人は原理主義に取り込まれると、魂の柔らかい部分を失っていき
ます。 そして自分の力で感じ取り、考えることを放棄してしまう。
村上 春樹
【ネクストディケイド:縮小する電力市場】
● 今後、電力市場は縮小傾向に
日本のエネルギー分野では半世紀に一度と言われる大きな制度改革が進み、30兆
円と言われる巨大な市場の変革に関心を寄せているが、ビジネスチャンスには、市
場動向を冷静に見極める必要がある。
まず、市場規模について考えると、日本の電力市場は縮小傾向にある。これまで民
生分野のエネルギー消費は増加傾向にあったが、住宅やオフィスの規模、電力消費
機器の数、世帯数等の増大はピークを越え、今後は省エネルギーや人口減少の影響
が徐々に顕在化し産業分野では、円高の是正で国内回帰の動きがあるとはいえ、製遺
業が収益の中心を海外に据え地産地消の生産体制を整備していく方向性は変わらな
い。産業分野でも省エネルギ-は着実に成果を上げる。日本国内で電力消費が増え
る要素は見当たらないという(「電力市場のフロンティアを目指せ」井熊 均 環境
ビジネス 2015年秋季号)。
つまり、電力市場への新規参入者は、市場規模が減退する中で、電力会社に挑むこ
とになる。現状では、PPS が電力会社より安い単価を示すことで顧客を獲得できる
が、いくつかの理由で、電力会社のコスト競争力を回復する。(1)一つは、原子
力発電所の復帰である。九州電力の川内原子力発電所が再稼働を果たしたことで、
原子力規制委員会が示した基準をクリアした原子力発電所は順次復帰することにな
る。国が行ったコスト検証によれば、東京電力福島第一原子力発電所の事故を受け
て、原子力発電所のコストは大幅に上昇したが、中には損益に直接反映されないコ
ストも含まれているため、原子力発電の復帰によるコスト効果は見た目以上に大き
いことを挙げている。(2)2つめは、火力発電でも電力会社のコスト改善が効果
を上げる。電力自由化を控えてコスト競争力の高い石炭火力が次々と建設されてい
るが、多くは電力会社に電力を供給することになる。LNG火力については 東京電
力と中部電力の提携等によりLNGの調達力が向上し、発電単価を押し下げる。さ
らに、原子力発電の停止と安定供給に関する責任意識で稼働させてきた老朽火力が
順次停止され、発電効率の低い発電所ヘリプレース(置き換え)される。
● 新規参入者が目指すべきもの
こうした観点から、10年後の電力会社のコスト競争力は今よりも格段に高くなる
と考えるべきだ。再生可能エネルギーを除くと、新規参入者の電源の殆どはLNG火
力になるから、対抗するのは容易ではない。電力取引等監視委員会が設立され、公正
な電力市場が作られている。くが、公正で中立的であるほど、電力市場の勢力は集約
されていく。電力に限らず力のある者が勢力を拡大し、少数の強力な事業者が影響
力を持つのが市場の姿だ。そこで不自然に事業者を増やすことは、必ずしも国民視
点に敵った政策にはならない。電力市場における新規参入者の政策的な存在意義は、
少数の電力会社による過度の寡占を防ぐことに尽きる。一方で、強力なエネルギー
関連企業が誕生することは、エネルギー資源の調達力の向上、新興国等におけるエ
ネルギーインフラ市場での競争力の向上などにより、日本経済に貢献できる。産業
政策の観点に立てば、国際市場で競争力のある強力な事業者の輩出を目指すことは
妥当なのだ。
● 三つのフロンティア
このように既存の電力市場での競争は新規参入者にとって厳しいものになる。その
中で、新規参入者が目指すべきなのは電力市場ヘフロンティアであるべきだ。電力分
野では3つのフロンティアを挙げている。(1)第一に、当然のことながら、再生
可能エネルギーである。しかし、今後の再生可能エネルギーの投資は限られたもの
にならざるを得ない。当面重要なのは、過大な買取価格によって認定さた7千万キ
ロワットもの太陽光発電をいかに有効に活用するかだからだ。固定価格買取制度が
歪んだ形で運営されたことは、持続性のある再生可能エネルギービジネスの芽を摘
むことになったのだ。その他の電源については、技術開発と地道な導入に焦点が当
てられるだろうからバイオエネルギー、地熱などを中心に地域密着型で持続性のある
