福聚講

平成20年6月に発起した福聚講のご案内を掲載します。

昨日(旧暦涅槃会の日)慈雲尊者ゆかりの寺寺をお参りできました。その1。

2013-03-27 | 講員の活動等ご紹介
昨日三月二十六日は旧暦の二月十五日に当たりお釈迦様入滅の日でもありましたがこの日縁あって花冷えの中、大徳の方々の驥尾に付して慈雲尊者ゆかりの野中寺、高貴寺等を参拝でき感無量でした。慈雲尊者に惹かれて数十年、昨年は悉曇免許も師から頂いたうえ、このようにありがたい法縁に浴することができ改めてありがたさに涙した日でもありました。あまりのありがたさに概要を記録しておき今後駑馬を打つ鞭にすることといたしました。

1、野中寺
聖徳太子建立の48寺院の一つで太子の命を受けた蘇我馬子が開基とされます。「上之太子」叡福寺、「下之太子」大聖勝軍寺とともに「中之太子」と呼ばれています。野中寺は江戸時代に慈忍慧猛律師により復興され四分律の拠点として明治維新まで多くの律僧の養成にあたってきました。
頂いた資料によると、慈雲尊者は十九歳から二十一歳までここ野中寺で入衆されています。ここで叡尊以来の自誓受戒の前行として好相行を修せられ、好相を感得され沙弥寮から比丘寮に移られたとのことです。尊者のおられたこれらの寮や尊者の好相行を修せられた部屋もそのまま残っています。ここでは比丘になるためには好相行で好相を感得しなければならず、感得した場合はご本尊のご真言を唱えつつ二の腕に大束のお線香で焼け跡を印するということです。そうすると楕円形の焼けどあとがつき、これを「ひじ香」というそうです。好相行とは不断念仏の中で一日六時に懺悔をし、その中で不思議体験をするものです。三,四週間から二,三か月かかるといいます。明治時代、山中ゆうほうという人が目白僧園で釈雲照律師に「ひじ香」をみせて行の疑いを解いたことがあったということです。最近では386代金剛峰寺座主土宜法龍師、403代金剛峰寺座主堀田真快師も若き日ここで行じられたといいます。
ただ後に慈雲尊者はここの四分律ではなく釈尊の時代に戻れと高貴寺等で正法律を提唱されるようになりました。ここでご住職に四分律の袈裟をみせていただきそこでいままでわからなかった「開葉」の意味が分かりました。要は袈裟の「葉」の部分の下側が縫ってないというものでした。想像はしていたのですがじっさいに見て納得できありがたいことでした。
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