彦根藩二代当主である井伊直孝公をお寺の門前で手招き雷雨から救ったと
伝えられる招と、井伊軍団のシンボルとも言える赤備え(戦国時代の井伊
軍団編成の一種、あらゆる武具を朱りにした部隊編成のこと)と兜(かぶ
と)を合体させて生まれたキャラクタ-
太陽光発電を行い、その電力を駆動用電池および補機バッテリー系統へ供
給するシステム。
✨ 世界初の量産技術を確立
バクテリアが直す自己治癒コンクリート世界初の量産技術を確立
🎈 https://xtech.nikkei.com/atcl/nxt/column/18/00107/00137/
✳️ 「新自由主義と民主主義」⓵
夜千冊 1386夜 交貨論 2010.10.09
山口二郎編 ポスト新自由主義 より
本書の場合は、金子勝(1353夜)との対話でだいたいが出来ている。
第1には、世界金融危機の本質は資源インフレと資産デフレによるものだ
った。すなわち石油と食糧のインフレと、バブル崩壊による資産デフレ、
この二つが同時に進行したスタグフレーションだった。金子によれば、こ
の対策にもはやマクロ経済政策もミクロ経済政策も効き目はない。
第2に、この現状に対してオバマがやろうとしているのは環境投資政策で、
それがグリーン・ニューディールなのだが、これはいわば「隠れたシュン
ペーター・ヴィジョン」ともいうべきもので、半分はクリントン時代の産
業政策の継承、半分はケインズ政策の復活。つまり、シュンペーター流の
「創造的破壊」にあって、そのためにジョン・ポデスタやロバート・ゲイ
ツなどの英才を起用。金子からすれば、そこには他方で大胆な損失処理が
伴うはずだから、それを失敗すれば元も子もなくなる。
第3に、日本は、金融立国に代わる産業政策を早めに確立すること。すで
に小泉時代に財政の3つの経費、国債費と社会保障費と地方財政対策費の
3つともを組み立てそこなる。さらには雇用が崩壊し、貿易赤字国になっ
たから、まったく新しい産業構造を提案しなければならない。
例えば、今村奈良臣が提唱した「第六次産業化」。加工(第一次産業化)
流通(第二次産業化)、販売・サービス(第三次産業化)のそれぞれに付
加価値をつけ統合化するという方策。
🪄この折、わたしは、「デジタル革命渦論」の「第四次産業化」とテレ―
ポーテションなどの超人類指向とした「第五次産業化」を想定し、提案し
ている(2010年前後と記憶)。
もとい、自治省(現在の総務省)出身で、鳥取県知事を8年間務めた片山
善博は、その後は慶応で地方自治を教え、テレビのコメンテーターなどで
顔を売ったのちは、いまは菅民主党政権の総務大臣になった。その片山が
夕張市の経営破綻について、「人口たった1万数千人の自治体がなんと、
600億円の債務(経理上は400億円弱)で倒産」した理由を、
なぜ借金が膨らんだかというと、「正規の借金」と「闇の借金」の両方
がか嵩み、それを市長も議会も無チェック(放置)。正規の借金は地方債
で、それが300億円になった。地方債は10年で返すから、1年で元金
だけで30億円を返す必要がある。夕張市の財政は43億円程度(地方税
と地方交付付税交付金)だから、30億円ずつ返すのは不可能。加えて、
闇の借金も300億円近かく、金融機関から借りた金で、これは一時借入
金で「転がし」する。たとえば4月1日に銀行から300億円借りて、年
度内の3月31日にそれを返して、また4月1日に借りる。つまりは粉飾
経理すると。片山は鳥取県知事時代に、「日本の地方議会は八百長ばかり
が多い」と言って物議をかもしている。片山は「議会の根回しをしない」
と言って知事になったが、そのため修正や否決が日常化、そういう議会で
ないかぎり、地方政治はヘタる。では、この体験を民主政権にいて国政に
生かせるはづであった。
3番手の高橋伸彰は早稲田の政経出身で、日本開発銀行(現在は日本政策
投資銀行)をへて、立命館の国際関係学部に所属し、『優しい経済学』(
