20170609
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2017十七音日記梅雨的花束(6)入江一子シルクロード記念館
1916年生まれの入江一子さんは,1969(昭和44)年、50歳を過ぎてからシルクロードへの旅をはじめ、中国から南欧まで、30カ国を訪れたそうです。
1992年には,中国の成都よりチベットに向かう四姑娘(シークーニヤン)山麓に出かけました。青いケシが咲く高原があることを知り,76歳の入江さんは,雨のため飛行機もバスも通らなくなってしまった山道を,耕運機で進み,耕運機が入れなくなった道は徒歩で4000m高原の山道を歩き続け,青いケシをスケッチしたのだそうです。
「入江一子シルクロード記念館」(杉並区阿佐谷北2-8-19)に行けば,常設の展示を見ることができるということなので,出かけることにしました。
7月2日,都議選に行ってから阿佐ヶ谷へ。
我が家恒例の「ピースの法則。選挙の日、うちじゃなぜか、投票行って 外食するんだ」は、いつものランチではなく、晩ご飯になりました。娘息子は,午後4時からさいたまスーパーアリーナでのJujuのコンサートに出かけるというので,別行動投票になったからです親子別々の投票ははじめてのこと。(夫は必ず期日前投票ですが)
阿佐ヶ谷駅北口から歩いて5,6分だというシルクロード記念館ですのに、うっかり物の私は、地下鉄の南阿佐ヶ谷に降りてしまい、だいぶ余計に歩くことになりました。でも、昔懐かしい散歩になりました。
今から45年も昔のこと。私は姉といっしょに阿佐ヶ谷のアパートで暮らしていたのです。
アパートから一番近い最寄駅が南阿佐ヶ谷駅でしたが、私は国鉄の阿佐ヶ谷駅で降りてパールセンターという商店街をとおって成田東のアパートまで歩いていました。そのパールセンターを通り、変わった店もあるし、変わらない店もあるなか、JR阿佐ヶ谷駅まで歩きました。JR阿佐ヶ谷の南口は、昔なじみの場所。
阿佐ヶ谷南口パールセンター入り口

阿佐ヶ谷駅北口には、初めて降り立ちました。住宅街を通り、入江一子シルクロード記念館まで5分ほど。
入江一子の住まいを改修し、記念館にしています。
入江一子シルクロード記念館

玄関には、絵葉書や図録を並べています。玄関から靴を脱いで入り、入館料500円を払います。受付などはないので、この人が係だろうと目星をつけてお金を渡しました。
客間、居間などに、入江一子の大作や小品がだだ~と展示されています。
居間の棚には、入江さんがスケッチ旅行で手に入れた人形や雑貨、楽器などがぎっしりと並べてあります。
記念館は、今でも入江さんの住まいでもあるので、入江さんは、玄関を入ったところの客間のベンチに座り、立てかけたキャンバスに向かって絵筆を走らせ、疲れたら横になって休む、という生活を続けている、という日曜美術館での紹介がありました。
シルクロード記念館のHPに「入江一子と会える」と書かれていたので、一回り、1階の絵を見てしまってからも、なんだかすぐに出るのは惜しいので、ビデオで流された「入江一子VS日野原重明対談」を見ていました。すると。
入江一子さんが客間に出ていらした。午後のお昼寝が終わったようです。
ファンにサインをして、ひとやすみの入江一子101歳

居間の展示物について、観覧のオバサマたちが質問します。
展示の鎧をさして「先生、入江家って武家だったのですね」
入江さん「そう、長州のね、家老だった」とおっしゃる。
百歳超えれば、何を言うのも自由だと思うけれど、長州毛利藩の歴史を知っていれば、入江家は、家老の家柄ではない。
長州藩の出身、家老から足軽まで、ほとんどの家名が記録に残っています。明治維新で活躍した人々の出身は、もっとも身分が上であった桂小五郎と高杉晋作も「大組」という中位の武家。山県有朋は、蔵本の中間(ちゅうげん=召使い)出身であり、福沢諭吉のように「身分制度は親の敵」というくらい、身分が低いほど活躍しました。
幕末の志士、禁門の変で久坂玄随とともに死んだ入江九一(「花燃ゆ」では要潤が演じた)とは別の家系みたいだけれど、入江九一は足軽身分。
一子さんが「入江家は家老」とおっしゃったこと、百歳すぎても、ちょっと「話を盛る」てのは、なんだかかわいらしいなあ、と感じました。
入江さんの父親は朝鮮半島へ渡り、大邱で貿易商として成功しました。一子は、小学校のころから画才を発揮し、女子美術学校へ進学。丸善の図案部などで働いたあと大邱に戻り、教師として働きました。敗戦後、日本に戻り、中学校美術教師をしながら林武に師事。
1957年、独立美術協会会員となって以後、旺盛に作品を制作し、1969年 中国新疆ウイグル自治区(シルクロード)に取材し、2000年にモンゴルを訪れるまで、アジア、北アフリカ、南欧など、30ヶ国を訪問。
1992年、中国四川省の四姑娘山に取材して「青いけし」を描きました。青いけしは、何度もモチーフとして描かれ、最新作は2016年に描き、2017年4月~5月の東京都美術館「第71回 女流画家協会展(2017年5月29日~6月4日)に展示された「青いケシ」
シルクロード記念館には「7月末より展示します」とお知らせが出ていました。もうちょっとあとに来たら見ることができたのですが、残念。その代わり「生入江一子」を拝めたので、こちらの寿命も伸びた気分。
サインをしてくださるというので、あわてて、玄関に置いてある図録を買いました。
サインをお願いすると、快く観覧者の求めに応じて、何人ものファンに「入江一子」とサインしてくれました。

