どんなに壁が正しくて、
どんなに卵がまちがっていても、
わたしは卵の側に立ちます。
村上 春樹
台風17・18号のダブル台風は甚大な大雨をもたらした。だが、避難指示・
方法・避難施設の瑕疵などをのけば、これはあくまで限定的だが、『デジタ
ル革命渦論』に象徴される科学技術の進歩により刻々と変化する状況を正確
に伝たえることで、かってない人的被害の防止に成功しているようにみえる。
上下の海外メディアの報道写真と報道などにその一端をみることできるだろ
う。心配ななことは福島県飯館村の河川氾濫により除染袋が散乱したとのニ
ュース。福島第一原発周辺の汚染水の拡散の有無も心配だ。
記録的な大雨をもたらした直接の要因は、関東地方の上空に南北に延びた「線
状降水帯」と呼ばれる雨雲の連なり。昨年の広島で土砂災害の大雨もこの線状
降水帯が原因だが、今回の規模は広島の土砂災害を上回る――通常の降水帯は
幅が5キロ程度だが50~100キロに渡る。降水帯が大きくなった最大の原
因は、温帯低気圧に変わった台風18号が日本海上で停滞し低気圧の東側に南
からの湿った空気が流れ込み、東に位置する台風17号の東風が南風とぶつか
り、南北に雨雲が挟まれる形で長時間にわたり停滞。加えて、日本列島の西の
上空に広がる寒気団も停滞たことで、積乱雲を長時間発達させ線状降水帯が形
成させた。なお、98年8月に栃木・福島で大きな被害を出した豪雨以来であ
る。このように、線状降水帯と地球物理学、気象物理学が錯綜する現象学であ
り、余りにも迷惑な話だが、個性的な気象現象だ。
※ この線状降水帯は、軌道衛星気象観測や気象レーダー工学の進歩により次
々と解析検出できるようになったことが大きく貢献している(上3つ図クリック)。
「これは村上さんが、どうやって小説を書いてきたかを語った本であり、それ
はほとんど、どうやって生きてきたかを語っているに等しい。だから、小説を
書こうとしている人に具体的なヒントと励ましを与えてくれることは言うに及
ばず、生き方を模索している人に(つまり、ほとんどすべての人に)総合的な
ヒントと励ましを与えてくれるだろう――何よりもまず、べつにこのとおりに
やらなくていいんだよ、君は君のやりたいようにやるのが一番いいんだよ、と
暗に示してくれることによって。」と翻訳家で東京大学教授(昨年退任)の柴
田元幸が本書の帯でこのように述べている――紀伊国屋書店から村上春樹の新
著『職業としての小説家』が届いた。早速、読み始めた。
ところかその逆の場合、たとえば歌手や画家か小説を書いたとして、あ
るいは翻訳者やノンフイクション作家が小説を禽いたとして、小説家はそ
のことで嫌な顔をするでしょうか?たぶんしないと思います。実際に歌手
や画家が小説を書き、翻訳者やノンフィクショソ作家が小説を書き、モれ
らの作品が高い評価を受ける場合も少なからず見受けられます。しかしそ
れで小説家が「素人か勝手なことをしやがって」と腹を立てたというよう
な話は聞きません。悪口を言ったり、揶揄したり、意地悪をして足をすく
ったりするようなことも、少なくとも侠が見聞きした限りにおいては、あ
まりないようです。それよりはむしろ、専門外の人に対する好奇心かかき
たてられ、機会があれば顔を合わせて小説の話をしたり、時には励ました
りしたいと思うのではないでしょうか。
もちろん陰で作品の悪口を言ったりする程度のことはあるかもしれませ
んが、それは小説家同士でも日常的にやっていることであり、言うなれば
通常営業行為であって、異粟種参入とはとくに関係かありません。小説家
という人種には数多くの欠陥が見受けられるけれど、誰かが自分の縄張り
に入ってくることに関しては概して鷹揚であり、寛容であるみたいです。
それはどうしてでしょう?
