つぶや句

夢追いおっさんの近況および思うことを気まぐれに。

ひと時の息抜きに…

2006-05-30 11:00:09 | 絵・まんが
時折り、目に留まったものを筆のむくまま描いてしまうことがある。この空缶もその一つだ。それが気楽に書くせいか案外評判がいい。ひと時の息抜きに。
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「イ・ヨンエsama」

2006-05-27 20:29:17 | テレビ
それにしても第二の母ともいうべきあのチェゴ・サングンを殺すかなあ…と
脚本家にちょっと不満を感じていたら、やはり韓国でもそうだったたようで、
“なんとか助けて”とメールやハガキが殺到して、
結局10話分ほど死ぬのが伸びたという。さもありなん…と
ちょっと胸をなでおろしたが、死んでしまったのには違いないのだ。
これでチャングムは文字通り天涯孤独になってしまった。
それを思いやる親友のヨンセンがまたかわいい。
ヨンセンの一途な行動に応援したくなってしまう。
あのチェ・ジュウにさえ心動かさなかったのに、
コロリとチャングム、ヨンセンのミーハーファンになってしまったのだ。
そのイ・ヨンエが来日した。いやあ素敵でした。
「チャングム」役のときより清楚できれいだと思ってしまった。
私はオタッキーなところの足りない人間で、
何かにハマッタとしても夢中になり過ぎるということはないのだが、
日本のオバサマ達がペ・ヨンジュンを「ヨン様」
と呼ぶ気持ちはよーっく理解できるようになりましたです…ハイ
当然私にとってイ・ヨンエは「ヨンエ様」なのです。
一度言われてみたいもんだ
「issei.sama」なーんてね。
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戸惑いながら鑑賞文を書いている。

2006-05-27 00:26:05 | 俳句
心の琴線に触れながら共鳴して鳴るのは、月か電線か、
季節は秋より冬に近い、少し丸みを帯びて凍てかかった月、
僭越ながら上五の月帰るが見事に利いていると思う。
暗天を西へ帰る月と、白く光る電線が奏でる幽玄のうつつ、
思考は現実を離れモノクロームの彼方へ、
心は空想の世界に自由に遊ぶことが出来る、
それへ誘う舞台さえあれば、この句はその舞台となる。
郷愁にみちたメルヘンの空間へ心あそばせたい。ふと思う。
谷内六郎がこの句を描いたらどんな絵になるだろうかと……。(K・S)

月帰る触るる電線奏でつつ

これはこの俳句に対しての鑑賞文である。
私の友人で、映画監督の黒沢明が大好きな人がいる。彼はよく黒沢映画のワンシーンをうれしそうな顔をして語ってくれる。それが微にいり細にわたって「この辺が黒沢はすごいんだよ」と強調して解説してくれるのだ。私は「ホ~」と感心して本物の映画を観るのだが、確かに映画も面白いのだが、彼の解説のほうがもっと面白いので「ウ~ム…」と多少不満が残ってしまうほどなのである。これは
この鑑賞文と俳句の関係に似ているのではないかとふと思った。
そしてある俳句の大家が「選句も作品なり」と言ったそうだが、
この鑑賞文もしかり、まさにりっぱな作品ではないだろうか。私はこの鑑賞文に一票を投じたい。
あわれ名鑑賞文に恐れ入ってしまったあの俳句の作者はissei.kawabataなのなのだ。



