20170401
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2017十七音日記3月(10)新宅&古書斎
3月末に友人といっしょに牧野富太郎記念庭園へいってきました。
都内の庭園や公園、主なところへはほとんど訪れてきたのですが、牧野富太郎記念庭園に行ったことがいなかったので、案内してもらったのです。
牧野富太郎(1862-1956)と相沢忠洋(1926-1989)は、母の「アイドル」でした。尊敬してやまない二人の学者のことを、折にふれて私に語って聞かせました。学問にどれほど偉大な貢献をしたか。恵まれない環境の中で、こつこつと己の研究をまっとうする一生が、後世の人にとってどれほど価値があるか。
母にとって、「もっとも偉大な学者」と感じるのが、なぜこの二人だったか。二人とも学歴を持たない、独学の研究者だったからです。
「女に学問はいらない」という、当時としては農家の当主として当たり前の考え方をしていた父親のもとで、母は、どれほど勉強したくてもあきらめざるを得ませんでした。戦中戦後の時代、下の弟たちが旧制中学や新制大学に通う学費を稼いで父親を助けることが、青春のすべてだった母にとって、学歴がなくても大きな功績を残した植物分類学の牧野富太郎と考古学の相澤忠洋は、自分は果たせなかった学問への夢を切り開いて、広大な世界を夢見させてくれる存在だったのです。
そして母は私に「おまえが学問が好きなら、どこまでだって勉強を続けなさい」と言いきかせました。母が生きていたら、私も学問に精進して一生を学問に費やしただろうとおもいます。ですが、私が24歳のときに医者の誤診で母は55歳で死んでしまいました。私はずっと母と生きて行くつもりでしたから、落ち込むばかりで生きる気力をなくしてしまいました。
母が「娘がとったらうれしいなあ」と言っていた博士号を、私が取得したのは還暦すぎてから。博士号といっても業績とは言えないようなささやかなものですけれど、ま、形だけでも。
友人が前回牧野庭園に来園したのは、2010年にリニューアルされるずっと前。お母さんが入院先から戻って養生していたとき、少しも外へ出たがらない病後の母親を気遣って、「母を元気にさせるには、少しは外に連れ出さなければ」と思ったのだそうです。お母さんといっしょに散歩したのが、この牧野記念庭園だった、という話を聞きました。
リニューアル前は樹木もうっそうとしていて、草木は雑草園のようにぼうぼうと生えていたというお庭ですが、久しぶりに来てみたらだいぶようすが変わったと。
3月末、冷え込んだ日が続いたせいか、まだ花も少なくて、葉のない木立も庭の草もこざっぱりとしていました。
牧野記念庭園

牧野富太郎博士が94歳でなくなったあと、博士が植えた植物とともに、庭園と自宅が遺族から委託され、一般公開されるようになりました。
友が老母を支えてこの庭を歩くようすを思い浮かべました。私は母の老後を見ることができませんでした。友人がご母堂とともに植物園を散歩したことを聞かせもらい、私の分まで親孝行してもらったような気になりました。
牧野富太郎は、学歴がなかったために勤務していた東大でも冷遇されました。主任の教授と対立し、研究室を追い出されるような目に遭いながらもひたすら植物の収集分類につとめ、数々の新種を発見し発表しました。なかでも、入り口を入ってすぐのところに植えられているセンダイヤ桜とスエコザサは、庭園の目玉です。
センダイヤ桜は、日本に自生していた十種のサクラのうち、山桜の栽培種です。高知市の仙台屋という店の前に生えていた木を牧野博士が発見、命名したのです。幕末に開発された染井吉野が全国に広がったあと、仙台屋桜は少なくなっていき、貴重な桜となっています。今では牧野記念庭園の入り口にある仙台屋桜が、日本でもっとも大木なのだそうです。まだ満開にはなっていませんでしたが、染井吉野などよりは開花が早いようでした。
牧野庭園入り口に咲く仙台屋桜

スエコザサは、牧野博士が発見した新種のなかでも特別なもの。貧苦に耐えて夫の研究を支え続けた壽衛子夫人の名を残すために命名されました。
牧野富太郎は、1890年に11歳年下の小澤壽衛子(1873-1928)と結婚しました。以来、夫人は、大学で薄給の講師を続けつつ研究に収入をつぎ込んでしまう夫を支えました。壽衛子夫人は、子ども達に「我が家の貧乏は学問のための貧乏であるので、恥じることはない」と言い聞かせて育てたそうです。
夫人が54歳で亡くなった翌年、牧野博士は新発見の笹に妻の名を命名しました。
「家守りし妻の恵や我が学び 世の中のあらむかぎりやすゑ子笹」という牧野博士の妻への思いが石碑になって笹に寄り添っていました。
スエコ笹

