芳賀明夫の思いつくままに

フィジーから帰国して

トイマでは芭蕉に宿貸さず

2008年10月24日 | Weblog
北上川遠漕に協力する話しで、脇谷閘門と記したことについて、以前、仙台に来られたときにお会いした阿部三朗氏から脇谷洗堰のことであろうと、その開閉の申込先である石巻の北上川下流河川事務所の連絡先をメールして下さった。また、ボランティアについては、豊里の斎藤幸子さんから、北上川を筏で下る会がある事をメールして下さった。
本来、登米の旅館に泊まってもらうのであるから、旅館組合長が、先頭に立って、ボランティア活動をすべきことではあるが、登米でボランティアと言うと、町の案内をする人達が、観光客から3000円を貰って、「ボランティア活動をしている」と公表しているので、実際は有料でないと動かないも知れない。
なにしろ、旅館組合長の旅館に行って、四つの旅館の責任者を集めて私の話を聴いてもらいたいとお願いした私は、小学校以来、立たされたことがないのに、ヨワイ60代半ばにして初めて、その旅館組合長の宿の玄関前に一時間半も立たされて私の持論を開陳させられたのだ。その時の旅館組合長の最後の言葉が、『ほかの旅館は皆敵でがす』であった。私はそれほど情熱を持って町起こしに関わっているわけではないから、提案はしてもそれに応じてくれなければ、「はあ、そうですか」で引き下がったのだ。
芭蕉が登米に来たときも、曾良随行日記に記されているように、「戸いま、儀左衛門、宿不借」であった。芭蕉の『おくのほそ道』では、この事件は石巻で起こったように書いていて、石巻にとっては迷惑な話しであろう。石巻では、予定通りに泊まっているのだから。
要するに、他所からの客に対するもてなしのないところに見える。これが、日本の古い町に共通することなのかどうかは分からない。