つぶや句

夢追いおっさんの近況および思うことを気まぐれに。

イメージの詩稲垣

2023-01-22 04:48:48 | 思ひ出ぼろぼろ
このブログに、来訪いただいた方のブログを
覗かせて頂いたら、吉田拓郎のイメージの詩
に関する事が書かれてあったので、詳しく
読ませて頂いた。

実は、ワタシもたくろうフアンなので、マイ
ベストアルバムには、何曲か入れているし、
初期の
アルバムなども持っているのだ。

そのブログに、明石家さんまプロデュースの
アニメ「漁港の肉子ちゃん」という作品の
主題歌にたくろうのイメージの詩が使われて
いるというのである。

歌っているのは、稲垣来泉(いながきくるみ)という
10歳の女の子で、調べてみると、2022年
NHK朝ドラ「ちむどん」で主人公の幼少期を
演じた子役さんだと分かった。

この子が歌っている動画がUPされていたので、
いつもは切っているボリュームを入れて、観て
みたのである。

ブログのご本人が、泣かされました、と書いて
おられたので、エ…イメージの詩で…?と思ったの
だった。

ワタシもイメージの詩は好きな曲だが、実は
イントロから流れる、ギターのポロんポロんと
いう音がたまらなく好きなので、泣かされる
ような歌詞とも思えなかったのだ。

しかし、聴いている内に、涙が出てきて、止まらな
くなったのである。

一体、彼女の歌の何が、ワタシの魂を揺さぶった
のか、何が呼び覚まされたのか…俄かにはわから
なかったのだが、10歳の少女の歌声は、我がココロに
染み渡って、何とも言えない感動に打ち震えてしまった
のだ。

純真無垢な少女の歌声は、浮世の垢にまみれた
オヤジのココロを、いとも簡単に粉砕してしまった
のである。

なるほど…泣かされました。

涙を拭きつつ、これだから歌ってヤツは…とまた、
お絵描きヤロウの歌への嫉妬心が、湧きあがって
きたのだった…。泣かされて、クヤチイ〜〜けれど、
嬉しい涙でもあったのだw

泣いてみたい方は、「イメージの詩稲垣」で
検索すれば、ユウチューブで出来ると思います
ので、一度お試しください。オススメです。

今日のニ句

凍滝の 水音一糸 纏いたり
              issei
純白を 山茶花散らす 雪の上
              issei


コメント (2)
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止まった時間

2011-09-25 05:26:04 | 思ひ出ぼろぼろ
前回のブログで、東京へ行ってきたことを書いたが、上京に際し、わたしの漫画の師である
Y先生に会いたいと思い、電話を入れた。以前よく一緒に飲んだので、久々に一杯酌み交わしたいと、思ったのである。

電話には奥様が出られて、しばし話をした後、師に代わった。「久々に東京で一杯やりませんか」
と言うと、「悪いが…今はとてもそういう状況では…」と、師は苦しそうな胸の内を語った。

最近大病を患い手術をしたというのである。幸い手術そのものは成功し、自宅療養中ということ
だったのだが、手術の時の傷口の経過が良くなく、再手術をした後と言うのである。

思えば、東京を離れてからもう20数年になる。師とはいつの間にか年賀状だけの音信になって
しまっていて、まったく初耳だったのだ。師は知人達に気を使って誰にも知らせていない様子で、
「このことは言わないでな」と、わたしも口止めされたのである。歳月は私にも師にも容赦なく
流れていたのだ。

若かりし頃、漫画家になる決意を固め、好きだった師の押しかけアシスタントになったのだ。
アシスタントというより、弟子と言った方が合っているかと思う。弟子など決して採らなかった
師の最初で最後の弟子だったのである。わたしは、師に「一直線」とか「まっすぐ」とか
あだ名されるように、こうと決めると一心に突進してしまう性格だったのである。

近くに下宿して、師の元へ通って手伝っていたが、仕事のピークには泊まり込むのも普通であった。
奥様もマニアの間では知る人ぞ知る女流漫画家だったので、両方の仕事を手伝ったのである。
お子さんが居なかった師夫妻は、世間知らずで生意気な私を、辛抱強く身内のように可愛がって
くれたのである。わたしは、師のお宅を自分の家の様に寝泊まりし、甘え、よくご夫婦と一緒に
飲んだのである。

その後の師の事情により、師の知り合いの漫画家のアシスタントをすることになったのだが、
「わたしの師はY先生一人なのでそのつもりで!」と相手に宣言してアシスタントをするような
失礼なヤツだったのである。