モデルの立ち上げに力を入れるべきだ。
(2)第二に、需要制御だ。ITの飛躍的な進歩によりあらゆる場所で安価に電力
需要の管理・制御ができるようになった。エネルギー業界から目を広げれば、lndus-
try 4.0, 1ndustriaU lnternet、loT などの言葉で指摘されるように施設、設備のデジタ
ル制御は最も注目される事業分野である。社会基盤におけるエネルギーの重要性を
考えると、エネルギー分野で事業モデルを築いた事業者はこうした成長分野でビジネ
スを拡大できる可能性がある。エネルギーを次世代ビジネスの起点にするという考
え方だ。
(3)第三に、分散型エネルギーだ。10年代になって、家庭用燃料電源勁く、大
幅な性能アップと価格低減を実現しつつある。自動車分野ではトヨタの燃料電池自
動車ミライが画期的な価格で市場投入された。燃料電池のブレークの背景には大き
な技術革新のトレンドがあるから分散型エネルギーシステムは今後も価値を高める。
東日本大震災以降、自立的なエネルギーシステムヘの関心を高めた需要家の意識が
合わさって分散型エネルギーーがエネルギーー供給のでのシェアを拡大するのは間違
いない。エネルギー自由化の議論では、既存の電力市場の分け前にあやかりたいと
いう意識が垣間見えた。しかし、本来、新規参入者はイノベーションによってフロ
ンティア市場を切り拓くことで存在感をアピールして欲しい。上述したように、市
場動向を整理すれば、目指すべき市場が見えてくるはずだ。以上が日本総研の井熊
均氏の論点である。
読み進めているうちに、『環境ビジネス』の記事なのかと疑ってしまった。つまり、
「総括原価方式」「ベースロード」の至上主義の「原発再稼働先にありき」という
露骨な経理上のご都合で、「再生可能エネルギーが入りこむ余地をなるべく限定さ
せておきたい,可能なかぎり閉め出したい電力会社の経営姿勢」の代弁者ごとき発
言のように受けとれる。九州電力の川内原発とその黒字化発言の「証拠・根拠;evi-
dence」等の資料を持ち合わせていないので、明確に反論できないの残件扱いとして
おく。参考までに下表(出典:「東京電力の料金原価に基づく原子力発電の費用」
竹濱朝美)と関連部分の抜粋を参考に掲載しておく。
原発は再生可能エネルギーより大きな負担 電力会社と原子力を推進する人
々は、2012年7月から開始した再生可能エネルギー電気の固定価格買取制
(以下,買取制と略す)が電力料金を高くすると批判している。しかし実際に
は,原子力発電にかかる原価は,太陽光発電余剰電力買取制(以下,太陽光余
剰買取制と略す)や再生可能エネルギー買取制の賦課金よりも、大きな負担に
なっている。これについて説明しよう。
前述のとおり、東京電力の原子力発電にかかる費用は新料金原価の11.7
%であったから(表4、6),電力消費1 kWhあたり2.96円、1月で88
8円になる(電力消費が300kWh/ 月のモデル家庭)。他方、太陽光余剰買
取制の付加金は1 kWhあたり0.06円,再生可能エネルギー買取制の賦課金
は、0.22円である(表7)。再生可能エネルギー賦課金は、原子力発電に
かかるし、残りの半分は50年間の貯蔵後,再処理を行う場合でも、使用済み
核燃料の処理費用は、1.3~2.2円/kWh必要とされている。原子力発電に
は、現在の料金原価に加えて,使用済み核燃料処理の追加負担が1.3~2.2
円/kWh発生する。これらを考慮すると,原子力発電に経済的優位性があると
いう原発推進派の説明には重大な欺瞞があるだろう。
「5‐4 原発と再エネのコスト比較」
(『東京電力の料金原価に基づく原子力発電の費用』)
※ http://e-shift.org/wp/wp-content/uploads/2013/04/130416_oshima.pdf
原則をここで述べてみても有効でないが上下図に考え方の原則を掲載。著者の「ベ
ース電源の推移」を参考に書き換えてみた。蛇足だが、脱原発派の旗手でもある広
瀬隆氏が、石炭火力発電――高性能で二酸化炭素除去付属――システムにご執心な
のでおや?メカ屋さんなのかと思ってしまったほどで、かといってクリーンエネル
ギーの伸長には期待しているようだが、個人的には、高性能小形水力発電に興味が
