つぶや句

夢追いおっさんの近況および思うことを気まぐれに。

あんな顔

2012-05-24 05:26:15 | ちょっとした出来事
いつものように、身内を学校に送って行ってると、
反対側の道路へ犬が飛び出してきた。

その貌が何とも言えない歓びに満ち溢れているのだ。
「何あの貌…」身内も思わず声を発した。

おおよそ、犬の貌の表情など分かるなどと言うことは
無いと思っていた。せいぜい嬉しそうに尾を振るときの
尾の勢いで、「あ、もすごく嬉しいんだな」と、判断する
ぐらいだったのだ。

しかし、その犬は明らかに、「ヤッホー!シェキナベイビー」
もし、あの犬に漫画の吹き出しを入れるなら、そんな
セリフを口にしていそうな表情だったのだ。

見ると、首輪はしているのにそれについているはずの
紐がないのだ。紐から解き放たれた飼い犬は、そのまま
突っ走って消え去ってしまったのだ。

身内と茫然と逃げ去ったほうを見ていたが、「犬も
あんな貌をするのね」と二人して何とも言えない苦笑
をしてしまった。

思えば、犬は繋がれるという不自由さと引き換えに、
安全と、餌の確保を保障されている。それでも、本心は
自由になりたいんだな…と、しみじみその心中に思いを
馳せてみた。

身内を送った後の緑地の散歩のまにまに、会社を
離れて、半年たった自分とオーバーラップさせ、あの
犬の見たこともないような嬉しそうな貌が離れなかった…。
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半年はたったけれど…

2012-05-22 12:07:57 | ちょっとした出来事

会社をリタイヤしてちょうど半年を迎える。

毎日が日曜日になって、いよいよスローライフのスタート、
これからが、お絵描き三昧の我が本当の人生…と
目論んでいたのだが、どっこい、世の中そうは甘くない。

身内が思いもしなかったオバサン学生となり、
日々の食事をわたしが作ることになったのだ。

それは望むところ…と思ったのだが、これが結構大変で
連日レシピとニラメッコで、あたふたと慌ただしい日々に
追われている。何せ、料理作りのイロハがわかってないのだから、
当たり前と言えば当たり前なのだ。

その間にミニ展示などが入り、準備に追われたり、展示場に
行ったりと、リタイヤ後の変化は思った以上にめまぐるしい…。

かろうじて一息つけるのは、身内を送った後の
緑地の散歩であろうが、これとて今のとこ何だか
忙しない…。じっくり散歩すればいいのだろうが、
曜日曜日のゴミ出し等で、早く帰らねばならず
急ぎ足になって、余裕がないのだ。

こうして、リタイヤ後半年の今は、いまだ落ち着かない
主夫もどきの日々を味わっているところである。

しかしまあ、ピンチはチャンス、毎日の様に見ている
栗原はるみさんや浜内千波さん有元葉子さんなどの
レシピを手本にして、この際少しでも料理上手になって
最近料理で売り出し中のもこみっちゃんの足元くらいまで
はい登って、「イッちゃんテキトー料理」などと言われてみたい
ものである。(すでに身内らにはそう揶揄されているが)(笑)

まあ、めげずにやります…デス。
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あの悪夢再び

2012-05-16 09:22:28 | ちょっとした出来事

相変わらず、身内を送り出した後、緑地公園を散歩している。

いつも同じコースでは面白くないので、時折コースを変えて
行っている。この日も、人家の建ち並ぶ中を突っ切っていこうと
狭い路地を縫って行った。

その中の一軒の庭先に見事なサクランボがなっているではないか。
もう熟れてオレンジに輝いている。その一部は、塀の外へ溢れていて、
人さまの事ながら、「よく盗られないなあ」と心配してしまった。
そのまま緑地へ抜けて、1時間ほど散歩して帰った。

翌日、同じコースをたどって行こうと、きのうの路地に
入った。実はあのサクランボが気になっていたのだ。

「エッ…」と驚いてしまった。あのサクランボが塀の外を
中心にきれいに摘まれてしまっていたのである。

実を言うと、かすかな不安を抱いていたのだ。というのも、
もう何年も前になるのだが、やはり散歩の途中、すいか畑が
あって、それをジ~ッと見つめていたことがある。わたしは
あの葉っぱの間から西瓜模様がのぞいている様が何だかうれしくて、
すいか畑を眺めるのが好きなのだ。

