つぶや句

夢追いおっさんの近況および思うことを気まぐれに。

止まった時間

2011-09-25 05:26:04 | 思ひ出ぼろぼろ
前回のブログで、東京へ行ってきたことを書いたが、上京に際し、わたしの漫画の師である
Y先生に会いたいと思い、電話を入れた。以前よく一緒に飲んだので、久々に一杯酌み交わしたいと、思ったのである。

電話には奥様が出られて、しばし話をした後、師に代わった。「久々に東京で一杯やりませんか」
と言うと、「悪いが…今はとてもそういう状況では…」と、師は苦しそうな胸の内を語った。

最近大病を患い手術をしたというのである。幸い手術そのものは成功し、自宅療養中ということ
だったのだが、手術の時の傷口の経過が良くなく、再手術をした後と言うのである。

思えば、東京を離れてからもう20数年になる。師とはいつの間にか年賀状だけの音信になって
しまっていて、まったく初耳だったのだ。師は知人達に気を使って誰にも知らせていない様子で、
「このことは言わないでな」と、わたしも口止めされたのである。歳月は私にも師にも容赦なく
流れていたのだ。

若かりし頃、漫画家になる決意を固め、好きだった師の押しかけアシスタントになったのだ。
アシスタントというより、弟子と言った方が合っているかと思う。弟子など決して採らなかった
師の最初で最後の弟子だったのである。わたしは、師に「一直線」とか「まっすぐ」とか
あだ名されるように、こうと決めると一心に突進してしまう性格だったのである。

近くに下宿して、師の元へ通って手伝っていたが、仕事のピークには泊まり込むのも普通であった。
奥様もマニアの間では知る人ぞ知る女流漫画家だったので、両方の仕事を手伝ったのである。
お子さんが居なかった師夫妻は、世間知らずで生意気な私を、辛抱強く身内のように可愛がって
くれたのである。わたしは、師のお宅を自分の家の様に寝泊まりし、甘え、よくご夫婦と一緒に
飲んだのである。

その後の師の事情により、師の知り合いの漫画家のアシスタントをすることになったのだが、
「わたしの師はY先生一人なのでそのつもりで!」と相手に宣言してアシスタントをするような
失礼なヤツだったのである。

そういうわけで、東京へ行こうと思った時、真っ先に師に会いたいと思ったのだ。
奥様が、「ホントに手術そのものはうまくいったので、必ず元気になるので、そのときにネ…」
と言われた。せめて一目でもお目にかかってお見舞いにでも…と思ったのだが、かえって師に
気を遣わせてしまうに違いないと思い、やむなく、今回会うことは断念したのだった。

考えてみれば師はわたしより10歳年上なので、何らかの病と付き合ってても何ら不思議ではない年齢
なのである。私の中で止まっていた時間が一気に早送りされてしまったような気がした。

今は、ただただ傷口の順調な回復を祈るばかりである。そして、必ずや、またお目にかかり、
一杯酌み交わしたいと願うのだ。「先生、回復の折は必ず行きますので、一報ください。
以前と同じようにとまでは言いませんが、軽くでいいですから、完治祝いに一杯いきましょう…。」







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東京へ

2011-09-17 04:17:41 | 絵・まんが
故あって、作品を東京の某画廊へ登録することになったことは、すでに
紹介したが、幸い審査も合格した旨連絡をいただいた。

そのことに関する手続きは一通り済んだのだが、その東京の現場の画廊を見たくなったのである。
その旨電話をすると、「いつでもおいで下さい」と快諾を得たので、AM11時に待ち合わせをした。

わたしは若かりし頃、漫画家を目指すべく東京に住みついていたことがある。漫画家に
なってからを合わせるとかれこれ15年ほど居たことになる。その東京を離れてはや20数年に
ナンナンとする。以来初めての東京行きとなる。

初めは、深夜バスで行くことも考えたのだが、日頃の行いのせいか、丁度この日台風12号が
東京方面へ向かうという予報であった。会いたい人、行きたい場所など、多々あったのだが、
やむなく、新幹線でとんぼ返りという道を選んだ。

銘菓「赤福」を手土産に、「のぞみ」で一路東京へと向かった。
最近読み始めた「倉田江美」という漫画家のコミックを2冊持ってきていたので、
発車と同時に読み始めたが、せっかくの新幹線の旅ということで、カバンに仕舞い込み、
流れる外の景色を眺めることにした。

同僚のYくんが「新幹線ならのぞみの○×がいいですよ、席は左側が富士山が見えて
いいですよ」と、どういうわけだか新幹線に詳しいうんちくとアドバイスをくれたので
あるが、あいにく空には分厚い雲が覆いかぶさっていて富士山は見れそうにない。

そこで、せめて海でも見ようと右側に席をとったのだった。(ゴメンネYくん)
海もちらりと水平線が見え隠れするくらいで、大した景色ともいえないが、しばし、走り去る
風景を視界に入れ、台風と倉田江美を引き連れていざ東京へ…。

久々の東京は以前と変わらず、ゴミゴミとしていて、ほこりっぽかった。某デパートの近くと
地図で調べてきていたのだが、立ち並ぶビルはどれも高く、全部某デパートクラスなので
目印にはならなかった。やむなく東京駅の交番にて、おのぼりさんとなって尋ねたのだった。

某画廊は東京駅から歩いてものの7~8分くらいのビルの一角にあった。でも画廊といっても
作品展示はしておらず、事務所になっているのだ。それはHPでも書いてあったので、承知していた
ので驚かなかったが、それでも大きな額装の絵が所せましと置かれていて、やっぱり
画廊なんだな、と納得させられた。

