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ぽかぽか春庭「フルートときんつば」

2017-04-26 22:39:21 | エッセイ、コラム
20170427
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2017十七音日記4月尽(2)フルートときんつば

 まだ薔薇には早いのですが、無料の好きな私、無料コンサート開催に心ひかれて出かけました。
 旧古河庭園近くの滝野川会館の第4月曜コンサート。今回は原田詩子さんのフルート、浅賀優子さんピアノ伴奏。
 曲目はおなじみの曲が多かったですが、はじめてきく曲もありました。

・ポルディーニ 踊る人形
・バッハ ポロネーズとバディネリ
・ピアソラ タンゴの歴史から第2楽章カフェと第3楽章ナイトクラブ
・グルック 精霊の踊り
・シュテックメスト 歌の翼による幻想曲
・バッハ シチリアーノ
・フォーレ シシリエンヌ&ファンタジー

メンデルスゾーンの「歌の翼に」は自分でもよく歌っていた曲でしたが、シュテックメストという人も知らなかったし、「歌の翼による幻想曲」初めて聞きました。

 フルートの調べはとても美しく、心地よい時間が流れました。私の両脇、左の男性も右の女性も、最初から最後まで船を漕いでいました。音楽の空気の振動によって脳がアルファ化し、眠くなるのは脳のためによい振動を与えているのだ、と聞いたことがあります。
 私もオーケストラ演奏などで、曲目によっては眠いときもあるけれど、今回のフルートはひとつひとつの音が粒立っていて胸に響きました。

 「演奏中の撮影と録音は禁止」といういつものご注意がありましたが、演奏終了後、コンサート運営者と演奏者が記念撮影していたので、私もお願いして一枚とらせていただきました。若くはつらつとした演奏者ふたりです。

左がフルートの原田さん、右がピアノ浅賀さん。


 私はこれまで、第4月曜コンサートは区が運営していて、区の税金でまかなわれているのだと思っていました。コンサート終了後に司会をしていた男性に「主催者は区なのですか」と聞いてみました。答えは「いいえ、違います」

 コンサート運営者のお話「私どもは、区から会館の運営を委託されている団体です。運営の委託を受けるために、自主的な活動を区に申請しています。このような事業をするから委託してほしいと申し出るのです。その中に、コンサートを月に一回実施するという活動方針があります。区民に有益な活動をするから運営を任せて欲しい、と願いでるのです」「え、じゃ、演奏者への謝礼は、区ではなく運営団体がまかなっているのですか」「はい、基本的には、区内在住の若い音楽家に演奏の舞台を提供する、という形で、ボランティア出演をお願いしています」
 若い演奏者にとって、このような場も演奏実績となっていくのでしょうが、無料できかせていただき、ありがたいことです。

 旧古河庭園の薔薇は、やはりまだ早すぎでした。ゴールデンウィークに開花時期を合わせるための剪定中でした。ツツジも咲き始め。

つつじは咲き始め


 前回お花見に来たときは「本館見学料800円は高い」と、ミサイルママと言い合い、パスしたのですが、バラにもツツジにも早すぎの今は、本館見学もすいていて、当日申し込みもできたので、13時の回に参加しました。

玄関


 玄関脇の地下に嵌められた通風口。古河家の家紋を模様にしてある



 本館見学には何回か来ているので、説明に新しく聞いたことはありませんでしたが、久しぶりの本館内部見学なので、天井の漆喰鏝彫刻も、欄間の細工にも改めて目を見張りながら見学しました。

 部屋を広く見せるための鏡。鏡板は、一枚の木を彫り込んでバラなどを彫刻してある。


 旧古河邸は、大正6年の築造。コンドル最晩年の建築なので、日本文化の研究も深まり、和室もばら庭園も自分で設計した、との説明でした。旧古河庭園の庭のうち、回遊式の和庭園は七代目小川治兵衞の作庭なので、本館2階の和室も当時の大工棟梁が入っているのだろうと思っていました。和室もコンドル設計と、初めて知りました。新しい知識で800円のモト取った。

