20140521
ぽかぽか春庭にっぽにあにっぽんご教師日誌>日本語ふしぎ発見2014前期(6)質問への回答
日本人学生に「日本語と他の言語を対照したり、日本語を読み書き話すうえで、へんだなあとか、どうしてこのように表現するのかわからないなあ、と感じることがあったら、メールで質問しなさい」と伝えています。
毎年おなじような質問がありますが、学生の質問ひとつひとつ答えることで、少しでも日本語に興味をもってほしいし、日本語学習者に質問されたとき、きちんと答えられる日本語教師であってほしいと願っています。
私は、中学生のとき「どうして英語はペンが2本あったらペンズと言わなくてならないのですか」という質問に答えてもらえなかったことなどから、英語はずいぶんとへんな言語だと感じ、2度目の大学で英語教授法の先生に答えてもらうまで、英語を拒否してしまいました。
日本語について質問されたら、きちんと答えられるようになったうえで、学習者に向き合います。どんな質問にも答えられる自信をつけたからといって、初級学習者にひとつひとつ答えないことも多い。たとえば「どうしてピンクいシャツと言ってはいけないのですか」という質問に「それは、あとで教えるから、今日は、まず赤い、青い、白い、黒い、黄色い、茶色い、この6つの色を覚えてね」と言えるのです。
学習者が日本語の名詞と形容詞のちがいが十分にわかるようになってから、色彩名詞として新しく成立した緑、紫などは名詞のみ成立しており、形容詞化されているのは、古来から色彩名詞が成立していた赤青白黒の四色が基本であること、ピンうやオレンジなどは、日本語としてはまだ外来語として意識されるので、カタカナで表記する。現在形容詞化の途上なので、あと50年したら、みどりい、ぴんくい、おれんじい、を言うようになるでしょう。10代以下の子供たちがこう言い出したので。しかし、まだ今はちがうので、試験時に「みどりいシャツ」や「ぴんくいくつ」と書いたらバツだよ、今の時点で規範的日本語では「みどりのシャツ」「ピンクの靴」だから、と話します。
教師にとっては「高校の古文の授業を復習してくれよ」というような質問もあるのですが、最近では入試で現代国語のみ出題する大学を受験する高校生は、古文を履修しないまま高校を卒業するので、以下のような単純な質問も出ます。
質問1)
日本語の疑問。「知らん」「分からん」の「ん」とは文法的に何ですか?
<回答>
「わからぬ」の「ぬ」は、国文法では否定の助動詞。
「ん n」は、動詞未然形に接続する否定助動詞「ぬ nu」のうちの「u」が脱落したものです。
留学生のための日本語文法では「動詞否定形」のふるい形として、中級以後に「知らん」を扱います。初級段階では「しらない」「わからない」のみ扱います。
質問2)
先生は、「水を飲む、息をのむとはいうけど、現時点では、車をのむ、ビルをのむとはいわないよね」とおしゃっていましたが、「津波がビルをのみこんだ」などという際、使用されていると思うのですが、それはまた違うのでしょうか。
<回答>
初級では、実際に口のなかに飲み込む動作のみを扱う。津波がビルを飲み込むは、擬人法を含む比喩表現です。上級クラスになると、比喩表現も扱うが、初級の学習者にはそこまで教えない。
質問3)
なぜ、自分の名前を自分でいうと人は幼さを感じるのでしょうか。
<回答>
人間の子は、生まれた時は母親(またはその他の養育者)と自分自身について一体視して育ち、生後8か月くらいで他者と養育者の区別がはっきりわかようになるため、人見知りが始まります。
さらに成長すると、人の子は、自分自身と自分以外の区別がはっきりとできるようになる。これは、自称と他称を区別できるようになることで、大人に伝わる。自分自身を「ぼく」や「あたし」などと呼ぶようになる。しかし、自分への他者からの呼びかけの語、すなわち自分自身の名前をそのまま用いて自称とすることがある。「みよたんはねー」とか、「まあくんは、おなかすいたよ」とか。
少し大きくなってくると、自分の名前を自称詞として用いるのは、幼い子の場合であることが理解でき、他者から呼ばれる呼び名ではなく、人称をあらわす「おれ」「わたし」などを用いることができる。
中学生高校生になっても、自称詞として自分の名を使うことは、幼くかわいらしい自分を演出する意図をもってなされる場合もあるが、多くの青少年は、自我意識が芽生えると、自分の名を自称詞として用いなくなる。それが自然な発達である。
ここでは、自称としての名のほうについて述べました。
旧日本の軍隊などで、姓を自称詞として用いて「スズキは本日の任務終了しました」などいうことはありました。
~~~~~~~~~~~~
「どうしてひらがなとカタカナの両方をつかうのですか」「ひとつの漢字の読み方がたたくさんあるのはなぜですか」など、毎年出てくる質問もありますが、どのような疑問質問であれ、日本語に関心をもってくれることが肝要。
「叔父叔母と伯父伯母」のふたつの表記の意味のちがいがあることを、はじめて知った」という感想コメントを書いてくる日本人大学もいました。年々学生の日本語力低下は顕著ですが、「まだまだこんなことをなげいていちゃいけない、日本語が通じる日本人であるだけマシ」と肝に銘じています。
日本語には、まだまださまざまな「ふしぎな表現」があります。
ときに、教師にも気付かなかった質問を出してくれると、こちらも一生懸命考えて、思考訓練になります。
ユニークな質問を楽しみにしています。
<おわり>
