新イタリアの誘惑

ヨーロッパ・イタリアを中心とした芸術、風景。時々日本。

パリ・モンマルトル紀行④ サクレクール聖堂からパリ市内を眺望する

2017-01-14 | パリ・モンマルトル

 ケーブルカーで高台まで一気に上がった。サクレクール聖堂をバックにパリ市街を見下ろす。西には高層建築群がずらりと並ぶラ・デファンス。

 南にはモンパルナスタワーがよく見える。

 手前にはオペラ座の屋根とアンヴァリッドのクーポラも。

 街を一望する絶好のポイントだ。


 聖堂正面には2つの像がある。左の騎乗者は聖ルイ王。

 右はジンヌ・ダルクだ。

 朝日がジャンヌの姿を影絵にして向かいの壁に映し出していた。

 正面入り口の壁面にはいくつかの浮き彫りが見つかる。これはキリストが民衆に施しを授けているところだろうか。

 こちらはキリスト磔刑の場面。

 中に入った。
 聖堂最奥で、キリストが両手を広げて立ち上がってる大きな絵が飛び込んできた。これは「キリストの聖心礼拝」。オリヴィエ・メルソンの作だ。

 脇に描かれた建物の恰好など、ビザンチンを思わせる。

 中央のドームから光が差し込む。

 建物自体が教会としては新しいものだけに、ステンドグラスも斬新な感じだ。

 聖人たちも現代風に表現されているようだ。

 聖堂の出入り口から見えるパリの市街も、なんだか詩的な雰囲気を感じさせるものだった。
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パリ・モンマルトル紀行③ シュザンヌ・バラドン広場と子供たち

2017-01-10 | パリ・モンマルトル

ピガール広場を過ぎると、クリシー大通りからロシュシュアール大通りに変わる。その角には「ブラッスリー・ド・レッシュショフェン」というカフェがあった。

 ここはマネのお気に入りの店だった。角地にあるため人々の往来もよく見え、晴れた日には陽光が店内にまで降り注ぐ。パリの街をよく歩き、スケッチをしていたマネは、ここで語り合う人たちの姿も活写した。




 マネの書いた「カフェにて」と「カフェコンセールの一隅」の2枚は、元々このカフェの風景を描いた1枚の絵だったが、マネ自身が2枚に分けたものだという。

 シルクハットの紳士は、マネのモデルだったエヴァ・ゴンザレスの夫、帽子の女性は女優のエレン・アンドレだ。

 今は別の名前のカフェになっているが、当時と変わらず多くの人たちがここでパリの朝のひと時を過ごしていた。

 地下鉄アンベール駅に着くと、サクレクール聖堂が見えてくる。

 ここから急な上り坂をケーブルカー乗り場に向けて歩く。ちょうど登校時間なのか、小学生たちが続々と学校に吸い込まれて行く。

 その学校横に標識があるのを見つけた。「シュザンヌ・バラドン広場」。

 そう、モンマルトルに住んだ女流画家。10代でモデルを始め、ロートレックから絵の才能を認められ、ルノワールに愛され、エリック・サティと交際した恋多き女性。


 そして、モンマルトルの哀愁に満ちた風景画を描いたユトリロの母でもあった。

 ルノワールの代表作の1つでもある「ブージバルのダンス」のモデルは、彼女シュザンヌだ。

 このように芸術家の名前を冠した地名はよく見かけるが、そうした場所で育った子供たちの胸には、有形無形の何かが育まれていくのだろうという気持ちを抱いた。

 ケーブルカーに乗れば、あっという間にサクレクール聖堂に到着する。聖堂は、間近で見るとさすがに大きい。ドームの高さは83mだが、元々パリ市内で最も高い地点に建っているので、エッフェル塔と並んでどこからでも見つけることができるランドマークだ。

 この高台にかつては貧しく、だが野望を抱えた青年たちがこぞってやってきた。ピカソがスペインから、モディリアニがイタリアから、ゴッホがオランダから・・・。


 聖堂の完成は1919年。第一次世界大戦の終わった後のことだ。従ってゴッホもマネも、ロートレックも、実はこの壮麗な聖堂を見ることなく生涯を終えていたことになる。
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パリ・モンマルトル紀行② ゴッホの絵が初めて展示されたカフェ

2017-01-07 | パリ・モンマルトル

 朝、三日月の残る青空と共に目覚めた。

 モンマルトル巡りは、地下鉄ブランシェ駅前からスタート。春の柔らかい日差しの下、クリシー大通りは明るい光に包まれている。

 日の昇る東に向かって歩き出す。ほどなく通り左側に、あの黒猫のイラストが見えた。
 キャバレー・シャノワール。1884年にモンマルトルで開業して人気を博し、多くの芸術家が店内に作品を展示した店が、今はカフェに姿を変えて、このクリシー大通りにある。

 黒猫のポスターはテオフォル・スタンランのデザインだ。まだ朝早いため開店前。店員が忙し気に開店準備を進めている。

 そこからすぐ先の角は、カフェ・デュ・タンブランがあった場所。

 建物のたたずまいは今も同じ感じだ。

 今はカフェはなくなり、ケバブの店が入っていた。

 ここから数百メートル北へ入ったルピック街54番地にはゴッホの住んでいたアパートがある。

 1886年3月、オランダからパリに出たゴッホは弟テオの住むこのアパートを訪ね、約2年間生活を共にした。

 この家から坂道を約400m下ると、カフェ・タンブラン。


 店のオーナー アゴスティーナ・セガトーリは、貧乏なゴッホのために食事代を絵で支払うことを認めたり、彼のモデルを務めたりしたこともあった。ゴッホに取って初めての「パリの行きつけの店」となり、彼の絵が公の場で初めて展示されたのもこの店だった。

 ゴッホ最初のパリ生活は2年間で終わりを告げ、1888年2月、南仏のアルルへ旅立っていった。


 滞在中アパートの窓から眺めたパリの街風景が作品となって残されている。「ルピック街からのパリの眺め」。後期のあの強烈なタッチと違って、このころの絵は繊細さが目立つ作品になっていた。
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パリ・モンマルトル紀行① 夕闇の中に赤い風車が浮かび上がった

2017-01-03 | パリ・モンマルトル


 新年はパリの街からスタートしよう。
 といっても、オペラ座やシャンゼリゼといった中心街ではなく、北部の高台にあるモンマルトルの探索だ。ピカソ、モディリアニ、ルノワール、ユトリロといった多くの才能が、無名の若者群の中から時代の寵児として表舞台に駆け上がる拠点となった場所だ。

 まずは、そんなパリ北部の街をゆっくりと歩いてみよう。


 モンマルトル巡りのためパリのホテルに着いたのは、ほんの少し前に夕日が沈み、夕闇が広がりだそうとするころだった。

 地下鉄ブランシェ駅から外に出ると、地下鉄標識越しに突然風車が出現した。

 にぎやかなビル街に、まるで不自然な風車。でも、それが、ロートレックがこよなく愛し、その官能的な光景を作品に仕立て上げたキャバレー「ムーラン・ルージュ」であることに気付くのに、さほど時間はかからなかった。

 モンマルトルへの旅。そのスタートの時に巡り合ったのがムーラン・ルージュなら、まさにこのたびのテーマにピッタリ。

 幸先の良いタイミングでこんなシーンと出会えて、心が弾んだ。

 さあ、明日からは、モンマルトルで情熱を燃やした若き精鋭たちの足跡を巡る旅のスタートだ。
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