そのときの西瓜はまだ、小ぶりでこれからもっと大きくなるに
違いない…と、ほくそ笑んで眺めていたのである。

すると、忘れもしないその翌日、畑の西瓜が一個残らず無かったのである。
身内らに話すと、「怪しいオッサンが見ていたので、盗られると思って
いち早く収穫したのよ」などとヌカスではないか。

しかし、これはあながち穿った見方とばかりは言えないものを
感じたのだった。想像するに、以前そのような被害にあった
経験があるのではないか…と思ったことがあったのだ。

それにしても、あんなまだ小粒の西瓜を…とそのときの
苦々しき思い出が蘇ったのだった。奇しくも、同じ
散歩コースで、今は何にも植えてないあのすいか畑を
通ってきたとこなのだった。

当然ながら、サクランボの話をすると、そのことを落ち出され、
身内らの嘲笑の渦に巻き込まれたのだった…。
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お願いの儀

2012-05-14 09:18:43 | ちょっとした出来事

ネットや写真集の素晴らしい画像など見ると、「描きたいなあ…」と
いう衝動に駆られることがある。

しかし、それをそのまま使って描いてしまうことは、基本的には
いけないのである。それは、映像権ともいうべきものに触れる
からなのだ。

写真家の方は、それこそ体を張って、一瞬のベストタイミングを
狙ってシャッターを切るのである。それは、極寒の深夜であったり、
熱帯砂漠の真ん中であったり、海中奥深くであったりと、瞬間の
一期一会を捉えるているのだ。

それを、ただ垣間見たお絵描きオッサンが、そのまま描くことは
同義的にもいけないのである。しかしながら、やはりいいものは
感動するし、その感動を描きたくなるのも、絵描きの本能とも
いうべきものでもある。

そこで、参考資料とさせていただき、その雰囲気、アングル、
迫力など、手を変え品を変えて自分の作品表現の中に
組み込ませていただいたりするのである。これはまあ、
画像拝借とまではならないので、許容範囲でありましょうが、
あまりに写真が素晴らしいと、もう変質のしようがなく、ただただ、
指をくわえて茫然と見ているだけとなる。

最近ゆえあって、描きたいなあと思った写真にその旨
正直にコメントしたところ、「自由にお描きください」という
許可をいただいたのである。それが、ビナカさんの
アメ翔くんだったのだ。

私の場合は、ただそのまま描くのではなく、一旦その
画像を自分のイメージの中に組み込んで、俳句と
融合させ、「はいまん彩」という作品にさせていただいている。

今までは、あくまでも参考資料としてしか出来なかったのが、
画像のかなりの部分をそのまま使用できるので、実感が
まったく違うのだ。しっかりした手答えを感じたのである。

以来、「描きたい!」と本当に思った時はお願い
しようと思い立ったのである。そうしなければ、滅多に来ない
「描きたい!」という衝動を殺してしまうことに気付いたのである。

お願いして断られれば、それはやむなしなので、あきらめも
つくというものだ。ただ、お願いして許可を得たからといって
すぐ描けるというものでもないのだが、この衝動だけは
殺したくないのである。

これからも、色んな感動にお願いするかもしれませんが、
どうか、広い御心で許可を賜りますようお願い申し上げます。
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紙一重

2012-05-12 06:46:51 | つらつら思うこと

この頃思うことの一つに、「差」というのは、何なんだろう?というのがある。

大きな違いを感じるのなら、まだしも、ほんのちょっとの差、としか思えない
ようなことがある。しかし、その結果には大きな差がついてしまうことが
珍しくない。

言わずもがなだが、ハッキリ出るのは勝負の世界である。
今度行われるオリンピックなど0.1秒、イヤ0.01秒の差で、メダルの色が
変わってしまうし、競馬も鼻差でダービー馬かそうでないかに
別れてしまう。

また、野球などで言う球際の強さ、サッカーの一歩の速さ。よくよく考えて
みると、実はこれ、あらゆるものにあるのだ。我が絵にしても、ひとタッチで
ボツからよみがえることもある…。

これが、生死をかけた戦いであれば、まさに「生」か「死」に分かれて
しまうのである。それは、ちょっとした油断、一瞬のスキ、一呼吸。
それはまさに紙一重という僅かなものに違いないのだ…。

料理のひと手間、一味。掛ける一言…など。わたしは今、
この紙一重という大差について、つらつら考えて
いるのです…。
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