2014/05/06
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記5月(2)素足でダンス
ゴールデンウィーク、カレンダーの並び方によって「今年は大型連休」だの小型だのと言われますが、どうやら2014年は超小型、シルバーウィークくらいのものです。
私も、完全に連続したのは、3、4、5、6の4日間のみ。4月29日は、火曜日出講の大学暦が、昭和の日は、通常授業を行う」ということで、仕事。4月の最後の3日間と、5月1日、5月2日も、カレンダー通りの通常授業。ただし、学生のほうは「自主的ゴールデンウィーク」を作り、欠席学生も多かったです。みな、日本の休日を満喫したことでしょう。
5月1日は、授業が終わったあと、夜は知人」が出演するダンス公演を見にいきました。ブラームスの小品、ショパンのピアノ曲で踊るモダンダンスの公演でした。(ティアラ江東)
知人は「イサドラダンカメソッドのダンスレッスンを受けてています。
イサドラ・ダンカンは『裸足のイサドラ』という伝記映画がヒットしたことで知られるモダンダンスの祖ともいわれるダンサーです。
かってヨーロッパでは舞台芸術のうちでもバレエダンサーは評価が低く、上流階級の人々は踊り子といえば、「娼婦よりはましな愛人」として相手にする程度の女性としてみなしていました。
しかし、イサドラは毅然とした意識をかかげてアメリカからヨーロッパに渡りました。ダンサーが「娼婦もどき」なのではなく、芸術家であるとして社会的認知を得た最初の女性といえます。アメリカからヨーロッパ社会にのりこんだイサドラは、ギリシャ風の衣装を身にまとい、素足で踊ってセンセーションを巻き起こしました。
映画のタイトルにもなっているように、「裸足」はイサドラダンスのセールスポイントでした。しかし、20世紀初頭のヨーロッパで、素足で踊ることがセンセーションを巻き起こした、ということの意味が、完全にはわかっていなかったのだと、今頃気づきました。
日本では、裸足は「靴を買えない貧困」という意味を持ったり、近年の「自然に親しむ教育」では、裸足は自然のなかで素のままで過ごすことの象徴になっています。しかし、とくにビクトリア朝時代のイギリス貴族社会では、女性がふくらはぎや足首が見えるようなスカートを履くこと、素足を見せることは、現代において、女性が胸をはだけ、乳首を見せて大通りを歩くのと同じくらいはしたないことでした。
女性が靴を脱いで素足になるのは、ベッドのなかだけ。性的関係を持つ相手以外に、素足を見せることはありませんでした。それは、現代の女性が、成人男性に乳首を見せるのは性的関係を持つ相手以外には考えられない、というのと同じことです。
「セクシャル」「性的な魅力」というのは、時代によって変わります。江戸時代には乳房が大きいことは少しも女性の魅力とは考えっれていませんでしたし、現代のおおかたの社会において「首が30センチ以上も長いことが女性美」とは考えられていません。
イサドラが裸足で踊ったとき、イサドラはそれを「ギリシャ由来の自然な人間の美」と主張し、「舞踊は芸術である」と主張して踊ったのですが、見る側ことに男性は、裸足の女性を見て、即ベッドの上の女性を想像し、性的な妄想をたくましくしながらギリシャ風衣装の乙女達が踊るのを見ていたのかもしれません。
当時の新聞のダンス評論などに決して露骨な「セクシャル」な表現はなされていませんから、イサドラの踊りが「セクシーな咸興のために見られているという批評はおおっぴらに出されることはなかっただろうと思います。
しかし、裸足の意味の文化差を考えたとき、夕涼みには浴衣に素足が当然だった日本女性と、ベッドの中以外で素足を見せることが戒められていた社会での素足のダンスとでは、受け取り方が異なるのだ、ということに、わたしはようやく気づいたのです。
イサドラの振り付けを受け継いだイサドラの養女たち、そのまた弟子たちは、良家の子女の嗜みとしてみな躾よくダンスを習っており、イサドラの奔放な生き方感じ方を受け継いだわけではありませんでした。
日本で「イサドラダンカンヘリテージ」としてイサドラの振り付けを受け継いでいるメアリー佐野の教え方も、実に清潔でさわやかな「美しいダンス」でした。私は数度のダンスレッスンを受けたのみですが、メアリー佐野のダンス公演をみたり、今回のイサドラダンカンヘリテージダンサーズのダンスを見ても、セクシーとは無縁の、むしろ乙女の未熟な美しさを強調するダンスに仕上がっていたように感じました。
