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ぽかぽか春庭「花あかり命の花・笑う101歳×2 笹本恒子 むのたけじ」

2017-07-06 00:00:01 | エッセイ、コラム

映画『笑う101歳笹本恒子むのたけじ』より、2014年、最初で最後のツーショット

20170706
ぽかぽか春庭日常茶飯辞典>2017十七音日記梅雨的花束(4)花あかり命の花・笑う101歳×2 笹本恒子 むのたけじ

 6月の第3水曜日。毎月のお楽しみ、65歳以上東京都施設の無料日です。水曜日の授業を終えて、大急ぎでバスとJRを乗り継いで恵比寿へ。強風と強雨。恵比寿ガーデンプレイスでも傘がおちょこになった人、みかけました。

 今回は、国際報道写真展を見たくて、恵比寿の写真美術館にしたのです。報道写真展、今年もとても迫力のある写真が並んでいました。
 インドの女性写真家ダヤニータ・シンの作品展など、写真美術館の各階、見ごたえがありましたが、今回はさらさらっと会場一巡。

 前回写真美術館へ来たとき、 6 月に「笑う101歳×2笹本恒子むのたけじ」が1階ホールで上映されることはポスターを見て知っていましたが、水曜日は授業が終わってから写真美術館に駆けつけるので、報道写真展を見るだけで閉館時間になってしまうだろうと思っていました。しかし、映画は、閉館時間後も上映されていたのです。知らなかった。

 笹本恒子。1914年9月1日生まれ。今年の9月に103歳になります。日本初の女性報道写真家として知られています。
 むのたけじ。1915年1月2日ー2016年8月21日没。満101歳でした。101歳を超えてなお講演活動を行っていましたが、2016年5月の講演を終えると体調崩して入院し、いったんは退院したものの、8月になくなりました。

 同学年のふたりは、人生の中で、ただ一度、対談しています。  
 笹本恒子の「笹本恒子100歳展」が横浜の日本新聞博物館で2014年4月5日に始まり、同日、笹本恒子とむのたけじの「100歳対談」が行われました。

 対談の冒頭、笹本が赤い薔薇の花束をゲストのむのたけじに贈ると、むのは「命の花だね」と、喜んで受け取りました。
 この時の対談は、日経のサイトに一部が上・下に分けて掲載されていますが、新聞に載ったほか、別の成果も生みました。河邑厚徳はこの対談を撮影し、ふたりの百年を映画にまとめることを決意したのです。

写真美術館の1階ホールのポスター


 むのたけじは、敗戦の日、朝日新聞社を辞職しました。従軍記者として戦意高揚の記事を書いたジャーナリストとしての責任をとったのです。
 日本中、戦争中は戦争協力した人も、なかんずく戦争を命じた人も、責任をとろうとはしなかった、その中、高村光太郎は岩手花巻の山奥に引きこもって自省の後半生をおくり、むのたけじは故郷の秋田に引きこもり、ガリ版刷りの週刊新聞「たいまつ」を発行。78年の廃刊(最終号780号)まで、社会をふたたび戦争に巻き込まないように論陣を張りました。

 「たいまつ」廃刊後も、むのは単行本や講演活動によって平和な社会の実現のために活動しました。今、安保法案や共謀罪が国会で成立し、政府は「戦争ができる国」をめざしています。さまざまな不祥事によって政府の支持率が、下がってきました。(新聞社など調査機関によって支持率の調査は異なります。首相から「この新聞を熟読せよ」と誉められた御用新聞の調査では支持率依然として高いですし。はっきり書けば読売と産経です)

 むのがめざした「戦争をしない世」とはことなる社会となって、むのたけじが生きていたらさぞ無念であったろうと思います。
 森友がどうなろうと、加計がどうしようと、「こんな問題、国民はすぐに忘れる。わが政権は安泰」と、ふんぞり返っている「官邸のトップレベル」さん、いつか思い知るがいい。

 むのたけじは、夫のアイドル(偶像)でした。
 結婚して、夫の持ち物の中にむのたけじの本、『詞集 たいまつ・人間に関する断章604』やら『たいまつ十六年』やらがあるのを見て、むのたけじを読んでいるなら、ジャーナリストであろうとするにしても方向は間違っていないだろうと思ったのでした。

 夫は地方新聞社の記者をやめ、1979年にケニアに行きました。ナイロビ周辺で、現地で知り合った人々や旅先で出会った人などを撮影して、帰国後は雑誌に写真を載せたりし、フォトジャーナリストを目指すという初志に向かってはいたのです。が、できちゃった婚という計画になかった人生に突入し、フォトジャーナリストへの道は頓挫。
 結婚以来、旅行関連出版物下請け零細会社の自営を続けています。会社で出た利益はすべて会社の運転資金に費やされ、家計にまわすほどの余裕は出てこない会社でしたけれど