ぽかぽか春庭にっぽにあにっぽんご教師日誌>日本語ふしぎ発見2014前期(6)質問への回答
日本人学生に「日本語と他の言語を対照したり、日本語を読み書き話すうえで、へんだなあとか、どうしてこのように表現するのかわからないなあ、と感じることがあったら、メールで質問しなさい」と伝えています。
毎年おなじような質問がありますが、学生の質問ひとつひとつ答えることで、少しでも日本語に興味をもってほしいし、日本語学習者に質問されたとき、きちんと答えられる日本語教師であってほしいと願っています。
私は、中学生のとき「どうして英語はペンが2本あったらペンズと言わなくてならないのですか」という質問に答えてもらえなかったことなどから、英語はずいぶんとへんな言語だと感じ、2度目の大学で英語教授法の先生に答えてもらうまで、英語を拒否してしまいました。
日本語について質問されたら、きちんと答えられるようになったうえで、学習者に向き合います。どんな質問にも答えられる自信をつけたからといって、初級学習者にひとつひとつ答えないことも多い。たとえば「どうしてピンクいシャツと言ってはいけないのですか」という質問に「それは、あとで教えるから、今日は、まず赤い、青い、白い、黒い、黄色い、茶色い、この6つの色を覚えてね」と言えるのです。
学習者が日本語の名詞と形容詞のちがいが十分にわかるようになってから、色彩名詞として新しく成立した緑、紫などは名詞のみ成立しており、形容詞化されているのは、古来から色彩名詞が成立していた赤青白黒の四色が基本であること、ピンうやオレンジなどは、日本語としてはまだ外来語として意識されるので、カタカナで表記する。現在形容詞化の途上なので、あと50年したら、みどりい、ぴんくい、おれんじい、を言うようになるでしょう。10代以下の子供たちがこう言い出したので。しかし、まだ今はちがうので、試験時に「みどりいシャツ」や「ぴんくいくつ」と書いたらバツだよ、今の時点で規範的日本語では「みどりのシャツ」「ピンクの靴」だから、と話します。
教師にとっては「高校の古文の授業を復習してくれよ」というような質問もあるのですが、最近では入試で現代国語のみ出題する大学を受験する高校生は、古文を履修しないまま高校を卒業するので、以下のような単純な質問も出ます。
質問1)
日本語の疑問。「知らん」「分からん」の「ん」とは文法的に何ですか?
<回答>
「わからぬ」の「ぬ」は、国文法では否定の助動詞。
「ん n」は、動詞未然形に接続する否定助動詞「ぬ nu」のうちの「u」が脱落したものです。
留学生のための日本語文法では「動詞否定形」のふるい形として、中級以後に「知らん」を扱います。初級段階では「しらない」「わからない」のみ扱います。
質問2)
先生は、「水を飲む、息をのむとはいうけど、現時点では、車をのむ、ビルをのむとはいわないよね」とおしゃっていましたが、「津波がビルをのみこんだ」などという際、使用されていると思うのですが、それはまた違うのでしょうか。
<回答>
初級では、実際に口のなかに飲み込む動作のみを扱う。津波がビルを飲み込むは、擬人法を含む比喩表現です。上級クラスになると、比喩表現も扱うが、初級の学習者にはそこまで教えない。
質問3)
なぜ、自分の名前を自分でいうと人は幼さを感じるのでしょうか。
<回答>
人間の子は、生まれた時は母親(またはその他の養育者)と自分自身について一体視して育ち、生後8か月くらいで他者と養育者の区別がはっきりわかようになるため、人見知りが始まります。
さらに成長すると、人の子は、自分自身と自分以外の区別がはっきりとできるようになる。これは、自称と他称を区別できるようになることで、大人に伝わる。自分自身を「ぼく」や「あたし」などと呼ぶようになる。しかし、自分への他者からの呼びかけの語、すなわち自分自身の名前をそのまま用いて自称とすることがある。「みよたんはねー」とか、「まあくんは、おなかすいたよ」とか。
少し大きくなってくると、自分の名前を自称詞として用いるのは、幼い子の場合であることが理解でき、他者から呼ばれる呼び名ではなく、人称をあらわす「おれ」「わたし」などを用いることができる。
中学生高校生になっても、自称詞として自分の名を使うことは、幼くかわいらしい自分を演出する意図をもってなされる場合もあるが、多くの青少年は、自我意識が芽生えると、自分の名を自称詞として用いなくなる。それが自然な発達である。
ここでは、自称としての名のほうについて述べました。
旧日本の軍隊などで、姓を自称詞として用いて「スズキは本日の任務終了しました」などいうことはありました。
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「どうしてひらがなとカタカナの両方をつかうのですか」「ひとつの漢字の読み方がたたくさんあるのはなぜですか」など、毎年出てくる質問もありますが、どのような疑問質問であれ、日本語に関心をもってくれることが肝要。
「叔父叔母と伯父伯母」のふたつの表記の意味のちがいがあることを、はじめて知った」という感想コメントを書いてくる日本人大学もいました。年々学生の日本語力低下は顕著ですが、「まだまだこんなことをなげいていちゃいけない、日本語が通じる日本人であるだけマシ」と肝に銘じています。
日本語には、まだまださまざまな「ふしぎな表現」があります。
ときに、教師にも気付かなかった質問を出してくれると、こちらも一生懸命考えて、思考訓練になります。
ユニークな質問を楽しみにしています。
<おわり>