室内でのファンの質問にも、にこにこと答えてくださる。
世界文化賞受賞のおり、同時受賞のソフィアローレンといっしょに写した写真には、いっしょにお孫さんが写っていました。イケメンのすてきなお孫さんです。オーストラリアシドニー在住で活躍されていらっしゃり、英語ペラペラだから、通訳をお願いしたのだ、と自慢していらした。
お孫さん、ソフィアローレンと

私が、棚の中のコレクションをさして「旅先で集めてこられた思い出の品がいっぱいですね」と声をかけると「いろいろ買いました。この楽器はね、買って買ってとむこうの人が言うから、買いました」などと、思い出話も。
室内、入江一子の雑貨コレクション

ほんとうに耳も良く聞こえていらっしゃり、お元気そうでした。
制作中の200号キャンバスに描きかけの絵は花の絵。
室内には、これまでの作品が並んでいました。



百寿記念自選集の図録

図録から「緑陰・雲南少数民族」

「緑陰」の前でファンと交流する

玄関入って一番手前に置かれている「ジーエルフナー広場(マラケシュ1978)」

「薔薇とルーマニア人形」

100歳を過ぎたら、もう生き仏様と拝みたくなる。
入江一子が、現役の画家として、毎日絵筆を握っている姿、すばらしいです。生きる力をいっぱい分けてもらいました。
<つづく>
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2017十七音日記梅雨的花束(6)入江一子シルクロード記念館
1916年生まれの入江一子さんは,1969(昭和44)年、50歳を過ぎてからシルクロードへの旅をはじめ、中国から南欧まで、30カ国を訪れたそうです。
1992年には,中国の成都よりチベットに向かう四姑娘(シークーニヤン)山麓に出かけました。青いケシが咲く高原があることを知り,76歳の入江さんは,雨のため飛行機もバスも通らなくなってしまった山道を,耕運機で進み,耕運機が入れなくなった道は徒歩で4000m高原の山道を歩き続け,青いケシをスケッチしたのだそうです。
「入江一子シルクロード記念館」(杉並区阿佐谷北2-8-19)に行けば,常設の展示を見ることができるということなので,出かけることにしました。
7月2日,都議選に行ってから阿佐ヶ谷へ。
我が家恒例の「ピースの法則。選挙の日、うちじゃなぜか、投票行って 外食するんだ」は、いつものランチではなく、晩ご飯になりました。娘息子は,午後4時からさいたまスーパーアリーナでのJujuのコンサートに出かけるというので,別行動投票になったからです親子別々の投票ははじめてのこと。(夫は必ず期日前投票ですが)
阿佐ヶ谷駅北口から歩いて5,6分だというシルクロード記念館ですのに、うっかり物の私は、地下鉄の南阿佐ヶ谷に降りてしまい、だいぶ余計に歩くことになりました。でも、昔懐かしい散歩になりました。
今から45年も昔のこと。私は姉といっしょに阿佐ヶ谷のアパートで暮らしていたのです。
アパートから一番近い最寄駅が南阿佐ヶ谷駅でしたが、私は国鉄の阿佐ヶ谷駅で降りてパールセンターという商店街をとおって成田東のアパートまで歩いていました。そのパールセンターを通り、変わった店もあるし、変わらない店もあるなか、JR阿佐ヶ谷駅まで歩きました。JR阿佐ヶ谷の南口は、昔なじみの場所。
阿佐ヶ谷南口パールセンター入り口

阿佐ヶ谷駅北口には、初めて降り立ちました。住宅街を通り、入江一子シルクロード記念館まで5分ほど。
入江一子の住まいを改修し、記念館にしています。
入江一子シルクロード記念館