あるが、これは、超伝導や高性能磁石などのマテリアルイノベーションに加え、温
暖化を背景とし治水政策に組み込んだシステムを考えている(最近)。そう、「次
世代電力は俺にまかせろ!」と。
「これは村上さんが、どうやって小説を書いてきたかを語った本であり それはほ
とんど、どうやって生きてきたかを語っているに等しい。だから、小説を書こうと
している人に具体的なヒントと励ましを与えてくれることは言うに及ばず、生き方
を模索している人に(つまり、ほとんどすべての人に)総合的なヒントと励ましを
与えてくれるだろう――何よりもまず、べつにこのとおりにやらなくていいんだよ、
君は君のやりたいようにやるのが一番いいんだよ、と暗に示してくれることによっ
て。」と翻訳家で東京大学教授(昨年退任)の柴田元幸が本書の帯でこのように述
べている――紀伊国屋書店から村上春樹の新著『職業としての小説家』が届いた。
早速、読み始めた。
だからこそ小説家は、異なった専門領域の人かやってきて、ロープをくぐり、小説家
としてデビューすることに対して、基本的に寛容で鷹揚であるのではないでしょ
うか。「さあ、来るんならいらっしゃい」という態度を多くの作家はとってい
ます。あるいは誰か新たにやってきたとしても、とくに気には留めません。も
し新参者がそのうちにリングから振るい落とされれば、あるいは自分から降り
ていけば(そのどちらかか大半のケースなのですか)、「お気の毒に」とか「
お元気で」とかいうことになりますし、もし彼なり彼女なりかかんぱってリン
グにしっかり残ったとすれば、それはもちろん敬意に値することです。
そして敬意はおおむね公正に、正当に払われることでしょう(というか、払
われることを願っています)。
小説家が寛容であることには、文学業界かゼロサム社会ではないということ
も、いくぶん関係しているかもしれません。つまり新人作家が一人登場したか
らといって、その代わりに前からいた作家が一人職を失うということは(まず)
ないということです。少なくともあからさまなかたちでは起こりません。プロ・
スポーツの世界とは、そうしうところか決定的に違います。新人選手か一人チ
ームに入ったからオールドタイマーや、なかなか目のでない新人が一人自由契
約になる、枠外に去る、というようなことは文学の世界にはまず見受けられま
せん。またある小説か十万部売れたから、ほかの小説の売り上げか十万ち
てしまった、というようなこともありません。むしろ新しい作家の本か売れる
ことによって小説全体が活況を呈し、業界全体が潤うという場合だってあるの
です。
しかし、にもかかわらす、長い時間軸をとってみれば、ある極の自然淘汰は
適宜おこなわれているようです。いくら広々としているとはいえ、そのリング
にはおそらく適正人数というものかあるのでしょう。あたりをぐるりと見渡し
て、そういう印象を持ちます。僕はもうこれでなんのかんの、三十五年以上に
わたって小説を書き続け、専業作家として生計を立てています。つまり「文芸
世界」というリングの上になんとか三十数年留まっている、昔風に表現すれば
「筆一本で食べている」ということになります。まあ狭い意味あいにおいては
ひとつの達成と言っていいかもしれません。
その三十数年のあいだに、ずいぶん多くの人々か新人作家としてデビューす
るのを目にしてきました。少なからざる数の人々は、あるいはその作品は、そ
の時点でかなり高い評価を受けました。評論家の賞賛を受け、様々な文学賞を
とり、世間の話題にもなり、本も売れました。将来を嘱望されもしました。つ
まり脚光を浴び、壮麗なテーマ・ミュージックつきで、リングに上ってきたの
です。
しかし二十年前、三十年前にデビューした中で、いうたいどれくらいの人が
現在もアクチュアルな現役小説家として活動しているかといえば、その数は正
直言ってあまり多くありません。というか、実際にはかなり少数です。多くの
「新進作家」たちか知らない問に静かにどこかに消えていきました。あるいは
――むしろこちらの方かケースとしては多いのかもしれませんか――小説を書
くことに飽きて、あるいは小説を書き続けることが面倒になって、よその分野
に移っていきました。そして彼らの書いた作品の多くは-当時はそれなりに話