ちくま新書)や『グローバル化と日本の課題』(岩波書店)などの著書が
ある。高橋は父が北海道の北炭に勤め、三笠という炭鉱町に生まれで、夕
張にもいた。当時、北炭(北海道炭礦汽船)は政商として有名な萩原吉太
郎の企業だが、すでに“黒いダイヤ”と呼ばれてきた石炭産業は石油化学産
業に押され崩壊し、ポスト石炭時代をどうするかという課題が全面化。夕
張市は「石炭の歴史村」「夕張メロン」「マウントレースイ・スキー場」
「夕張国際映画祭」といったポスト石炭の市政に打って出たが借金をした
から破綻した、ここから片山の話と微妙にくいちがってくる。高橋は、夕
張市は借金はしたもののいずれも斬新な施策だったが、当時、中田鉄治市
長だったが、それが結局は財政破綻に陥いる。その中田が助役のころ、高
橋は日本開発銀行時代に融資を頼まれる。25億円の融資を頼まれ、高橋
は承諾したが、本店が蹴った。中田はそのとき、銀行はもっと貸さなきゃ
ダメだ。借り手によってその投資がいくらでも大きくなって返ってくるん
だという哲学をぶちまける。炭鉱町に住み、中田のことも知っていたせい
か、高橋が夕張破綻を見る目は片山とは違っていて、まず、かつて北炭は
町そのもののインフラをさまざまに提供。多くの炭鉱社員の社宅をクラス
別に作り、水道代も電気代もタダ同然で提供し、病院を設立し、映画館な
どの娯楽施設も建てが、次に、その北炭が閉山に追いこまれたとき、萩原
吉太郎は新鉱開発に資金を投じたのだが、その夕張新鉱がわずか8年で93
人の犠牲者を出し、さらなる閉山に追いこまれ、萩原は「資本の論理」に
敗退していった。
夕張市が財政破綻になったのは、夕張からすべての炭鉱が消えた1990
年からだと高橋には見る。このとき中田市長は夕張市が北炭からインフラ
を買い取り、それを維持管理するために借金をしてでもがんばれば、その
借金をいずれ国や道がある程度は肩代わりしてくれると予想していたはず、
それがダメになったのは、小泉竹中の改革が自己責任論を持ち出して、一
挙に自己破産宣告を誘導したと、高橋はそのように見た。このことを本書
では、「文明は合理的だが、文化は非合理ながらもみんながそのルールを
いかしているから、何かが失敗したとしても、それをすべて文明の合理で
切り裂いていくのはどういうものかと語る。
むろんその通りだ。だが、そこをどうするかである。『二つの自由主義』
のジョン・グレイ(1357夜)はそこに「暫定協定」という方法を入れ
たわけだった。たとえば福祉である。これまで福祉を支えてきたのは、①
人間が互いにもっているだろう慈愛心、②さまざまな社会保険システム、
③企業福祉力、この3つである。
①の慈愛心はよほど子供時代に教育されないと、なかなか発揮できず、②
の社会保険システムは国家の福祉政策の根幹になっている。実は何をリス
クとみなすかが難しいといのも、みんなが同じリスクに直面しているとい
うことなど、ありえないから。③の企業福祉力は、それこそ昭和40年代
までの北炭のような企業にあったものだったが、いまは薄れてしまった。
その理由は、資本がグローバルに動きまわり、生産拠点もまた好きなとこ
ろへ移動できるようになって、企業と従業員の関係が地域から離れていっ
たからだった。もうひとつは社会主義国家がさかんに打ち出していた「人
の一生の面倒を見る計画経済」が破綻した。さらにここにコンプライアン
スが加わる。
こうして福祉に代わって「セーフティーネット」と「再分配システム」の
しくみを用意するという考え方が浮上した。高橋もいっときはここに最大
の突破口があると見ていたが、この突破口はグローバル資本主義が大手を
ふっているあいだはムリがあるというふうに思うようになった。いくら再
分配をしようとしても、その前にグローバル資本主義がもっと大きな所得
と格差をつくりだす。そこでは、資本主義そのものがもたらすトータルな
総資本に戻って、そこからの配分方式を変更しないかぎりは、新たな突破