世界的な業績を上げた牧野博士ですが、第1回目の文化功労者に選ばれたものの、文化勲章授与は、死後のことでした。たぶん、そんな栄誉よりも、ひとつでも多くの植物を見てすごしていれば幸福だったのででしょうけれど、小学校中退という学歴で独学を続け、世界的植物学者となった博士に、もっと報いる国であってほしかったです。
博士の書斎が、牧野記念庭園の中に残されています。2010年に庭園がリニューアルした際に、博士の生前からすでにぼろぼろであった書斎をできる限りそのままの形で残すために、書斎をそっくり覆うさや堂が建てられました。
さや堂の中に収まり、今は雨漏りの心配などはなくなったとはいっても、そのあまりに粗末な普請の書斎を見ていると、今更ながら博士の学問一筋の一生に頭が下がります。


特別展示 桜花図譜

牧野庭園での「桜図譜」などの見学を終えて、新築成った友の家を、訪問しました。
一人で決め一人で工務店とも大工さんとも折衝し、好みの家を建てた友のがんばりに、表敬訪問したいと思っていたのです。が、なかなか寒さの中では足が動かず、少し寒さがゆるんできたかなと思うには、3月も末になってしまいました。
友の家は、とても瀟洒で落ち着いた造りの家でした。両親を見送り、長年勤め上げた会社を定年退職してのち、両親とすごした家を片づけて自分がこれからの生涯を快適にすごすための家を新築しました。家の外観も玄関も、とてもすてきだし、内装はできるだけ自然な木材を使用し、家具はできるだけ置かないというシンプル室内。
2階で、ビールをいただきました。酒のつまみもあれこれと。おいしく飲みおいしく食べ、いっぱいおしゃべいをして、ゆったりとすごしました。
願わくは、これからもときどきは一人住まいに押しかけて、ビールタイムを過ごさせてもらえますように。
牧野庭園も四季おりおりに訪問したいと思っています。
<おわり
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2017十七音日記3月(10)新宅&古書斎
3月末に友人といっしょに牧野富太郎記念庭園へいってきました。
都内の庭園や公園、主なところへはほとんど訪れてきたのですが、牧野富太郎記念庭園に行ったことがいなかったので、案内してもらったのです。
牧野富太郎(1862-1956)と相沢忠洋(1926-1989)は、母の「アイドル」でした。尊敬してやまない二人の学者のことを、折にふれて私に語って聞かせました。学問にどれほど偉大な貢献をしたか。恵まれない環境の中で、こつこつと己の研究をまっとうする一生が、後世の人にとってどれほど価値があるか。
母にとって、「もっとも偉大な学者」と感じるのが、なぜこの二人だったか。二人とも学歴を持たない、独学の研究者だったからです。
「女に学問はいらない」という、当時としては農家の当主として当たり前の考え方をしていた父親のもとで、母は、どれほど勉強したくてもあきらめざるを得ませんでした。戦中戦後の時代、下の弟たちが旧制中学や新制大学に通う学費を稼いで父親を助けることが、青春のすべてだった母にとって、学歴がなくても大きな功績を残した植物分類学の牧野富太郎と考古学の相澤忠洋は、自分は果たせなかった学問への夢を切り開いて、広大な世界を夢見させてくれる存在だったのです。
そして母は私に「おまえが学問が好きなら、どこまでだって勉強を続けなさい」と言いきかせました。母が生きていたら、私も学問に精進して一生を学問に費やしただろうとおもいます。ですが、私が24歳のときに医者の誤診で母は55歳で死んでしまいました。私はずっと母と生きて行くつもりでしたから、落ち込むばかりで生きる気力をなくしてしまいました。
母が「娘がとったらうれしいなあ」と言っていた博士号を、私が取得したのは還暦すぎてから。博士号といっても業績とは言えないようなささやかなものですけれど、ま、形だけでも。
友人が前回牧野庭園に来園したのは、2010年にリニューアルされるずっと前。お母さんが入院先から戻って養生していたとき、少しも外へ出たがらない病後の母親を気遣って、「母を元気にさせるには、少しは外に連れ出さなければ」と思ったのだそうです。お母さんといっしょに散歩したのが、この牧野記念庭園だった、という話を聞きました。
リニューアル前は樹木もうっそうとしていて、草木は雑草園のようにぼうぼうと生えていたというお庭ですが、久しぶりに来てみたらだいぶようすが変わったと。
3月末、冷え込んだ日が続いたせいか、まだ花も少なくて、葉のない木立も庭の草もこざっぱりとしていました。
牧野記念庭園

