「指名手配以外にこんなに大きく載ることは無いよ」と春日井に住む友人から電話をもらったのは、中日新聞から取材を受けた三日後の4/25(火)だった。市民版にけっこう大きく我がムクツケキ顔と作品の写真が載ったのである。その日普通に出勤して仕事をしたがだーれも気づいていない。しめしめと胸をなでおろした。私が絵を描くというのはみんな知っているのだが、どんな絵でましてや、いま個展をひらいている事など知る由も無い。それでなくてもこちらはまっとうでない人と言う引け目感をもっているので、誰にも言ってないのである。そして翌日の朝仕事を終えたとき、いつも仕事に厳しい課長がニッコリ笑って手で記事の囲みを作って「あんな良いことはみんなに言わなきゃあ」と言うのである。後でパートの女性が「課長がみんなを集めて新聞に載ってること話してくれたわよ」と話してくれた。そして「みんな喜んでたわよ」と言ってくれたのである。みんなこのまっとうでない人を同僚として素直に喜んでくれたのだ。思わず胸が熱くなってしまった。そして頑なな自分を反省したのだった。みんなありがとう。
四月二十二(土)~二十三(日)「はいまん彩」の個展が始まったので十時~六時までギャラリーに詰めていた。ギャラリーでやるのは初めてなのだが、さすがギャラリーは違うなと思わせるのは、我が拙作がスポットライトを浴びて傑作のように見えるのである。画友のM氏が言うには、「絵は時々展示してやらないとくすんでしまうよ」と言うのである。つまり絵は生きていて、展示してやると生き生きすると言うのだ。なるほど、こうして見てみると我が絵も輝いているではないか。
よく夜中誰も居なくなった部屋で人形達が動き出し、歌ったり踊ったりするというおとぎ話があるが、なんとなく信じられるような気がしてきた。もしや…我が額の中の絵達も、夜中になると魚は跳ねだし鳥は飛び回り昆虫は鳴き始めるのでは…おお~そんな想像が頭を巡り、夜中ふいにドアを開けたら額に戻りきれなかった魚や鳥・昆虫達がパニック状態におちいるかも…などと思ってニンマリしてみるのだった。
よく夜中誰も居なくなった部屋で人形達が動き出し、歌ったり踊ったりするというおとぎ話があるが、なんとなく信じられるような気がしてきた。もしや…我が額の中の絵達も、夜中になると魚は跳ねだし鳥は飛び回り昆虫は鳴き始めるのでは…おお~そんな想像が頭を巡り、夜中ふいにドアを開けたら額に戻りきれなかった魚や鳥・昆虫達がパニック状態におちいるかも…などと思ってニンマリしてみるのだった。
前回ユリのことを書いたのだが、少々気になることが頭をよぎったので、またユリのあるあたりを見てみた。すると私がユリと信じて残したあの新しい葉の近くに同じような葉が出ているのである。まっまさか…、私は目を凝らしてまじまじと覗きこんでみると、もう二~三同じような葉がでていた。げ・げげ、これは…。
昨年咲いたユリは一輪のみである。こんなに葉が出るはずがないのだ。
呆然としてそこに座り込んでしまった。するとあのユリは芽を出さなかったのか、それともその葉を私が雑草とまちがえ…うそ!そんなことが………ありえる、そそっかしい私はありえるのだ。近頃私はこんなわたし自身をほとほとイヤになってきているのである。「オレのバカヤロウ!」ああ…頼むよ何かの間違いであってくれ、ユリよ咲いてくれー。
昨年咲いたユリは一輪のみである。こんなに葉が出るはずがないのだ。
呆然としてそこに座り込んでしまった。するとあのユリは芽を出さなかったのか、それともその葉を私が雑草とまちがえ…うそ!そんなことが………ありえる、そそっかしい私はありえるのだ。近頃私はこんなわたし自身をほとほとイヤになってきているのである。「オレのバカヤロウ!」ああ…頼むよ何かの間違いであってくれ、ユリよ咲いてくれー。
私の勤めている会社は食品関連なので、防虫にうるさい。夏は工場周りの草むしりが必須だ。今年は春にもやれという。そこで私はなぜか率先して草むしりに励んでいる。
これには密かな理由があるのだ。昨年の秋のブログに書いた「花とおじさん」でユリが花を落として雌しべだけになっていたので、おじさんとして見守るというのを思い出したのだ。そのユリのあった場所を確認すると、ちゃんと新しい葉を出していたのだ。私はその葉だけを密かに残して周りの草をせっせと摘んでいたのである。幸い新しい葉はまだ背が低く目立たないのでだーれも気づかないに違いない。このユリが伸びて皆が気が付く頃には、ただの摘み忘れた一草として佇んでいればいいのである。頼むよ去年に負けないような大輪を咲かせてくれ。
これには密かな理由があるのだ。昨年の秋のブログに書いた「花とおじさん」でユリが花を落として雌しべだけになっていたので、おじさんとして見守るというのを思い出したのだ。そのユリのあった場所を確認すると、ちゃんと新しい葉を出していたのだ。私はその葉だけを密かに残して周りの草をせっせと摘んでいたのである。幸い新しい葉はまだ背が低く目立たないのでだーれも気づかないに違いない。このユリが伸びて皆が気が付く頃には、ただの摘み忘れた一草として佇んでいればいいのである。頼むよ去年に負けないような大輪を咲かせてくれ。
久しぶりにブログをやりたくなってしまった。
約四ヶ月ぶりだ。
というのもパソコンを買い替えて、うちのカミさんがデータの移動などあれやこれややっているうちに、なんだかパソコンから遠ざかってしまったのだ。
しかし書くのは苦になるほうではないので、また書いてみたくなった。
というのも、この度私の「はいまん彩」の個展をひらくことになり、友人知人に案内のはがきを送ってホームページをひらいたことを知らせたのだ。
それがきっかけになり検索エンジンに登録し、友人とリンクも始めた。
すると早速反応があり、一日二日のうちに数十名もの人が訪れてくれたのだ。
これは当然うれしいのだが、そのうれしさがなんとも不思議なウレシサなのだ。
コメントをくれた友人は顔も声も知っているのでかなり実感があるのだが、訪れたというカウントだけの人は、顔がわからないのでどなたなのか妙に実感がなく、かといって来てくれてるのは確かなので大いに気配は感じるのだ。
ああこれがいわゆるバーチャル的感触なのかと今この不思議なヨロコビに浸っているところです。
約四ヶ月ぶりだ。
というのもパソコンを買い替えて、うちのカミさんがデータの移動などあれやこれややっているうちに、なんだかパソコンから遠ざかってしまったのだ。
しかし書くのは苦になるほうではないので、また書いてみたくなった。
というのも、この度私の「はいまん彩」の個展をひらくことになり、友人知人に案内のはがきを送ってホームページをひらいたことを知らせたのだ。
それがきっかけになり検索エンジンに登録し、友人とリンクも始めた。
すると早速反応があり、一日二日のうちに数十名もの人が訪れてくれたのだ。
これは当然うれしいのだが、そのうれしさがなんとも不思議なウレシサなのだ。
コメントをくれた友人は顔も声も知っているのでかなり実感があるのだが、訪れたというカウントだけの人は、顔がわからないのでどなたなのか妙に実感がなく、かといって来てくれてるのは確かなので大いに気配は感じるのだ。
ああこれがいわゆるバーチャル的感触なのかと今この不思議なヨロコビに浸っているところです。