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思ひ出ぼろぼろ「ニャンともはや」

2006-05-25 05:50:30 | 思ひ出ぼろぼろ
私は漫画家になりたくて二十歳のときに、好きだったY先生のところへ押しかけアシスタントになった。
Y先生は当時貸本専門の漫画家で、奥さんも知る人ぞ知るの漫画家夫妻だった。
お二人は子供には恵まれなかったが、奥さんが大の猫好きで、捨て猫を見ると必ず拾ってきたものだ。
一番長くいたのが「ニャロメ」というメス猫で、三毛猫だった。
ニャロメはきれいな顔立ちをしていて、けっこうすばやく野性的だった。
ある日、庭に穴を掘るモグラを取ってきて見せてくれたのには驚いてしまった。
そんなニャロメにも恐るべきことが起こったのである。
私は近くに住んで通っていたのだが、その日玄関のドアを開けると、見知らぬ猫がニャロメに乗っかっているではないか。
「エッ」と驚いて見ると、猫というにはあまりにもデカく、色は灰色で短い首に座った顔には鋭い目がランランと輝いている。まるで山猫である。
私が玄関に入っていっても逃げようともしない。よく見るとそいつはニャロメの首をガブリと噛んでいるのだ。「こいつ!」とちょっと怖かったが首根っこをつかまえて引き離そうとしたのだが、ビクリともしない。
かえってギョロリと睨み返すのである。すぐに奥に居た先生を呼んで二人で離そうとするが、離れない。仕方なくしばらく放っておくことにしたら、いつの間にか居なくなっていた。
どうも交尾していたらしいのだ。この後ニャロメは去勢したので、このあとそんなことはなかったが、そいつは相変わらず平気な顔でやってきて、ニャロメのご飯をペロリと食べてはどこかへ行ってしまうという図々しさであった。
先生に聞いたらあいつは二~三日前から姿を見せるようになり、玄関を開けた御用聞きが「オオ~!」と声をあげて逃げ帰ったそうな。
あいつはどうもこのあたりのボス争いをしているやつらしい。その後しばらく姿を見せないと思ったら、顔にスゴイ傷を負ってやってきた。
「あいつがあんな傷を負うなんて、ボス争いをしているやつも相当なやつだな、」と二人で話をしたものだった。
そのうちあいつはプッツリと来なくなってしまった。果たしてボス争いはどうなったのか。争いに敗れて死んだだの、大怪我をしただの、どこかへ縄張りを移しただのと、噂は聞いたが、その後あいつの姿を見ることはなかったのである。
しかしもしもあいつがボスになっていたら、ニャロメはその愛人か夫人になっていて、さしずめ極妻ならぬ極ニャン妻になっていたかも知れないのだ。
胸をなでおろしつつニャロメを見ると、何事もなかったかのように涼しい顔をしていた。人間も猫もおんなはつよ~い。
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案内状のゆくえ

2006-05-23 23:09:18 | 絵・まんが
私は展示会など開くとき、知り合いの方に案内状を出すようにしている。
今回の個展でも当然出したのだが、そのときいつも悩むことがある。
それは遠距離の方とか、体調不良の方とか、かなり高齢の方とかは、遠慮したほうがいいかな、ということだった。
でも今回から全ての方に出すことにした。というのも、画友のM氏によると「自分は全て出すようにしている。来る来ないは相手の方の都合で決めてもらえばいいことなんだから。」と言うのである。
なるほどそれでいいのかもしれない。それに案内のハガキを出すことによって、こちらの近況を伝えることにもなるのではないか、と思えるようになったからである。
しかし案内といってもM氏など大手デパートでやったりするので、その数がハンパじゃない。デパート側が500枚顧客に送ってくれるらしいのだが、同じく500枚を画家が持たなければならないので、都合1000枚。
「フエ~ッ」と最初聞いたとき驚いてしまった。私などはどう逆立ちしてもそんなに送り先があるとは思えないのだ。彼はちゃんと送ったと言うのである。
スゴイ…と感心していると、「なんとかなるもんだよ」とこともなげに言う。
そうか…何とかなるか…とは思ったものの、ウ~ム500枚か…あの方この方思い浮かべてはタメ息が出て、“一銭~二銭の~ハガキ~さえ~千里~万里~と旅を~する~”という田端義夫の「十九の春」がなぜか頭を巡ったのであった。
私の案内を受け取った皆さん、どうかあまりお気遣い無く、お出かけのついでで充分ですので気楽にお願いします。
広げよう案内状の輪・輪…。
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