20170527
ぽかぽか春庭アート散歩>調和と崇高(5)並河靖之七宝展展in庭園美術館
「明治時代の輸出用工芸品」に興味を持ったのは、それほど昔のことではありません。西欧受けするように華やかな装飾された陶器も金工も、あまり好みではなく、すっきりと飾りのない高麗白磁や青磁が好みでした。
最近、工芸技術の継承に目が向き、すでに明治の金工技術などは後継者がいなくなって、再現不可能な工芸品もでてきた、というようなニュースを耳にするようになって、ようやくこれらの工芸品を見て歩くようになりました。
明治期に輸出された陶芸品も七宝作品も、優美な品は国内にはほとんど残されていませんでした。外貨獲得の国策として、作るはしから輸出されていったからです。
外貨獲得目的の輸出品が鉄鋼などの重工業に変わると、明治初期から中期にかけて盛んに輸出された美術工芸品も、職人の不足などでふるわなくなっていきました。
いったん後継者が途絶えてしまうと、その制作過程は後世に伝わらなくなってしまう。私たちの心奪う曜変天目茶碗も、中国で日本で、数多くの陶工が再現を試みていますが、まだその製法は明らかになっていません。あの、怪しいばかりの輝き、再現されることを願っています。
日本の輸出工芸品のなかで、明治の七宝工芸は、かろうじてその技術の伝承は途絶えずにすみました。ただし、現代七宝工芸の最高レベルの作品は、庶民には手の届かない高価なものになっていて、ちっちゃな七宝のペンダントヘッドひとつでも、気に入った作品を買えるほどのお金持ちをうらやむばかり。
庭園美術館で開催された並河靖之七宝展。1月18日に観覧。
並河靖之(1845-1927)は有線七宝の名人として、明治工芸を牽引し、無線七宝を得意とするライバル濤川惣助と共に、二人のナミカワと評されました。濤川惣助の作品も、国内にはほとんど残されておらず、私は、赤坂の迎賓館で見ることができてよかったです。有線七宝の並河作品は、明治工芸の展示で見たことはありましたが、資料を含めて130点もの作品を一度に見るのは初めてのこと。
夜空の星や雨上がりの虹と同じように、美しいものをただ堪能し讃仰する、そんな存在として眺めました。
明治期に海外へ輸出された作品は、ただ「日本工芸品」として買われていったものも多く、作者不明のまま西欧の美術館などに展示されていました。
↓の一対の壺も、作者不明のまま泉涌寺所蔵となっていた作品です。資料として保存されていた並河の下図と、壺の絵柄が一致して、ようやく並河の作品であることが明らかにされたのだそうです。
菊紋付蝶松唐草模様花瓶 (明治中期)
上の花瓶の中央の蝶拡大図
桜蝶図平皿 (明治中期)と、別の桜蝶図の下図
藤草花文花瓶 並河靖之七宝記念館蔵
新館の映像ルームでは、七宝がどのような工芸であるのかがわかるように、現代七宝作家が作品を作る過程を動画で見せていました。ほんとうに細かい作業の続く、根気のいる仕事です。
金、銀、銅、青銅など素地の上に、細い銀線で輪郭線で模様を描きます。銀線と銀線の間に釉薬を流し込みます。釉薬は、ガラス質に顔料となる金属を加えてペースト状にしたもので、焼くと溶けた釉薬によってガラスのような質感が現れます。
並河作品の銀線の間隔は、0.5ミリ以下。超絶技巧です。
明治末から大正期に入ると、国は工業を重視するようになり、職人の確保もむずかしくなりました。職人の人件費の高騰や外国への輸出が激減するなど、七宝は衰退していきました。
並河は1923(大正12)年に工房を閉鎖し、4年後、83歳でなくなりました。
無線七宝の濤川惣助の作品が国内では迎賓館に残されただけであるのに比べると、並河靖之の作品は、清水三年坂美術館や、並河靖之記念館などで収集保存が行われているので、工芸作家としては、恵まれているのかも知れません。
高度な技術を駆使してすばらしい作品を作り、外貨獲得にも貢献した工芸家にして、報われることは少なかったかとも思いますが、こうして作品を見て、その美しさに感嘆する観客がいたことを、天から見ていて欲しいと思います。
<つづく>