2階和室


 大正のはじめに、古河虎之助がコンドルに邸宅設計を依頼しました。依頼の経緯に関する記録は残されていませんが。
 コンドルの早い時期の仕事、旧岩崎邸などは、迎賓館としての洋館と生活の場としての和館がそれぞれ建てられていますが、古河邸は、1階が客用、2階が住まいになっていて、2階はホールと虎之助夫妻の寝室のほかは和室です。

現在はカフェとして利用されている大食堂と小食堂




階段


 洋間の壁紙などは荒れたままだったのを復元。照明器具は昔のままだそうです。


 旧古河邸の土地は、もとは明治の元勲陸奥宗光の所有でした。宗光の次男潤吉が古河財閥創業者古河市兵衛の養子となったので、屋敷は古河邸となりました。潤吉が36歳で病没した後、市兵衛が晩年に側室に産ませた虎之助が18歳でアメリカ留学から帰国して後を継ぎました、西郷隆盛の弟従道の娘不二子と結婚しましたが、不二子に子がなかったので、従道の次男従純を養子に迎えます。西郷従純の長男潤之助は久邇宮朝融王の五女典子女王と結婚。朝融王は昭和天皇の皇后良子の兄。
 古河市兵衛が貧家から身を起こした家は、六代目の母親は今上天皇のいとこというところまで箔をつけたのですが、敗戦後、館は進駐軍に接収され、返還後は引き取り手のないまま荒れ屋敷になりました。その後、東京都が庭園の管理者となり、邸宅は大谷美術館の管理となっています。

1階サンルームの床タイルとサンルーム内にしつらえた噴水


 今回は、花の時期ではなかったので、これまでじっくり見ることがなかった、邸内東側に移築されている旧書庫を眺めました。古河虎之助が西ヶ原の所有地に邸宅を構える前、築地に建てた洋館です。設計した葛西萬司は、盛岡市出身。ジョサイア・コンドルが教え子の辰野金吾に追われる形で東京大学造家学科(建築学科)を辞したあと、辰野金吾のもとで学び、岩手銀行赤レンガ館などを設計。辰野金吾と建築設計事務所を共同経営したこともあり、岩手銀行赤レンガ館も、辰野好みの意匠に思えます。
 しかし、旧古河邸書庫は、むしろコンドル風で本館とも通じ合う意匠。コンドルは東大の教授職を失ったあとも講師として学生を指導していたので、直接コンドルの指導を受けたこともあるのだろうと思います。

築地から西ヶ原へ移築された旧古河邸書庫


 古河財閥は、明治期には足尾銅山の鉱毒問題などを抱えており、1891(明治24)年田中正造による国会での発言で大きな政治問題となりました。1890年代より鉱毒予防工事や渡良瀬川の改修工事は行われたものの抜本的な解決より、銅の生産が優先されました。企業や国の繁栄のために、社会の犠牲となった人々は、いつの時代でも足蹴にされたまま。現代でも、2011年津波で被害を受けた人々について、現職復興大臣が「東北でよかった」と、ホンネをもらす始末。沖縄は「北からミサイル飛んでくるのだから、本土を守るためにがまんしろ」と言われてしまう。

お庭は新緑、青もみじ


 このお屋敷で優雅に暮らしていた人々に、足尾の人々の声はどのように伝わっていたのでしょうか。邸宅の主構造はレンガ。外壁は真鶴の新小松石(安山岩)の野面石積み。石の厚さに遮られて、足尾の人々の声など届かず、邸内では夜ごとに客を迎えて豪勢な食事が振る舞われていたのだろうなあと、800円の入場料を高いと感じる貧乏人は、ひがんだのであります。もう800円奮発すれば、旧大食堂と小食堂を使っているカフェでコーヒーを飲めるのですが、私は持参の水筒(息子のお下がり)につめてきたインスタントコーヒーを飲むことにしました。優雅なティータイムは似合いそうもないので。

 豪勢な食事会には及びも付かぬが、せめてお庭のベンチでおやつでも。「賞味期限直近につき、半額セール」のきんつばなどいただきました。

古河邸庭で自撮り


<つづく>
コメント (2)
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