そういうわけで、東京へ行こうと思った時、真っ先に師に会いたいと思ったのだ。
奥様が、「ホントに手術そのものはうまくいったので、必ず元気になるので、そのときにネ…」
と言われた。せめて一目でもお目にかかってお見舞いにでも…と思ったのだが、かえって師に
気を遣わせてしまうに違いないと思い、やむなく、今回会うことは断念したのだった。

考えてみれば師はわたしより10歳年上なので、何らかの病と付き合ってても何ら不思議ではない年齢
なのである。私の中で止まっていた時間が一気に早送りされてしまったような気がした。

今は、ただただ傷口の順調な回復を祈るばかりである。そして、必ずや、またお目にかかり、
一杯酌み交わしたいと願うのだ。「先生、回復の折は必ず行きますので、一報ください。
以前と同じようにとまでは言いませんが、軽くでいいですから、完治祝いに一杯いきましょう…。」







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長崎は今日も…③

2010-08-10 06:54:25 | 思ひ出ぼろぼろ
長崎でPМ1時からの叔母の告別式の後、焼き場へ行ってそのままPM7時30分の
高速バスで帰ることになった。

焼き場を終わってからバスの出発時間まで、ちょっと時間が空くなあ…と思っているうちに、
急に中学の同級生に会いたくなった。わたしは中学3年の途中まで長崎にいて、家の事情で
上京したのである。

ちょっと急ではあったが、最近長崎の同級生からメールなど来て、同窓会の誘いがあったので、
ついでで、申し訳ないが、電話を入れてみた。するとメールをくれてるNくんが出て、会いたい
数人の名を挙げると、「何とか連絡取ってみる」と言って電話を切った。

やはり急だったせいか、Nくんともう一人の2人だけしか来れないとの連絡を受けた。実は
会いたい人の中に初恋の人も入れていたのだが、入院中ということで、断念した。
やはりわれらの年齢になると、色々な事情が起こっているのだ。

つつがなく告別式、焼き場へと行き、タクシーで同級生との待ち合わせの店へ…。すると
見覚えのある顔が、店の入り口で待っているではないか。Nくんともうもう一人のRくんである。
実は彼、中学時代番長だったのだ。それも母校中学の語り草になるほどの、大喧嘩事件を起こした
張本人なのだった。そして、わたしの会いたいリストの筆頭でもあったのだ。

わたしは何も中学時代彼の子分だったわけではない。彼は正義の番長だったので、親近感は
持っていたのである。3人でビールなど飲んで、旧交を温め合った。二人とも笑うと中学時代の
表情に戻るのが嬉しかった。別れ際番長はヌッと手を差し出し、ガッチリ握手して又の出会いを
誓い合った。

手を振って見送る彼らの顔がバスの窓に曇りだし、降り出した雨の長崎を後にした。
また会おう友よ…。


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大いなる童心

2006-12-23 05:56:21 | 思ひ出ぼろぼろ
また飲みに行った。

会社の連中とだ。仲間に酔狂な人がいて、誰かの誕生日を
見つけては「誰それの誕生会やろう」と持ちかけるのである。

元々は自分の誕生日に自ら呼びかけ、誕生会を開いたのが
きっかけである。
それも、すべての出費を自分でまかなったのである。

こうなると誰も断る理由がない。
パートの人達も含めて10数人が出席した。

これ自体相当酔狂なのだが、その時みんなもノッテ花束の贈呈、
「おめでとう」のあらし、彼は花束を抱え、おおいに喜んだ。

彼の名は「Uさん」。会社創業からいる主で、大いなる童心の
持ち主である。

このことが忘れられない快感となったらしく、自分の誕生日のたびに
呼びかけ、すべて出費をまかなった。愛すべき人なのである。

しかしこの酔狂さにも段々付き合えない人達も出てきた。
同じ職場で働いている奥さんにもその出費を責められ、
当然それが、他のパート仲間にもわかるようになり、
パート仲間の出席は0になった。

それからの彼の口癖は、「今度が最後だ」となった。
めげない酔狂人なのである。

さすがに気の毒になり、のんべえ有志が集まって会費を
募り、彼の負担を軽くすることにした。

これがまた彼を調子づかせ、有志の誕生日を見つけては
「誰それの誕生会をやるぞ」と今年二度目の会とあいなった
訳なのだ。やっぱりめげない。

今回は焼き鳥屋へ男女7人が集まった。
彼は一番に来ていて、私が着いたときにはすでに酔っ払っていた。
それでもメンバーの一人一人を外に出ては待ち、
来ると喜んで迎えるのである。