「乙女の魅力」は、少女論のなかで記号的に扱われてきましたが、「神のみこ」として未通未産の輝きを持つことが最大の魅力であると思います。今回みた公演、5月1日のイサドラの振り付けによるダンスも、ふんわりとやさしく上品な仕上がりでした。ブラームスのジプシーという曲に振りつけたものが、一番ジプシーの持つ情熱や激しさを表現していましたが、ヨーロッパで「ジプシー=ロマ」の人々に付与されている性的な奔放さ、猥雑な情熱、放浪と自由というイメージとは異なる印象を受けました。
「激しく外へ希求の思いをぶつけているけれど、決して既存の殻を破ることはない」。「思春期に反抗はしても、結局は親の言いつけ通りに嫁に出て、良家の夫人となる前段階の乙女達」
裸足の意味を考えると、私はイサドラの振り付けが、現在のような「養女たちが伝承した正統な踊り」とは異なっていたのではないかと感じました。
イサドラの振り付けは、かなり正確に舞踊譜に残されており、イサドラの養女たちがその再現と伝承を行ってきたことは理解できるのですが、イサドラのエネルギーを受け継ぐダンスを見てみたい、と思います。
イサドラダンサーズの踊りのほか、ショパンやブラームスの曲にのせて、90分のダンス公演、う~ん、今回は踊りを見ながら、ひたすら裸足のことを考えていました。
同僚もむろん裸足でイサドラの振り付けを踊りましたが、とても清潔な乙女の踊りでした。イサドラの振り付けをそのように乙女の美しさで踊るのもひとつの伝承であることはわかっていますが、セクシーな魅力に満ちたイサドラダンスも残されているなら、見てみたいです。
ダンスは、見るのも自分で踊るのも楽しい。
私の踊るダンス?今、レディガガの曲で練習しています。セクシーかって?そりゃもう、ひと目みた方は悶絶のあげく憤死です。ダンスシューズを履いていて裸足じゃありませんが、なにしろ、腹のまわりの豊満な脂肪がゆさゆさとゆれるダンス、こわいもの見たさの方、9月の発表会、乞うご期待。無料ですが、いきどおりのあまりの憤死にご注意ください。
<つづく>
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>十四事日記5月(2)素足でダンス
ゴールデンウィーク、カレンダーの並び方によって「今年は大型連休」だの小型だのと言われますが、どうやら2014年は超小型、シルバーウィークくらいのものです。
私も、完全に連続したのは、3、4、5、6の4日間のみ。4月29日は、火曜日出講の大学暦が、昭和の日は、通常授業を行う」ということで、仕事。4月の最後の3日間と、5月1日、5月2日も、カレンダー通りの通常授業。ただし、学生のほうは「自主的ゴールデンウィーク」を作り、欠席学生も多かったです。みな、日本の休日を満喫したことでしょう。
5月1日は、授業が終わったあと、夜は知人」が出演するダンス公演を見にいきました。ブラームスの小品、ショパンのピアノ曲で踊るモダンダンスの公演でした。(ティアラ江東)
知人は「イサドラダンカメソッドのダンスレッスンを受けてています。
イサドラ・ダンカンは『裸足のイサドラ』という伝記映画がヒットしたことで知られるモダンダンスの祖ともいわれるダンサーです。
かってヨーロッパでは舞台芸術のうちでもバレエダンサーは評価が低く、上流階級の人々は踊り子といえば、「娼婦よりはましな愛人」として相手にする程度の女性としてみなしていました。
しかし、イサドラは毅然とした意識をかかげてアメリカからヨーロッパに渡りました。ダンサーが「娼婦もどき」なのではなく、芸術家であるとして社会的認知を得た最初の女性といえます。アメリカからヨーロッパ社会にのりこんだイサドラは、ギリシャ風の衣装を身にまとい、素足で踊ってセンセーションを巻き起こしました。
映画のタイトルにもなっているように、「裸足」はイサドラダンスのセールスポイントでした。しかし、20世紀初頭のヨーロッパで、素足で踊ることがセンセーションを巻き起こした、ということの意味が、完全にはわかっていなかったのだと、今頃気づきました。