 笹本恒子について、私は何も知らなかったです。
 「女性報道写真家第一号」「日本最初の女性フォトジャーナリスト」という肩書き。
 1940(昭和15)年4月に、財団法人・写真協会に入ったとき「日本の女性報道写真家第一号になりませんか」と呼びかけられたのだ、と、笹本はあちこちのインタビューで語っています。
 
 当時の写真協会は、報道写真家の林謙一(1906-1980)を中心に設立された内閣情報部による国策機関。(ちなみに、林謙一の母は、朝ドラ『おはなはん』のモデル。おはなはんの息子謙一郎役は津川雅彦)。

 笹本は「写真週報」の編集などを手伝いつつ、報道写真撮影を行いました。
 笹本は、戦争中の「戦意高揚協力写真」の撮影を命じられたとき、「戦争はいやだったし、反対だったから、戦地などへ行くのは断り、軍事工場へ行って、働く女性を撮影した」と語っています。
 100歳を過ぎてから過去を振り返れば、「私は戦争反対だった」ということになるのでしょう。それは、戦争中は「聖戦勝利」「日本は神国」と、みなが信じていたのが敗戦となると、みなが「私は戦争はいやだった」になったのですから、当然、笹本の気持ちもそうだったと思います。

 大多数の日本人は、開戦時には万歳三唱し、戦争中は戦争に反対することはなかった。敗戦後は、みなが「私は戦争はいやだったが、反対はできなかった」と語っています。大多数の従軍記者達も、「戦意高揚の記事を書いた」ことで、職を辞する者はほとんどいませんでした。自らを律し、大新聞の記者を辞職したのはむのたけじくらい。

 戦争中に「反戦」を語れば、治安維持法によって特高につかまり、拷問を受けて死ぬことになりました。
 治安維持法。今では「テロ等準備罪処罰法案」と名前も変わり、「一般の人には影響しない」と、政府は説明しています。1925年に治安維持法が審議されたときも、同じ説明が国会でなされていましたけれど。(国会答弁の中身がそっくりそのまま1925年と同じなので、笑える)

 笹本恒子が「パラシュートを縫製している女性労働者を撮影した」と述べていることも、戦時中は、「聖戦と大東亜の勝利」を信じてパラシュート工場の写真を撮ったのだろうと推察します。写真が反戦的であったりしたら、撮影は許可されず、写真協会を首になっていたでしょうから。

 笹本の「女性報道写真家代1号」の仕事は、1年ほどで終わります。女性が働くことへの家族の反対を押し切るほどのことはせず、退職、結婚。
 敗戦後、離婚した笹本は、1946年に「婦人民主新聞」の嘱託カメラマン、1947年からはフリージャーナリストとして写真撮影の仕事を再開しました。三笠宮一家の写真撮影など、日本写真家協会の創立会員として写真雑誌などに掲載を続けました。

 しかし、1965~1985年には写真雑誌の廃刊などで仕事が途絶え、その間、フラワーアレンジメントなど、さまざまな活動に手を染めました。
 写真撮影の仕事を再開したのは、1985年、71歳のころ。

 以後、102歳まで、カメラウーマンとして活躍し、独り暮らしをつづけてきました。
 2015年に転倒骨折して以後は、施設に入っていますが、車いすで散歩し、散歩しながら、目にとまったものを撮影しています。

 笹本は、これまで共にすごした人々の思い出を書き記し、その本のタイトルとして、祖母の俳句のなかから「花あかり」というフレーズを選びました。

 映画『笑う101歳×2』には、早稲田大学ジャーナリズム専攻の学生に向かって、声高く戦争反対を論じるむのたけじと、車いすで近所の公園に出かけ、子供や花を撮影する笹本恒子を写していました。

 河邑厚徳は、入院して食事が十分にとれず、干からびたようになったむのの姿を映し出していました。101歳の人間が死のうとしている姿を、撮影する方も、撮影を許可した家族(むのたけじの次男、武野大策(1952生まれ?)もすごい。

 むのたけじは、ミイラのようになりながら、ふと目をあけたとき、世話をしている息子に語りかけました。「自分はこれまで命について書いたり話したりしていたが、自分がこのような状態になってまだまだ考えが足りないことに気づいた。命については改めて考えていきたい」あえぎ、あえぎ、そんなふうにむのはベッドで語り、またことんと目をつむりました。

 しかし、自宅に戻って1ヶ月後、むのは力尽きてなくなりました。
 命について改めて考えたこと、映画では明らかにはなっていませんでしたが、映画の冒頭、「2014年笹本との初対面の挨拶」で、薔薇の花を贈られ「命の花だ」と喜ぶ姿も、むのが考えていく「命」の答えのひとつだったのかも知れません。

 むのが残した「たいまつ」の炎を受け継いでいきたいし、むのが得た「命の花」についても、私たちは確かにこの手にバトンされたのだと感じます。

 むのたけじさん、命の花、受け継ぎたいです。
 笹本さん、103歳、104歳とご活躍ください。

<つづく>
コメント (2)
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