代表のTさんは、わたしと同年輩くらいか…、落ち着いた感じの方で、「皆さんで召し上がって
ください」と「赤福」を渡すと、ニッコリと笑って受取っていただいた。電話を入れるといつも
若い女性が出るのだが、その方なのか、おいしいお茶を出してくれた。

そのお茶をいただきつつ、営業活動や運営状況などを聞いてみた。すでに35年やっていて、
顧客というべきか、取引のある大手企業などの名前をズラリと挙げた。海外60カ国にも紹介
してるとHPでうたっていたので、聞いてみると、海外ではほとんど1メートルクラスの大きな
作品が好まれると言う。「アチャーそんな大きなの描いたことないなあ…」とため息。

「絵が求められるのは、会社創業、転居、新築、好き嫌い」だったか、T代表はスラスラと言われた。
特に面白かったのは、「上手い絵はかえって好まれません」とキッパリ言ってのけたことだった。
何となくわかる気がしたのは、「上手い」と言われても絵描きはあまり嬉しくないのである。
「何かしらいいわねえ」くらいに言っていただくのが有難いところなのだ。

忙しい中、時間をさいていただいたお礼を申し述べ、画廊を後にした。

「絵は、ホントに好みです。」つくづく言われた言葉が脳裏を漂っていた。画廊から東京駅までの
路地には、割烹、魚の旨い店、大衆酒場などがひしめき、もし、今が夕暮れ時であったなら、
すんなり帰るのは至難のワザだな…と思われ、T代表がもし呑める人なら、さぞや…などと
あらぬ心配をしてしまった…。

幸い、台風はチンタラと遅い居座り台風だったので、まだ四国あたりをウロチョロしてる
ようで、雨にもあわずに済んだのだった。お陰で、倉田江美のみ連れて帰ったのである。

画廊の活動具合を直接代表に聞け、それを肌で実感できて、ホント行ってよかったと
素直に思えた東京行きだった。
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大いなる節目

2011-09-06 03:05:12 | 会社
先日会社の元代表が亡くなった。私が以前いた支社の長でもあり、お世話に
なった人だった。

中途でパートとして働きに行った時、面接した人だったのだ。半年間
パートで働いた後、直接代表に電話をして、正社員にしてもらったのである。
「それなりの待遇はさせてもらいますよ」と言って快く引き受けてくれたのである。

人情家でもあったが、仕事となると鬼になる人で、典型的なワンマンタイプの
人だった。それでも私は可愛がってもらったのだ。

葬儀の壇上には元気なころの笑顔の遺影が掲げられ、久しぶりにご尊顔を拝した。
旧支社のすでに退社している面々も顔を見せ、しばし談笑した。

葬儀が終わり帰ろうとした時、喪主である娘さんに「一目でも顔を見ていって
いただけますか」と言われたのだが、「見るとよけいに辛いので…」と遠慮申し上げて
葬儀場を後にした。元気な頃のあの遺影のようなイメージのままに脳裏に残したかった
のである。

もうかつての支社の工場は稼働していない。以前の社員は私を含め、皆本社の工場へと
移動になりそこで働いている。

そのうちの3人が脳梗塞を起こし、一人が今年になって辞めた。そしてその長であった元代表が
亡くなったのである。

一つの大いなる節目だと思った。
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つぶや句

2011-09-04 05:45:28 | 俳句
       春の朝眠れる森の妻起こす

一番最初に作った句である。地元の俳句会に入会したい旨、会長に電話したところ、
「俳句を3句作ってきてください」と女性会長が言ったのである。

「エーいきなり…」俳句のはの字も知らなかったので、とまどっていると、
「五・七・五の中に季語を1つ入れればいいんですよ」と事も無げにおっしゃるのだ。

「はあ…」わたしは生返事をして電話を切ったのだが、そのとき傍でグースカ寝ていた
身内をふと見やり、おとぎ話の「眠れる森の美女」を思い出し、何を血迷ったかおもむろに
「チュッ」とやってみたのだ。で…目を覚ました身内が目の前のわたしも見て「な、何すんの」と
痴漢にでもあったような顔をしたので、こっちもムッとして「起きろ!」と一言。

で、冒頭の一句ができたのである。面白いことにこの句が最初に出席した句会で
会員の一人に選ばれてしまったのだ。以来もう20年以上やっていることになる。

このたび、ホームページのリニューアルということで、更新のために
俳句を洗いだしたのだが、絵の挿入のを含め使えそうなのが400句以上になった。
句会に入って4~5年経ったころは、面白くて月に50句近く作ったこともあったが、
実際に使える句は1割ほどだった。


ものぐさだったわたしは、この日本で一番短い文芸といわれる俳句に
興味を持ったのだ。当時は四コマ漫画家でもあって、四コマの構成基本
起・承・転・結に俳句の五・七・五が近いと思ったのである。

最初は面白くて仕方がなかったのだが、段々その深みにハマって足を
取られるようになり、底なし沼の苦悩も味わうことになる。

しかし、今でも何かの折には一句ひねっているので、長い付き合いとなっているのだ。
わたしの本質は絵描きだと思っているが、人生の最後に残るのは俳句かも…とも思っている。
何せ、手がきかなくなると絵は描けなくなってしまうが、脳が動く限り俳句は
作れるのである。

とは言え、最後になる辞世の一句は、願わくばまだまだ先にしたいところなので、
しばし…日々の中で、つぶや句つもりである。

      棘に袖とられて薔薇の息散らす

                    issei
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