日本では、裸足は「靴を買えない貧困」という意味を持ったり、近年の「自然に親しむ教育」では、裸足は自然のなかで素のままで過ごすことの象徴になっています。しかし、とくにビクトリア朝時代のイギリス貴族社会では、女性がふくらはぎや足首が見えるようなスカートを履くこと、素足を見せることは、現代において、女性が胸をはだけ、乳首を見せて大通りを歩くのと同じくらいはしたないことでした。
女性が靴を脱いで素足になるのは、ベッドのなかだけ。性的関係を持つ相手以外に、素足を見せることはありませんでした。それは、現代の女性が、成人男性に乳首を見せるのは性的関係を持つ相手以外には考えられない、というのと同じことです。
「セクシャル」「性的な魅力」というのは、時代によって変わります。江戸時代には乳房が大きいことは少しも女性の魅力とは考えっれていませんでしたし、現代のおおかたの社会において「首が30センチ以上も長いことが女性美」とは考えられていません。
イサドラが裸足で踊ったとき、イサドラはそれを「ギリシャ由来の自然な人間の美」と主張し、「舞踊は芸術である」と主張して踊ったのですが、見る側ことに男性は、裸足の女性を見て、即ベッドの上の女性を想像し、性的な妄想をたくましくしながらギリシャ風衣装の乙女達が踊るのを見ていたのかもしれません。
当時の新聞のダンス評論などに決して露骨な「セクシャル」な表現はなされていませんから、イサドラの踊りが「セクシーな咸興のために見られているという批評はおおっぴらに出されることはなかっただろうと思います。
しかし、裸足の意味の文化差を考えたとき、夕涼みには浴衣に素足が当然だった日本女性と、ベッドの中以外で素足を見せることが戒められていた社会での素足のダンスとでは、受け取り方が異なるのだ、ということに、わたしはようやく気づいたのです。
イサドラの振り付けを受け継いだイサドラの養女たち、そのまた弟子たちは、良家の子女の嗜みとしてみな躾よくダンスを習っており、イサドラの奔放な生き方感じ方を受け継いだわけではありませんでした。
日本で「イサドラダンカンヘリテージ」としてイサドラの振り付けを受け継いでいるメアリー佐野の教え方も、実に清潔でさわやかな「美しいダンス」でした。私は数度のダンスレッスンを受けたのみですが、メアリー佐野のダンス公演をみたり、今回のイサドラダンカンヘリテージダンサーズのダンスを見ても、セクシーとは無縁の、むしろ乙女の未熟な美しさを強調するダンスに仕上がっていたように感じました。
「乙女の魅力」は、少女論のなかで記号的に扱われてきましたが、「神のみこ」として未通未産の輝きを持つことが最大の魅力であると思います。今回みた公演、5月1日のイサドラの振り付けによるダンスも、ふんわりとやさしく上品な仕上がりでした。ブラームスのジプシーという曲に振りつけたものが、一番ジプシーの持つ情熱や激しさを表現していましたが、ヨーロッパで「ジプシー=ロマ」の人々に付与されている性的な奔放さ、猥雑な情熱、放浪と自由というイメージとは異なる印象を受けました。
「激しく外へ希求の思いをぶつけているけれど、決して既存の殻を破ることはない」。「思春期に反抗はしても、結局は親の言いつけ通りに嫁に出て、良家の夫人となる前段階の乙女達」
裸足の意味を考えると、私はイサドラの振り付けが、現在のような「養女たちが伝承した正統な踊り」とは異なっていたのではないかと感じました。
イサドラの振り付けは、かなり正確に舞踊譜に残されており、イサドラの養女たちがその再現と伝承を行ってきたことは理解できるのですが、イサドラのエネルギーを受け継ぐダンスを見てみたい、と思います。
イサドラダンサーズの踊りのほか、ショパンやブラームスの曲にのせて、90分のダンス公演、う~ん、今回は踊りを見ながら、ひたすら裸足のことを考えていました。
同僚もむろん裸足でイサドラの振り付けを踊りましたが、とても清潔な乙女の踊りでした。イサドラの振り付けをそのように乙女の美しさで踊るのもひとつの伝承であることはわかっていますが、セクシーな魅力に満ちたイサドラダンスも残されているなら、見てみたいです。
ダンスは、見るのも自分で踊るのも楽しい。
私の踊るダンス?今、レディガガの曲で練習しています。セクシーかって?そりゃもう、ひと目みた方は悶絶のあげく憤死です。ダンスシューズを履いていて裸足じゃありませんが、なにしろ、腹のまわりの豊満な脂肪がゆさゆさとゆれるダンス、こわいもの見たさの方、9月の発表会、乞うご期待。無料ですが、いきどおりのあまりの憤死にご注意ください。
<つづく>