僕の思うところ、答えはかなりはっきりしています。小説なんて――「
小説なんて」という言い方はいささか乱暴ですが――書こうと思えばほと
んど誰にだって書けるからです。たとえばピアニストやバレリーナとして
デピューするには、小さな子供の頃からの長く苦しい訓練か必要です。画
家になるにも、ある程度の専門知識と基礎的な技術か必要とされます。だ
いたい材をひととおり買い揃える必要があります。アルピニストになるに
は人並みではない体力とテクニックと勇気か要求されます。
しかしなから小説なら、文章が害けて(たいていの日本人には奔けるで
しょう)、ボールペンとノートが手元にあれば、そしてそれなりの作話能
力があれば、専門的な訓練なんて受けなくても、とりあえずは書けてしま
います、というか、いちおう小説というかたちにはなぅてしまいます。大
学の文学部に通う必要もありません。小説を肖くための専門知識なんて、
まああってないようなものですから。
少しでも才能のある人なら、最初から優れた作品を書くことだって不可
能ではありません。自分のケースを実例として持ち出すのはいささか気が
引けるのですが、たとえばこの侠にしたって、小説を書くための訓練を受
けたことなんてまったくありません。いちおう大学の文学部映画演劇科と
いうところに行きましたか、時代的なこともあって、ほとんど何ひとつ勉
強せず、髪を長くして、髭をはやして、汚いかっこうをして、モのへんを
ふらふらしていただけでした。作家になろうというつもりもとくになく、
習作を害き散らすこともなく、ある日ふと思いついて『風の歌を聴け』と
いう最初の小説(みたいたもの)を書き上げ、文芸誌の新入賞をとりまし
た。そしてよくわからないまま職業的作家になってしまいました。「こん
なに簡単でいいのだろうか?」と自分でも思わず首をひねってしまったく
らいです。いくらなんでも簡単すぎる。
こういうことを書くと、「文学をなんと心得る」と不快に思われる方も
おられるかもしれませんが、僕はあくまでものごとの基本的なあり方につ
いて語っているだけです。小説というのは誰かなんと言おうと、疑いの余
地なく、とても間口の広い表現形態なのです。そして考えようによっては、
その間口の広さこそか、小説というものの持つ素朴で偉大なエネルギーの
源泉の、重要な一部ともなっているのです。だから「直にでも書ける」と
いうのは、僕の見地からすれば、小説にとって誹膀ではなく、むしろ褒め
言葉になるわけです。
つまり小説というジャンルは、誰でも気か向けば筒単に参入できるプロ
レス・リングのようなものです。ローブも隙間か広いし、便利な踏み台も
用意されています。リングもずいぶん広々としています。参入を阻止しよ
うと控えている警備員もいませんし、レフェリーもそれほどうるさいこと
は言いません。現役レスラーの方も――つまりこの場合は小説家にあたる
わけですか――そのへんのところは初めからある程度あきらめていて、「
いいから、誰でもどんどん上かっていらりしゃい」という気風かあります。
風通しかいいというか、イージーというか、融通が利くというか、要する
にかなりアバウトなのです、
しかしリングに上かるのは簡単でも、そこに長く留まり続けるのは簡単
ではありません。小説家はもちろんそのことをよく承知しています。小説
をひとつふたつ書くのは、それほどむずかしくはない。しかし小説を長く
書き続けること、小説を書いて生活していくこと、小説家として生き残っ
ていくこと、これは至難の業です。普通の人間にはまずできないことだ、
と言ってしまっていいかもしれません。そこには、なんと言えばいいのだ
ろう、「何か特別なもの」か必要になってくるからです。それなりの才能
はもちろん必要ですし、そこそこの気概も必要です。また、人生のほかの
いろんな事象と同じように、運や巡り合わせも大事な要素になります。
しかしそれにも増して、そこにはある種の「資格」のようなものか求め
られます。これは備わっている人には備おっているし、備わっていない人
には像わっていません。もともとそういうものか備わりている人もいれば、
後天的に苦労して身につける人もいます。
この「資格」についてはまだ多くのことは知られていないし、正面切っ
て語られることも少ないようです。それはおおむね、視覚化も言語化もで
きない種類のものだからです。しかし何はともあれ、小説家であり続ける
ことがいかに厳しい営みであるか、小説家はそれを身にしみて承知してい
ます。
ある種の「資格」とは? これはこの後に触れることとして、『風の歌を聴け』
は、"さわやかな青春"として記憶にとどめている。この「さわやか」の形容詞
に埋め込めたメタファは改めてここで書くほどのものでもない。ただ、この歳
になって、この本との出会ったことは、幸運だったと改めて思い直している。
この項つづく
「ガリレオ」シリーズとはまた一味違った、圧巻の社会派ミステリーとなって
います。ぜひ映画と合わせてご覧ください――とは、紀伊国屋書店の「注目の
本・書評でよむ」の受け売り。ならば、近くの映画館で鑑賞しましょう。