菩提僊那は婆羅門僧、唐に滞在中に入唐僧理鏡や第十次遣唐副使中臣名代らの招請を受けて開元24年 / 天平8年(736年)に来日。天平勝宝4年(752年)に東大寺大仏殿の開眼供養法会で婆羅門僧正として導師を務めた。弟子の修栄が撰した『南天竺婆羅門僧正碑』および『東大寺要録』中の「大安寺菩提伝来記」に伝記が残されている。
菩提僊那は華厳経の諷誦に優れ、密呪にも通じていた . . . 本文を読む
本日2月25日は、“学問の神様”菅原道真の命日です。学問とは何であるのか?と考えることがあります。以前は単位に「読書や研究が好きだから」と思うことがありましたが、最近ある言葉に触発されて「学問を含むすべての活動は人々の未来をよりよくするため」といえるのではないかと思い始めました。以前テレビで、物理が天才的にできるようになった高校生はその理由を、先生から「物理は未来を予測する . . . 本文を読む
菅原道真公は承和12年6月25日(845年8月1日)生まれ - 延喜3年2月25日(903年3月26日)薨去。平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。参議・菅原是善の三男。官位は従二位・右大臣。贈正一位・太政大臣。忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて、寛平の治を現出、醍醐朝では右大臣にまで昇った。しかし、左大臣・藤原時平の讒訴で大宰府へ流され現地で没。死後天変地異が多発したことから、天満天神として . . . 本文を読む
五重塔、三重塔、宝篋印塔など多くの種類の塔が建てられていますが、それぞれ意味があるようです。・五輪塔婆・・通常「塔婆」という、五輪塔の地輪を長くして柱状に作ったもの、お墓に立てる。これらの塔婆につき「真俗仏事編」には「「五輪の塔婆は大日如来の三摩耶形であるがゆえに、あらく刻んだ小塔婆であってもこれは如来法身の法界塔婆である。または法界体性の標識とする。かの弥勒菩薩が五輪塔をもっておられるのも衆生の . . . 本文を読む
古今著聞集と今昔物語の上総守時重の法華経書写霊験の話
・古今著聞集「上総守時重千部經讀誦を發願して神感を得る事」
「一条院の御時、上総守時重といふ人あり。千部の法花経讀誦の願、心中に深かりけれとも、身まつ゛しくして僧一人かたらふへ゛き計なし。思かねて日吉社に詣て゛二心なく祈申けるに神感ありて、はからさ゛るに上総守に成にけり。任国の最前の得分をもて千部の経をはし゛めてけり。其夜の夢に貴僧枕に来て . . . 本文を読む
今日24日は愛宕の日です。
愛宕信仰は、京都市の愛宕山山頂の愛宕権現様の信仰です。
愛宕権現はイザナミを垂迹神として地蔵菩薩を本地仏としています。神仏分離・廃仏毀釈が行われる以前は、愛宕山白雲寺から勧請されて全国の愛宕社で祀られていました。愛宕権現は、大宝年間、修験道の役小角と泰澄が山城国愛宕山に登った時に天狗(愛宕山太郎坊)の神験に遭って朝日峰に神廟を設立したのが、霊山愛宕山の開基と伝です。 . . . 本文を読む
今日は第253世天台座主山田恵諦老師遷化の日です。以下ウキぺデアに依ります。「明治28年(1895年)12月1日、兵庫県揖保郡太子町に生まれる。平成6年(1994年)2月22日遷化。98歳没。老師は10歳で出家、16歳で比叡山に入る。大正9年(1920年)天台宗西部大学卒業。 天台宗教学部長、天台宗勧学院院長、延暦寺本坊滋賀院門跡をへて、昭和49年(1974年)、に就任。「一隅を照らす運動」総裁。 . . . 本文を読む
金山穆韶師高野山管長猊下ご就任の挨拶(昭和28年2月22日78歳)「今回老納、座主管長として推薦を辱うしましたけれども、なにぶん老境に入ったことでもあるし、本来ならば真別処に居て観佛三昧に住し余生を送りたいであります。しかし幸いにして我が日本も独立国家となったけれど、経済力からいうも防衛力よりいうも外国の援助にたよらなければならぬ状態でありますし、その上、国民がキリスト教にでも皈向し、幾千年の間に . . . 本文を読む
今昔物語集巻十一「 聖徳太子於此朝始弘仏法語 第一」
今昔、本朝に聖徳太子と申す聖おはしけり。用明天皇と申ける天皇の、始て親王に御ける時に、穴太部の真人の娘の腹に生せ給へる御子なり。
初め、母夫人、夢に金色なる僧来て云く、「我は世を救ふ誓有り。暫くそこの御胎に宿むと思ふ」と。夫人、答て云く、「此れ、誰が宣へるぞ」と。僧、宣はく、「我は救世の菩薩也。家は西に有り」と。夫人の云く、 . . . 本文を読む
聖徳太子は一族を日本国の人柱とされたこと
聖徳太子の一族は滅びていますが今までこれを不思議におもっていましたがその深い理由が分かった気がしました。結論は「一族をして日本国の為に人柱となし給うた」と云う事です。以下の「法隆寺の玉虫厨子の捨身飼虎図(参考1)」と「徒然草第六段(参考2)」「大和古寺風物誌・亀井勝一郎(参考3)」によりわかります。
参考1,法隆寺の玉虫厨子の捨身飼虎図は有名です。菩薩 . . . 本文を読む
聖徳太子が薨去されたのは御年四十九歳推古天皇の三十年二月二十二日夜半でした。日本書紀には人々が嘆き悲しんだ様子が書かれています。
(日本書紀推古天皇)廿九年春二月己丑朔癸巳(二月二十二日)、半夜、厩戸豐聰耳皇子命薨于斑鳩宮。是時、諸王諸臣及天下百姓、悉に長老、愛兒を失うふが如く而も鹽酢之味在口不嘗(あぢはひ口に在れども嘗なめず)、少幼、如亡慈父母以哭泣之聲滿於行路(少幼者わかきは . . . 本文を読む
・22日は聖徳太子の日です。太子は推古天皇30年(622年)妃・膳大郎女が2月21日に没した後を追うようにして翌22日、薨去されました。上宮聖徳法王帝説では「二月廿二日夜半聖王薨逝也」とか「二月廿二日甲戌夜半太子崩」とあります。
・聖徳太子ゆかりの広隆寺・法隆寺では3月22日、四天王寺等では4月22日に聖徳太子の遺徳を偲ぶ法会が行われているようです。・太子は自ら『三経義疏』を著し、十七条憲法では . . . 本文を読む
上宮太子御記(親鸞聖人撰述)「釈迦の正覚なしたまひし日より涅槃にいたりたまふよにいたるまで、ときたまへるところのもろもろのみのり、ひとつもまことにあらざることなし。始めには華厳を説いて解らしめたまふ。日のいでまず高峰を照らすが如し(華厳経「宝王如来性起品」に「譬えば、日出でて先づ一切の諸の大山王を照し次に一切の大山を照し、次に金剛宝山を照し、然る後、普ねく一切の大地を照す」)。つぎに阿含をのべて声 . . . 本文を読む