今日は聖徳太子様の日です。太子は、敏達天皇3年1月1日(574年2月7日)生まれで推古天皇30年2月22日(622年4月8日)に薨去されています。 . . . 本文を読む
寛治二年1088二月二十二日、白河上皇が高野山参詣に出発されています。これが天皇の高野山参詣の始めとされています。このとき白河燈が灯されたとされます。(白河上皇高野山参詣記)
「寛治二年、歳次戊辰、二月二十二日己亥、天晴、今日太上皇為遂多年之蓄懐、参詣高野之聖跡、自去十三日有御潔斎、西面御門立犬禦禁機悪事、御進発大儀在昨日、而依雨延及今日、巳甦、摂政参入、・・・」
廿七日、甲辰・・・指廟堂参御 . . . 本文を読む
今日は蒙古再再襲来に備え孔雀経法七佛薬師法が宮中で修せられた日「七佛薬師法現行記」に「正応六年1293/二月二十二日 異国降伏の為、禁中に於いて同法(七佛薬師法)修せらる。」「孔雀経御修法記」に「正応六年1293/二月二十二日己酉、異国降伏の為、大聖院御所に於いて孔雀経法始めらる。阿闍梨は御室・・」天皇は伏見天皇。鎌倉幕府は久明親王、執権は北条貞時。四月には鎌倉大地震が起こりますが、当時はその予兆 . . . 本文を読む
今日は第253世天台座主山田恵諦老師遷化の日です。以下ウキぺデアに依ります。「明治28年(1895年)12月1日、兵庫県揖保郡太子町に生まれる。平成6年(1994年)2月22日遷化。98歳没。老師は10歳で出家、16歳で比叡山に入る。大正9年(1920年)天台宗西部大学卒業。 天台宗教学部長、天台宗勧学院院長、延暦寺本坊滋賀院門跡をへて、昭和49年(1974年)、に就任。「一隅を照らす運動」総裁。 . . . 本文を読む
金山穆韶師高野山管長猊下ご就任の挨拶(昭和28年2月22日78歳)「今回老納、座主管長として推薦を辱うしましたけれども、なにぶん老境に入ったことでもあるし、本来ならば真別処に居て観佛三昧に住し余生を送りたいであります。しかし幸いにして我が日本も独立国家となったけれど、経済力からいうも防衛力よりいうも外国の援助にたよらなければならぬ状態でありますし、その上、国民がキリスト教にでも皈向し、幾千年の間に . . . 本文を読む
今昔物語集巻十一「 聖徳太子於此朝始弘仏法語 第一」
今昔、本朝に聖徳太子と申す聖おはしけり。用明天皇と申ける天皇の、始て親王に御ける時に、穴太部の真人の娘の腹に生せ給へる御子なり。
初め、母夫人、夢に金色なる僧来て云く、「我は世を救ふ誓有り。暫くそこの御胎に宿むと思ふ」と。夫人、答て云く、「此れ、誰が宣へるぞ」と。僧、宣はく、「我は救世の菩薩也。家は西に有り」と。夫人の云く、 . . . 本文を読む
聖徳太子は一族を日本国の人柱とされたこと
聖徳太子の一族は滅びていますが今までこれを不思議におもっていましたがその深い理由が分かった気がしました。結論は「一族をして日本国の為に人柱となし給うた」と云う事です。以下の「法隆寺の玉虫厨子の捨身飼虎図(参考1)」と「徒然草第六段(参考2)」「大和古寺風物誌・亀井勝一郎(参考3)」によりわかります。
参考1,法隆寺の玉虫厨子の捨身飼虎図は有名です。菩薩 . . . 本文を読む
聖徳太子が薨去されたのは御年四十九歳推古天皇の三十年二月二十二日夜半でした。日本書紀には人々が嘆き悲しんだ様子が書かれています。
(日本書紀推古天皇)廿九年春二月己丑朔癸巳(二月二十二日)、半夜、厩戸豐聰耳皇子命薨于斑鳩宮。是時、諸王諸臣及天下百姓、悉に長老、愛兒を失うふが如く而も鹽酢之味在口不嘗(あぢはひ口に在れども嘗なめず)、少幼、如亡慈父母以哭泣之聲滿於行路(少幼者わかきは . . . 本文を読む
・22日は聖徳太子の日です。太子は推古天皇30年(622年)妃・膳大郎女が2月21日に没した後を追うようにして翌22日、薨去されました。上宮聖徳法王帝説では「二月廿二日夜半聖王薨逝也」とか「二月廿二日甲戌夜半太子崩」とあります。
・聖徳太子ゆかりの広隆寺・法隆寺では3月22日、四天王寺等では4月22日に聖徳太子の遺徳を偲ぶ法会が行われているようです。・太子は自ら『三経義疏』を著し、十七条憲法では . . . 本文を読む
上宮太子御記(親鸞聖人撰述)「釈迦の正覚なしたまひし日より涅槃にいたりたまふよにいたるまで、ときたまへるところのもろもろのみのり、ひとつもまことにあらざることなし。始めには華厳を説いて解らしめたまふ。日のいでまず高峰を照らすが如し(華厳経「宝王如来性起品」に「譬えば、日出でて先づ一切の諸の大山王を照し次に一切の大山を照し、次に金剛宝山を照し、然る後、普ねく一切の大地を照す」)。つぎに阿含をのべて声 . . . 本文を読む
弘法大師全集にある「上宮太子廟参拝記文」です。 「上宮太子廟参拝記文 嵯峨天皇の御宇、弘仁元年河内の国の聖所に於いて道場を建立し、籠居の處を卜する之間、上宮聖王の御廟に参詣する事一百箇日也。第九十六日の夜半一霊建有。御廟洞之内に微妙の小音有りて大般若理趣分を誦す。音に応じて光明在り。爰に空海祈念すらく、この妙事誰人の所為ぞや。願わくは我に示せと。所願に応じて廟窟の前に一の光明輪あり。美妙の音有り . . . 本文を読む
徳治三年(1307)二月二十二日は後宇多法皇が醍醐寺憲淳にあてて宸筆を発せられた日です。国宝・後宇多法皇宸筆当流紹隆教誡国宝・後宇多法皇宸筆当流紹隆教誡(第一通目) 一通以下、「宸翰英華」等に依ります。後宇多上皇は醍醐寺報恩院憲淳に信頼を置いておられたが、憲淳が病篤となり上皇は書を以て憲淳の三宝院流を伝授してもらい三宝院流の正嫡となろうと考えられた。もともと後宇多上皇は退位後の徳治二年(1307) . . . 本文を読む
結論は「太子が子孫を絶やす算段をされたから」となります。
徒然草第六段「わが身のやんごとなからんにも、まして、数ならざらんにも、子といふものなくてありなん。」に以下のようにあります。
「前中書王(兼明親王(914~987)子は源伊陟)・九条太政大臣(藤原良経、子は六人)・花園左大臣(源有仁、子は四人)みな、族絶えん事を願ひ給へり . . . 本文を読む
・世田谷区太子堂円泉寺・川崎大師太子堂・源証寺(太子堂)足立区入谷2-15-25・明福寺(太子堂)江戸川区江戸川3-8-1・南蔵院しばられ地蔵(太子堂)葛飾区東水元2-28-25・高輪神社(太子堂)港区高輪2-14-18・富岡八幡宮(聖徳太子社)・圓成寺 町田市鶴間1210等 . . . 本文を読む