口はつくれない。ウォーレン・バフェットやビル・ゲイツばかりにお金が
集中していくのでは、つまりは株主が儲かるか儲からないかというビジネ
ス社会ばかりで、たまに大儲けした連中がいくらそのあとに慈善行為をし
てみせようと、社会はなんら変わらない。
信用の供与で仮想的な取引拡大していくような社会では、もう無理がある。
そうではない信用によって組み直された社会が必要であると。新たな信用
や価値の産出にとりくまないとダメなのだ(グレイはそこで「暫定協定」
を持ち出す)4番目の上野千鶴子(875夜)のセッションは、高橋の福祉
論や再分配論を多少は受けるかっこうで、「わたしのことはわたしが決め
る」というふうになっている。上野さんらしいタイトルだ。中身は、上野・
中西正司の共著『当事者主権』(岩波新書)にも述べられていたラディカ
ルな提案に近いもので、そうとうに説得力がある。ちなみに中西は20歳
のときに交通事故で四肢麻痺になり、1986年に八王子で障害者が自立
するためのヒューマンケア協会を立ち上げ、いまは全国自立生活センター
協議会の代表として活躍。
「当事者主権」という言葉は、いい。世の中では「社会的弱者」などと呼
ばれることが多いが、上野や中西はその弱者が何かをしてもらおうとする
だけでなく、自分から「したいこと」も「してもらいたいこと」も決めて
いくようにするべきだと言う。社会が弱者だと規定するその当事者が、自
分のほうから主権を主張して動く。
これはたんなる自己決定や自己責任なのではない。それはネオリベ(新自
由主義)が言いたがる。英語でいえば“self governance”
(自己統治)とか“individual autonomy”(個人の自律)というふうになる。
たんなる自立ではなく、自律。その当事者の自律的な運動が「わたしのこ
とはわたしが決める」なのである。このような主張や運動が重要になって
くるのは、2000年に高齢者に対する介護保険の概念が大きく変わった
からだった。福祉は「措置」から「契約」へ、「恩恵」から「権利」へと
変わった。それなら高齢者こそが当事者にならなければならない。高齢者
だけが当事者になるだけでは足りない。官も民も変わらなければならない。
新自由主義の構造改革は社会保障を総量規制のもとに押しこみ、官から民
を標榜した。それではダメだ。上野は、官・民・共・協・私の「福祉ミッ
クス」にならなければいけないと言う。「共」や「協」というのはコモン
ズのことをいい、このような発想や展望は、新自由主義者には逆立ちして
も思いつけない。それをポスト新自由主義というのかどうかは知らないが。
上野はラディカルで冴えまくっているが、詳しくは中西との共著の『当事
者主権』と、評判の『おひとりさまの老後』(法研)を、また『老いる準
備』(朝日文庫)や『ニーズ中心の福祉社会へ:当事者主権の次世代福祉
戦略』(医学書院)の読書を勧めたい。最後のゲストスピーカーの柄谷行
人(955夜)は、講演タイトルは「地域自治から世界共和国へ」だが、
話のほうはもっとざっくりしたもので、『世界共和国へ』(岩波新書)を
読んだほうが早い。そのかわり、この講演では社会学から「部分社会」と
いうキーワードを引っ張り出して、これを本来の意味での「アソシエーシ
ョン」から始まって、それらをネットワーク的につなげていくことで、き
っとそのモデルの姿をあらわすことができる。柄谷はそう考えて、「ぼく
は世界共和国の原理は、贈与の原理や互酬性の原理にもとづくものだろうと
思っています」と締めくくる。
🪄グローバリズムと新民主主義 2025年」の考察を開始していく。
雅楽『越天楽:Gagaku:Etenraku』
● 今日の言葉:克己常態 ラストスパート
春が来ても、鳥たちは姿を消し、鳴き声も聞こえない。
春だというのに自然は沈黙している。
レイチェル・カーソン 『沈黙の春』
(因果報応の季節風)より