題になり、脚光を浴びたものですが――今ではおそらく一般書店で入手するこ
とかむずかしいかもしれません,小説家の定員数は限られていませんが、書店
のスペースは限られているからです。
僕は思うのですか、小説を書くというのは、あまり頭の切れる人に向いた作
業ではないようです。もちろんある程度の知性や教養や知識は、小説を書く上
で必要とされます。この僕にだって最低限の知性や知識は備わっていると思い
ます。おそらくというか、たぶん。本当に間違いなくそうなのかと正面切って
尋ねられると、もうひとつ自信はありませんか。
しかしあまりに頭の回転の素速い人は、あるいは人並み外れて豊富な知識を
有している人は、小説を書くことには向かないのではないかと、僕は常々考え
ています。小説を書く――あるいは物語を語る――という行為はかなりの低速
ロー・ギアでおこなわれる作業だからです。実感的に言えば、歩くよりはいく
らか速いかもしれないけど、自転車で行くよりは遅い、というくらいのスピー
ドです。意識の基本的な動きがそのような速度に適している人もいるし、適し
ていない人もいます。
小説家は多くの場合、自分の意識の中にあるものを「物語」というかたちに
置き換えて、これを表現しようとします。もともとあったかたちと、そこから
生じた新しいかたちの間の「落差」を通して、その落差のダイナミズムの梃子
のように利用して、何かを語ろうとするわけです。これはかなりまわりくどい、
手間のかかる作業です。
自分の頭の中にある程度、鮮明な輪郭を有するメッセージを持っている人な
ら、それをいちいち物語に置き換える必要なんてありません。その輪郭をその
ままストレートに言語化した方か話は遥かに早いし、また一般の人にも理解し
やすいはずです。小説というかたちに転換するには半年くらいかかるかもしれ
ないメッセージや概念も、そのままのかたちで直接表現すれば、たった三日で
言語化できてしまうかもしれません。あるいはマイクに向かって思いつくかま
まにしゃべれば、十分足らずで済んじゃうかもしれません。頭の回転の速い人
にはもちろんそういうことかでぎます。聞いている人も「なるほどそういうこ
とか」と膝を打つことかできる。要するに、それか頭かいいということなので
すから。
また知識の豊富な人なら、わざわざ物語というようなファジーな、あるいは
よく得体の知れない「容れ物」を持ち出す必要もありません。あるいはゼロか
ら架空の設定を立ち上げる必要もありません。手持ちの知識を5まく論理的に
組み合わせ言語化すれば、人々はすんなり納得し、感心することでしょう。
少なくない数の文芸評論家か、ある種の小説なり物語なりを理解できない―
あるいは理解できたとしても、その理解を有効に言語化・論理化できない――
理由はおそらくそのへんにあるのかもLれません。彼らは一般的に言って、小
説家に比べて頭か良すぎるし、頭の回転が速すぎるのです。往々にして物語と
いうスローペースなヴィークル(乗り物)に、うまく身体性を合わせていくこ
とができないのです。だから往々にして、テキストの物語のペースを自分のペ
ースにいったん翻訳し、その翻訳されたテキストに沿って論を興していくこと
になります。そういう作業か適切である場合もあれば、あまり適切ではない場
合もあります。うまくいく場合もあれば、あまりうまくいかない場合もありま
す。とくにそのテキストのペースかただのろいだけではなく、のろい上に重層
的・複合的である場合には、その翻訳作業はますます困難なものになり、翻訳
されたテキストは歪んだものになってしまいます。
それはともかく、頭の回転の連い人々、聡明な人々か――その多くは異業種
の人々ですが――小説をひとつかふたつ書き、そのままどこかに移動していっ
てしまった様子を僕は何度となく、この目で目撃してきました。彼らの書いた
作品は多くの場合「よく書けた」才気のある小説でした。いくつかの作品には
新鮮な驚きもありました。しかし彼らか小説家としてリングに長く留まること
は、ごく少数の例外を別にして、ほとんどありませんでした。「ちょっと見学
してそのまま出ていった」というような印象すら受けました。
あるいは小説というのは、多少文才のある人なら、一生に一冊くらいはわり
にすらっと書けちゃうものなのかもしれません。またそれと同時に聡明な人た
