発掘された日本列島2017 水中遺跡のようす
20170725
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2017十七音日記7月朝日のようにさわやかに(4)発掘された日本列島2017
7月19日水曜日。江戸東京博物館「直虎から直政へ」展を見た後、ほんとうは、こちらが本命の「発掘された日本列島2017」展へ。
毎年日本全国の考古学発掘成果を展示しているのですが、ちょうど見る機会があった年もあるし、見逃すことも多いです。前回見たのは、2014年8月、息子と一緒に見ました。
今回は、ひとりです。ひとりだけれど、母といっしょに見る気分。
生きていれば今年百歳になるのだけれど、54歳で早々と世を去った母。考古学の素人ファンでした。新聞に新しい発掘のニュースが出ると大喜びで、「ほら、こういうのが出土したんだって。すごいねぇ」と、何がすごいのかよくわからないままの子供たちに「土の中から昔々の人々の暮らしのようす」が現れることの興奮を語るのでした。
群馬県は、岩宿遺跡から旧石器が発見されたことから、いわば県民こぞって考古学ファンとなっていました。最初は考古学界から「学歴のない素人」として、旧石器発見の功績が認められていなかった相沢忠洋さんの業績が広く知られるようになると、不遇にもめげずに発掘に情熱を燃やした相沢さんファンは、ますます考古学に興味をふかめました。実際、群馬県には古墳も多く、さまざまな遺跡遺物の発見のたびに、小学校中学校の先生方も得意そうに「昔の日本」についてうんちくを傾け、子供たちにも考古学の楽しさは伝わりました。
父の妹、「ハツ叔母」も、子育てが一段落すると地元の発掘現場で遺跡堀りのパートをはじめて、20年くらい掘り続けていました。20年も土を掘り続けていれば、パートのオバはんとはいえ、少しずつは知識も深まってくるようで、法事の折に顔を見ると、私が発掘に興味を持っていることを知っているので、「こんなん、でました」と、得意になって教えてくれました。
1年掘り続けても、出てくる多くは土器の破片ばかりなのだそうですが、なかには、復元してみると立派なツボになった、なんていうのもあって、郷土の博物館などに展示されている壺を見て、「裏側の底の近くのあれが自分が掘り出したかけら」と、誇らしい気持ちになるのだとか。その叔母もとうになくなりましたけれど。
今回展示の目玉は「海中遺跡」についてです。
日本は世界の中でも考古学の発掘が盛んな国ですが、水中の遺跡については、これまであまり発掘が進んでいませんでした。ようやく近年、発掘の成果がまとまって、「発掘された日本2017」展では、元寇来襲時に、台風のために沈没した元の軍船の発掘成果が展示されていました。
元の最新の武器、「てつはう(鉄砲)」がどのようなものであったのか、実物を見ることができました。歴史書などの記載では、火縄銃と「てつはう」の違いがいまひとつわからなかったのですが、水中から出土した「てつはう」は、直径15cmくらいの鉄の玉で、中に火薬が詰めてある、手りゅう弾のような武器でした。火器を知らなかった鎌倉武士たち、こんなのを投げられたら、びっくり仰天であったろうと思います。
中国語では「震天雷」なので、鎌倉武士もさぞや天から雷が落ちてきたように感じたのではないかと、さび付いてはいるものの、往時の威力やさぞかしと思う「てつはう」を眺めました。
海からの発掘品「鉄砲」
もうひとつ、今回の「復興のための文化力–東日本大震災の復興と埋蔵文化財の保護」という特集。解説員の方が力説していました。安倍内閣が行ってきた政策、どれもろくなことはなかったけれど、考古学をやっているものにとっては、たったひとつ「安倍内閣がよいことをした」と言えることがある。それは、宮城県栗原市の「入ノ沢遺跡」を国指定の史跡として認定してくれたことなのだそうです。
入ノ沢遺跡は2014年の調査で、古墳時代前期では国内最北の集落で、ヤマト政権がこの時代に東北地方まで勢力を広げていたことを知るための貴重な遺跡であることがわかりました。
入ノ沢遺跡は4世紀ころの集落で、ヤマト政権が権威の象徴とした銅鏡などが集落跡から出土しています。集落は周囲380mにわたって、深い溝が掘られ、外敵への守りを固めています。集落から、当時としては貴重品の鉄製品も出土しています。
入ノ沢遺跡出土の鉄製品。ヤマト政権範囲の北限集落の証拠
貴重な「ヤマト政権最北端集落」の遺跡はバイパス道路になる予定でしたが、国の史跡となったので、これからも発掘を続けることができるようになりました。
東北一帯に縄文文化は広がっていました。栃や栗、アワなどの雑穀の栽培によって高度な文明を築いていた縄文文化の集落。すでに4世紀には、ヤマト政権の勢力が東北地方まで伸びていて、鉄製品を持ち、堀を深くし、戦闘も辞さない構えの入ノ沢集落。
周囲の縄文集落とは、どのように共存していたのか、あるいはどのようにいがみ合ったのか。入ノ沢集落の住居のうちに、焼けた家が内部の家財そのままに残されているものもあったそうです。(竪穴住居は、草ぶき屋根の上に土をかぶせることも多く、火事の場合、上の土がそのまま覆いとなって、内部の道具類などが残される)
中国の史書に5世紀の日本を支配したと記された倭の五王の時代。そこからさらにさかのぼった4世紀。古事記の神話によれば、神功皇后や応神天皇の時代に当たります。
3世紀239年に魏へ親書を送った卑弥呼の邪馬台国がどこであったかの論争はまだ決着がついていませんが、4世紀の入ノ沢集落がヤマト政権支配下であったことが出土品から確認できるとすると、3世紀には東北を支配権におこうとする政権ができていた、ということ。
歴史研究、考古学発掘がこの先も研究成果をあげて、古代の姿が鮮明になってきたら、古代史に関してわけのわからぬ「日本は神の国」なんて発言をする人もいなくなると思うのですが。
「発掘された日本2017」展、閉館5時半まで駆け足でしたけれど、見ることができてよかったです。
<つづく>