店の中でも、「もうビールないぞ」とグラスを持って注文したり
何くれとなく世話をする。それがたまらなく嬉しいのか
いつもニマニマと笑っている。

それでも今日はかなり酔ったのか、幹事の私に2万円を掴ませると
「じゃあな」と帰ろうとするのである。
この後カラオケに行く予定だったので、ちょっとあっけにとられたが、
彼は絶対と言っていいほど歌わないので、ままよと見送った。

ここは駅前なので、彼は電車で街の中心街まで行き、
深夜映画を観て電車を乗換えて帰るのである。

我らは彼の軍資金で、タクシーを拾い、カラオケで
歌った。
「大いなる童心にカンパイ!」ありがとう




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たくろうと「甚兵衛」

2006-10-29 04:56:28 | 思ひ出ぼろぼろ
吉田たくろうが31年ぶりにつま恋でコンサートをひらいた。
その様子をNHKで放送していたので、ビデオに録って見た。

たくろうは60歳。還暦だというのに若々しい顔をしていた。
「お…いい顔になってるジャン」と思った。

若い頃、好きでよく聴いたものである。そこで、ふ…と思い
だしたのが「甚兵衛」だった。

20代のまんが家予備軍の頃、東京近郊に住んでいて、
近くのM乳業という会社でアルバイトしていた。

アパートに帰る途中に「甚兵衛」という店の前を通る。
その名の通り、黒い格子戸の入り口、黒い窓のサン、など
いかにもガンコ親爺がやっているという風の、どっしり
した和風の店である。

一度入ってみたいなあ…と思いつつ我がふところ具合を考え、
入れずにいたが、ある日バイト代が入ったので、思い切って
「甚兵衛」の戸を開けて暖簾をくぐった。

「いらっしゃい」カウンター越しに声を掛けたのは、
以外にも30代とおぼしき女性だった。
それが「甚兵衛」のママとの初めての出会いだった。

前髪は眉までのおかっぱで、後ろは肩までのストレート、
きゃしゃでスッキリした人だった。
驚いたのは、かかっている曲がたくろうだったのである。

この大衆割烹風の店で以外に合っていたのに驚いた。
他に陽水・小椋佳などである。酒は旨く、料理もおいしく、
値段もこれでいいの?と思うほど安かった。

私はいっぺんに気に入ってしまった。
その後入ってきた客はほとんどが若い客で、みんなたくろうが
好きだった。

「わたしねえ、たくろうが好きな人はわかるのよ」と私の
顔を見つつニッコリ笑ってママはそう言った。
以来、飲み代があれば「甚兵衛」へと足が向いた。

若い客たちは、ギターなど持ってきて、たくろうを歌った。
こうしてたくろうを通じて楽しい飲み仲間ができた。

ママは好きなときに店を開け、3~4日続けて休むことも
珍しくなかった。「あ~あまた休みかい…」と寂しく店の前を
通り過ぎるのだった。

ある日「甚兵衛」に入っていくと、40~50代の変なオッサン
がカウンター内に陣取り、ビールの栓など抜いていた。

ママはちょっと離れて、やや不機嫌。何となく気まづい
雰囲気が漂っていた。後から入ってきた常連に聞いてみると、
ちょっと目配せをして、親指を立てた。
その日は、早々に切り上げて家路についた。

あのオッサンはそれっきり姿を見せることはなかったが、
ママの生き様の一端を垣間見た気がした。

それからも「甚兵衛」にはよく行ったが、ある日を
境に「甚兵衛」は店が開かなくなった。

それからどれ位経ったのか、ある日M乳業のバイトに行くと、
なんとバイト先に「甚兵衛」のママから電話が入ったと
いうのだ、その日私は休みで会社にいなかったのだ。

すぐにバイトを終えて「甚兵衛」に行ったが、引き戸は
鍵が掛かり、店は深閑として人の気配はなかった。
私はすごすごと引き返した。

それから度々「甚兵衛」を覗きに行ったが、二度と
店が開くことはなかった。そして再び「甚兵衛」の
ママにも会うことはできなかった。

あれから何年経ってしまったのか、たくろうの
つま恋のコンサートのビデオを見つつ、思い出を巡っていた…。

たくろうという歌い手によって、こんなつながりが時空
を越えてもたらされているのである。
また一つ歌のすばらしさを思い、絵描きの私は少なからず
嫉妬した。

「甚兵衛」のママはどうしているのか…ふと思う
秋の夜長だった。


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