玄関には、絵葉書や図録を並べています。玄関から靴を脱いで入り、入館料500円を払います。受付などはないので、この人が係だろうと目星をつけてお金を渡しました。
客間、居間などに、入江一子の大作や小品がだだ~と展示されています。
居間の棚には、入江さんがスケッチ旅行で手に入れた人形や雑貨、楽器などがぎっしりと並べてあります。
記念館は、今でも入江さんの住まいでもあるので、入江さんは、玄関を入ったところの客間のベンチに座り、立てかけたキャンバスに向かって絵筆を走らせ、疲れたら横になって休む、という生活を続けている、という日曜美術館での紹介がありました。
シルクロード記念館のHPに「入江一子と会える」と書かれていたので、一回り、1階の絵を見てしまってからも、なんだかすぐに出るのは惜しいので、ビデオで流された「入江一子VS日野原重明対談」を見ていました。すると。
入江一子さんが客間に出ていらした。午後のお昼寝が終わったようです。
ファンにサインをして、ひとやすみの入江一子101歳

居間の展示物について、観覧のオバサマたちが質問します。
展示の鎧をさして「先生、入江家って武家だったのですね」
入江さん「そう、長州のね、家老だった」とおっしゃる。
百歳超えれば、何を言うのも自由だと思うけれど、長州毛利藩の歴史を知っていれば、入江家は、家老の家柄ではない。
長州藩の出身、家老から足軽まで、ほとんどの家名が記録に残っています。明治維新で活躍した人々の出身は、もっとも身分が上であった桂小五郎と高杉晋作も「大組」という中位の武家。山県有朋は、蔵本の中間(ちゅうげん=召使い)出身であり、福沢諭吉のように「身分制度は親の敵」というくらい、身分が低いほど活躍しました。
幕末の志士、禁門の変で久坂玄随とともに死んだ入江九一(「花燃ゆ」では要潤が演じた)とは別の家系みたいだけれど、入江九一は足軽身分。
一子さんが「入江家は家老」とおっしゃったこと、百歳すぎても、ちょっと「話を盛る」てのは、なんだかかわいらしいなあ、と感じました。
入江さんの父親は朝鮮半島へ渡り、大邱で貿易商として成功しました。一子は、小学校のころから画才を発揮し、女子美術学校へ進学。丸善の図案部などで働いたあと大邱に戻り、教師として働きました。敗戦後、日本に戻り、中学校美術教師をしながら林武に師事。
1957年、独立美術協会会員となって以後、旺盛に作品を制作し、1969年 中国新疆ウイグル自治区(シルクロード)に取材し、2000年にモンゴルを訪れるまで、アジア、北アフリカ、南欧など、30ヶ国を訪問。
1992年、中国四川省の四姑娘山に取材して「青いけし」を描きました。青いけしは、何度もモチーフとして描かれ、最新作は2016年に描き、2017年4月~5月の東京都美術館「第71回 女流画家協会展(2017年5月29日~6月4日)に展示された「青いケシ」
シルクロード記念館には「7月末より展示します」とお知らせが出ていました。もうちょっとあとに来たら見ることができたのですが、残念。その代わり「生入江一子」を拝めたので、こちらの寿命も伸びた気分。
サインをしてくださるというので、あわてて、玄関に置いてある図録を買いました。
サインをお願いすると、快く観覧者の求めに応じて、何人ものファンに「入江一子」とサインしてくれました。

室内でのファンの質問にも、にこにこと答えてくださる。
世界文化賞受賞のおり、同時受賞のソフィアローレンといっしょに写した写真には、いっしょにお孫さんが写っていました。イケメンのすてきなお孫さんです。オーストラリアシドニー在住で活躍されていらっしゃり、英語ペラペラだから、通訳をお願いしたのだ、と自慢していらした。
お孫さん、ソフィアローレンと

私が、棚の中のコレクションをさして「旅先で集めてこられた思い出の品がいっぱいですね」と声をかけると「いろいろ買いました。この楽器はね、買って買ってとむこうの人が言うから、買いました」などと、思い出話も。
室内、入江一子の雑貨コレクション

ほんとうに耳も良く聞こえていらっしゃり、お元気そうでした。
制作中の200号キャンバスに描きかけの絵は花の絵。
室内には、これまでの作品が並んでいました。



百寿記念自選集の図録

図録から「緑陰・雲南少数民族」

「緑陰」の前でファンと交流する

玄関入って一番手前に置かれている「ジーエルフナー広場(マラケシュ1978)」

「薔薇とルーマニア人形」

100歳を過ぎたら、もう生き仏様と拝みたくなる。
入江一子が、現役の画家として、毎日絵筆を握っている姿、すばらしいです。生きる力をいっぱい分けてもらいました。
<つづく>