欄楯。七重羅網七重行樹。乃至無數衆鳥相和悲鳴。亦復如是。然彼閻羅王。晝夜三時有大銅鑊自然在前。若鑊出宮外。王見畏怖捨入宮内。有大獄卒捉閻羅王臥熱鐵上。以鐵鈎擗口使開。洋銅灌之。燒其脣舌從咽至腹。通徹下過無不燋爛。 出宮内。王見畏怖捨出宮外。若出宮外。王見畏怖捨入宮内。有大獄卒捉閻羅王臥熱鐵上。以鐵鈎擗口使開。洋銅灌之。燒其脣舌從咽至腹。通徹下過無不燋爛。」)閻王も是鬼王なり。故に今例とするなり。畜生道の中には亦畜生を噉ふ鬼あり。人中の鬼は上に云が如し。諸天を云ば阿含経に曰、大力の鬼あって忽ちに帝釈の状に坐す。帝釈大に瞋るに鬼の光明轉た盛んなり。帝釈還て慈心を発すに鬼の光明きえて即ち去ると云へり。かくの如くの鬼の怖れあるにも、観音を念ずれば即ち免るることを得たり。二には悪業の鬼。謂く三毒の業の當體即ち鬼なることを云はば、淫は梵行を破す。瞋恚は慈悲を破す。貧鬼は不盗戒を破す。嗜酒鬼は不飲酒戒を破す。虚誑鬼は不妄語を悩ます。乃至十善八定(十善戒、八正道)も亦かくの如し。皆是悪業の鬼、人天の動(散善)不動(八定)の業を悩ます。又別に鬼あって、悪業を発すことあり。大佛頂經の第九に五十の魔を説く中に、若し人、定中に忽然として永滅に帰向して因果を撥無して一向に空に入り、空心現前すれば、空魔其の心腑に入りて、持戒を謗じて是小乗なりとし、大乗は空を悟る、何の持犯かあらんと云て、酒を飲み肉を喰ひ、廣く婬穢を行ず。鬼久しく入りぬれば、或は大小便を食ふこと酒肉と等しくすといへり。是は貪欲を發す鬼なり。又大我慢の魔、人の心に入りて經像を摧毀しむるあり。是は邪見を発す鬼なり。委くは彼の經を見るべし。(大佛頂如來密因修證了義諸

菩薩萬行首楞嚴經卷第九「又彼定中諸善男子。見色陰銷受陰明白。於明悟中得虚明性。其中忽然歸向永滅。撥無因果一向入空。空心現前。乃至心生長斷滅解。悟則無咎非爲聖證。若作聖解則有空魔入其心腑。乃謗持戒名爲小乘。菩薩悟空有何持犯。其人常於信心檀越。飮酒噉肉廣行婬穢。因魔力故攝其前人不生疑謗。鬼心久入或食屎尿。與酒肉等一種倶空。破佛律儀

誤入人罪。失於正受當從淪墜)。是等の鬼難にも観音を専念すれば、悪業速やかに消して鬼難をなすこと能はず。

三には煩悩の鬼。謂く見惑は是れ男鬼、麁強の故に。思惑は是れ女鬼なり、軟弱の故に。此の鬼は實に大千界に満つ。何となれば見惑は三界に歴て八十八使あり。思惑は三界に歴るに十使あり。既に是三界に遍し。豈大千に満るにあらずや。乃至界外の塵沙無明、皆是煩悩の魔なり。豈是鬼にあらずや。此れ等の鬼にも若し一心三観の観音を念ずれば三惑の魔鬼、自在に我が意に随って轉じて復障礙をなすこと能はず。

 

 

 

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 「状況を受け入れることは限... | トップ | 佛説諸徳福田經 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

諸経」カテゴリの最新記事