牧野富太郎博士が94歳でなくなったあと、博士が植えた植物とともに、庭園と自宅が遺族から委託され、一般公開されるようになりました。
友が老母を支えてこの庭を歩くようすを思い浮かべました。私は母の老後を見ることができませんでした。友人がご母堂とともに植物園を散歩したことを聞かせもらい、私の分まで親孝行してもらったような気になりました。
牧野富太郎は、学歴がなかったために勤務していた東大でも冷遇されました。主任の教授と対立し、研究室を追い出されるような目に遭いながらもひたすら植物の収集分類につとめ、数々の新種を発見し発表しました。なかでも、入り口を入ってすぐのところに植えられているセンダイヤ桜とスエコザサは、庭園の目玉です。
センダイヤ桜は、日本に自生していた十種のサクラのうち、山桜の栽培種です。高知市の仙台屋という店の前に生えていた木を牧野博士が発見、命名したのです。幕末に開発された染井吉野が全国に広がったあと、仙台屋桜は少なくなっていき、貴重な桜となっています。今では牧野記念庭園の入り口にある仙台屋桜が、日本でもっとも大木なのだそうです。まだ満開にはなっていませんでしたが、染井吉野などよりは開花が早いようでした。
牧野庭園入り口に咲く仙台屋桜

スエコザサは、牧野博士が発見した新種のなかでも特別なもの。貧苦に耐えて夫の研究を支え続けた壽衛子夫人の名を残すために命名されました。
牧野富太郎は、1890年に11歳年下の小澤壽衛子(1873-1928)と結婚しました。以来、夫人は、大学で薄給の講師を続けつつ研究に収入をつぎ込んでしまう夫を支えました。壽衛子夫人は、子ども達に「我が家の貧乏は学問のための貧乏であるので、恥じることはない」と言い聞かせて育てたそうです。
夫人が54歳で亡くなった翌年、牧野博士は新発見の笹に妻の名を命名しました。
「家守りし妻の恵や我が学び 世の中のあらむかぎりやすゑ子笹」という牧野博士の妻への思いが石碑になって笹に寄り添っていました。
スエコ笹

世界的な業績を上げた牧野博士ですが、第1回目の文化功労者に選ばれたものの、文化勲章授与は、死後のことでした。たぶん、そんな栄誉よりも、ひとつでも多くの植物を見てすごしていれば幸福だったのででしょうけれど、小学校中退という学歴で独学を続け、世界的植物学者となった博士に、もっと報いる国であってほしかったです。
博士の書斎が、牧野記念庭園の中に残されています。2010年に庭園がリニューアルした際に、博士の生前からすでにぼろぼろであった書斎をできる限りそのままの形で残すために、書斎をそっくり覆うさや堂が建てられました。
さや堂の中に収まり、今は雨漏りの心配などはなくなったとはいっても、そのあまりに粗末な普請の書斎を見ていると、今更ながら博士の学問一筋の一生に頭が下がります。


特別展示 桜花図譜

牧野庭園での「桜図譜」などの見学を終えて、新築成った友の家を、訪問しました。
一人で決め一人で工務店とも大工さんとも折衝し、好みの家を建てた友のがんばりに、表敬訪問したいと思っていたのです。が、なかなか寒さの中では足が動かず、少し寒さがゆるんできたかなと思うには、3月も末になってしまいました。
友の家は、とても瀟洒で落ち着いた造りの家でした。両親を見送り、長年勤め上げた会社を定年退職してのち、両親とすごした家を片づけて自分がこれからの生涯を快適にすごすための家を新築しました。家の外観も玄関も、とてもすてきだし、内装はできるだけ自然な木材を使用し、家具はできるだけ置かないというシンプル室内。
2階で、ビールをいただきました。酒のつまみもあれこれと。おいしく飲みおいしく食べ、いっぱいおしゃべいをして、ゆったりとすごしました。
願わくは、これからもときどきは一人住まいに押しかけて、ビールタイムを過ごさせてもらえますように。
牧野庭園も四季おりおりに訪問したいと思っています。
<おわり