ちはおそらく小説を書くという作業に、期待したほどメリットを発見できなか
ったのでしょう。ひとつかふたつ小説を書いて、「ああ、なるほど、こういう
ものなのか」と納得して、そのままよそに移っていったのだと推測します。
これならほかのことをやった方か効率かいいじゃないか、と思って。
僕にもその気持ちは理解できます。小説を書くというのは、とにかく実に効
率の悪い作業なのです。それは「たとえば」を繰り返す作業です。ひとつの個
人的なテーマがここにあります。小説家はそれを別の文脈に置き換えます。
「それはね、たとえばこういうことなんですよ」という話をします。ところか
その置き換えの中に不明瞭なところ、ファジーな部分かあれば、またそれにつ
いて「それはね、たとえばこういうことなんですよ」という話が始まります。
その「モれはたとえばこういうことなんですよ」というのがどこまでも延々と
続いていくわけです。限りのないパーフフレーズの連鎖です。開けても開けて
も、中からより小さな人形か出てくるロシアの人形みたいなものです。これほ
ど効率の悪い、回りくどい作業はほかにあまりないんじゃないかという気さえ
します。最初のテーマかそのまますんなりと、明確に知的に言語化できてしま
えれば、「たとえば」というような置き換え作業はまったく不必要になってし
まうわけですから。極端な言い方をするなら、「小説家とは、不必要なことを
あえて必要とする人種である」と定義できるかもしれません。
しかし小説家に言わせれば、そういう不必要なところ、回りくどいところに
こそ真実・真理かしっかり潜んでいるのだということになります。なんだか強
弁しているみたいですが、小説家はおおむねそう感じて自分の仕事をしている
ものです。だから「世の中にとって小説なんてなくたてかまわない」という意
見かあっても当然ですし、それと同時に「世の中にはどうしても小説か必要な
のだ」という意見もあって当然なのです。それは念頭に置く時間のスパンの取
り方にもよりますし、世界を見る視野の枠の取り方にもよります。より正確に
表現するなら、効率の良くない回りくどいものと、効率の良い機敏なものとか
裏表になって、我々の住むこの世界が重層的に成り立っているわけです。どち
らが欠けても(あるいは圧倒的劣勢になっても)、世界はおそらくいびつなも
のになってしまいます。
あくまで僕の個人的な意見ではありますが、小説を書くというのは、基本的
にはずいぶん「鈍臭い」作業です。そこにはスマートな要素はほとんど見当た
りません。一人きりで部屋にこもって「ああでもない、こうでもない」とひた
すら文章をいじっています。机の前で懸命に頭をひねり、丸一日かけて、ある
一行の文章的精度を少しばかり上げたからといって、それに対して誰か拍手を
してくれるわけでもありません。誰か[よくやぅた」と肩を叩いてくれるわけ
でもありません。自分一人で納得し、「うんうん」と黙って頷くだけです。本
になったとき、その一行の文章的精度に注目してくれる人なんて、世間にはた
だの一人もいないかもしれません。小説を書くというのはまさにそういう作業
なのです。やたら手間がかかって、どこまでも辛気くさい仕事なのです。
世の中には一年くらいかけて、長いビンセットを使って、瓶の中で細密な船
の模型を作る人がいますが、小説を書くのは作業としてはそれに似ているかも
しれません。僕は手先が不器用だしとてもそんなややこしいことはできません
か、それでも本質の部分では共通するところがあるかもしれないと思います。
長編小説ともなれば、そういう細かい密室での仕事か来る日も来る日も続きま
す。ほとんど果てしなく続きます。そういう作業かもともと性にあった人でな
いと、あるいはそれほど苦にしない人でないと、とても長く続けられるもので
はありません。
「小説家とは、不必要なことをあえて必要とする人種である」と定義できるかもし
れません――の件で、こんなことは、わたしも感じながら仕事していたことがある
ぞと思いったが、反復仕事、やっつけ仕事、ルーチンワークの繰り返しの仕事以外
だけではないかと。つまり、「不必要なことをあえて必要とする」とは"高級"な行
為を行う人たちのことだと考えたわけだが、さて今夜はこの辺で切り上げよう。
この項つづく