聖徳太子
内藤湖南
聖徳太子に關して徳川時代の儒者で之を作者(作者とは創造主を意味する)の聖と稱せし人があつたが、之は最も善く當つて居つて、殆んど其の人格の全體を悉して居ると思ふ。支那で作者を聖と稱するのは、即ち人民の爲に其の生活に關する種々の仕事器物など、更に進んでは文物典章を作つた人を聖人とすると謂ふ意味で、伏犧神農以下文武周公
(伏犧・・中国神話上の民族である華夏民族の祖であり、三皇の一柱。伏羲は女媧と共に天地を作り出した創世神であるとされ、非常に古い時代から信仰されてきた。蛇身人首とされる。
神農・・炎帝・人身牛首。人民に農耕を教えた。中国文化の源とされる。
文武・・文王と武王のこと。文王は周王朝の始祖。武王の父。殷代末期に、太公望など賢士を集め、渭水盆地を平定して周の基礎を築いた。古代の聖王の模範とされる。
武王は周王朝の始祖。文王の子。父の没後、紂王を討って殷を滅ぼし天下を統一、鎬京を都として即位。封建制度を創始。
周公・・兄の武王を助けて殷を滅ぼし、武王の死後、幼少の成王を助けて王族の反乱を鎮圧。また、洛邑(洛陽)を建設するなど周王室の基礎を固めた。礼楽・制度を定めたといわれる。儒家の尊崇する聖人の一人。)
に至るまで皆さう謂ふ性質の人である。日本では勿論人民の生活に關する一般的のことは前から自國で發明されて居ることも有り、又聖徳太子以前に於て支那から輸入されたこともあるが、しかし其の内外の文化を巧く煉り合せてそして今日の日本文化の基礎を作り、その當時の日本文明を建設したと謂ふ點に於ては聖徳太子以上の人は無い。
聖徳太子は永い日本の歴史に於て啻に佛教家に尊崇されるのみならず、大工左官などの職人の祭る神としてもあがめられて居るのは、明らかに其の作者たることを證據だてて居るものと謂つても宜しい。それが爲に佛教に反對し施ひいて聖徳太子にも反對する所の儒者でさへも、聖徳太子の作者たるの點に於ては異議が無いので、恰も支那の聖人と謂はれる人々と同じ意義に於て之を作者と稱したのである。其の文明の建設者としての事業の中最も主なることに就いて茲に二三述べてみようと思ふ。