20170827
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>家族映画、愛という名の(4)エリザのために・たかが世界の終わり
ギンレイホールで8月に見た映画。「エリザのために」「たかが世界の終わり」も、家族を描いていました。以下、ネタバレを含む映画の感想です。
「エリザのために」ルーマニア語タイトルBacalaureat 脚本監督:クリスティアン・ムンジウ 出演:アドリアン・ティティエニ
ルーマニア語の映画、見たことなかったなあと思って見ました。
チャウシェスク後のルーマニアはどうなっているのか、ニュースやドキュメンタリーでもあまり見ることがないので。
映画がすべてを映しだしているわけではないですが、ルーマニアも、なかなかつらい現実であることがよくわかりました。
原題のルーマニア語Bacalaureatは、フランス語で言うバカロレア(高校卒業試験、大学入学資格試験)のことだろうと思います。バカロレアを受ける娘エリザのために、父親ロメオが陥った「ルーマニア社会」の落とし穴。
89年のチャウシェスク失脚後、亡命していた医師のロメオは、妻と共に希望を持って1991年に帰国しました。医師資格のあるロメオは、小さな病院でかろうじて医者の仕事が続けられましたが、妻はその能力を生かす仕事が見つからず、ボロボロの本を並べるしかない図書館で司書をしています。妻は疲弊し、ロメオは冷え切った妻との仲を修復しようともせず、学校教師のシングルマザーと不倫。
ロメオの希望はただひとつ。成績のよい娘エリザ(マリア=ヴィクトリア・ドラグシ)が、バカロレアで期待通りの高得点を得てイギリス留学を果たすこと。
しかし、エリザを学校へ送っていくとき、ロメオは不倫相手の家へ急ぐ気持ちから、校門の手前でエリザを下ろしてしまいます。一家の歯車が狂い出します。
人々の暮らしを支える産業もなく、荒廃した町並。真っ昼間だというのに、通り魔が出て、エリザは襲われます。身を守ろうとして手に怪我を負ってしまいますが、それ以上の被害には遭わずにすみました。結局犯人は捕まりません。小さな怪我の通り魔事件よりも、大事件犯人を追って行う山狩りのほうが、警察の点数になるからです。
エリザは動揺し、国語(ルーマニア語)の試験に失敗。予想の得点は得られませんでした。エリザは得意の数学で点数を稼ぐつもりですが、ロメオの心配はつのります。「もし、数学でも失敗してしまったら、、、、」
ロメオはエリザの点数を確実にするために、ルーマニア社会に蔓延る「コネ利用」に手を染めます。議員にコネをつけ、「点数を割り増ししてもらうために、試験用紙につけるマーク」を書き込むよう、エリザに教えます。
しかし、コネの元締め議員が汚職で逮捕され、ロメオはこんどは、不正を隠さなければならない立場に。
しかし、幸いなことに、エリザは、父の命令に背いて、試験用紙にマークを残していませんでした。実力で数学試験に臨んだエリザ。果たしてイギリス留学が可能になる点数だったかどうか、映画は描いていませんが、実力を出し切って卒業式を迎えたエリザの顔は晴れやかです。
ルーマニアは、もともと親族や知り合い同士が助け合う文化。コネが横行するのも、その「助け合い」の延長なのだそうです。チャウシェスク一族による一方的なコネ社会が崩壊しても、その先には別のコネ社会が広がる。
ロメオの不倫相手だったシングルマザーも、ロメオに依存することから抜け出そうとし、エリザが父親の支配から自立しようとし始めたこと、これがルーマニアの将来にとってよい方向へ向くのだと、私には思えましたが、現実のルーマニアはどうなっているのでしょう。ともあれ、ルーマニア社会のひとつの姿を描いた映画、私には貴重でした。
「たかが世界の終わり」原作:ジャン=リュック・ラガルス 脚本監督:グザヴィエ・ドラン 出演:、ギャスパー・ウリエルほか。第69回カンヌ国際映画祭グランプリ(パルムドール賞に継ぐ第2席)とエキュメニカル審査員賞を受賞。
ルイは、12年前に家を出て以来、劇作家として成功しても、帰郷したことがありませんでした。ふいに実家に帰ることを田舎の家族に伝えると、母親も幼い頃に別れたきりだった妹もおおわらわでルイを迎える準備をします。初めてルイに合う兄嫁(マリオン・コティヤール)も、不機嫌な夫アントワーヌをよそに姑とともに、ルイのために料理を作ります。
ルイが帰郷することにしたのは、自分の余命がいくばくもないことを家族に知らせようとしたからでした。しかし、兄のアントワーヌは、ルイの成功を快く思わず、家長としての重荷をひとりで背負わされて田舎に閉じ込められたと思い、ルイにつらく当たります。
ルイは、幼なじみで初恋の相手だった少年が、すでに亡くなっていたことも知り、家族になかなか自分のことを言い出せません。
元は戯曲なので、丁々発止の激しいセリフの応酬がありますが、アントワーヌがどうしてそこまでルイを拒否するのか、私にはわからないまま、終わりました。ルイは結局家族に自分のことを打ち明けることなく、二度と戻らぬであろう実家を出て行きます。家から出たがっている妹に「いつでも兄の家に来ていいよ」と、伝えて。
フランスの田舎の景色もいいし、ルイは美しい顔だし、それだけでも楽しめたけれど、「家族の肖像」としては、今ひとつ食い足りない思いがしました。
たぶん、母親も兄嫁も兄も、ルイが来る前と去っていた後、何も変わっていないからだろうと思います。妹が「閉塞から解き放たれる契機を得たのだ」という顔をして、もうちょっと晴やかな変化として見えたら、もうちょい点数高くなったかも。妹が家を出ていくことところまで描いていたらよかった。
「赤毛のアン」の幼いアンとダイアナが、「私は変化やまない人生がいい」「私はおだやかで変わらない日常の人生がいい」と、将来の希望を語り合うシーンがあります。私は「変化やまない人生」を望みもしないのにおくってきてしまいました。
明日の変化もわからぬ人生をおくりつつ、平穏おだやかな人生の人をうらやんでしる。それなのに、若い人には「今から平穏な変わらぬ人生を送らなくても、家を出るくらいやりなさいよ」と、思ってしまう。矛盾。
矛盾もまた人生。矛盾が家族。
<つづく>
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>家族映画、愛という名の(4)エリザのために・たかが世界の終わり
ギンレイホールで8月に見た映画。「エリザのために」「たかが世界の終わり」も、家族を描いていました。以下、ネタバレを含む映画の感想です。
「エリザのために」ルーマニア語タイトルBacalaureat 脚本監督:クリスティアン・ムンジウ 出演:アドリアン・ティティエニ
ルーマニア語の映画、見たことなかったなあと思って見ました。
チャウシェスク後のルーマニアはどうなっているのか、ニュースやドキュメンタリーでもあまり見ることがないので。
映画がすべてを映しだしているわけではないですが、ルーマニアも、なかなかつらい現実であることがよくわかりました。
原題のルーマニア語Bacalaureatは、フランス語で言うバカロレア(高校卒業試験、大学入学資格試験)のことだろうと思います。バカロレアを受ける娘エリザのために、父親ロメオが陥った「ルーマニア社会」の落とし穴。
89年のチャウシェスク失脚後、亡命していた医師のロメオは、妻と共に希望を持って1991年に帰国しました。医師資格のあるロメオは、小さな病院でかろうじて医者の仕事が続けられましたが、妻はその能力を生かす仕事が見つからず、ボロボロの本を並べるしかない図書館で司書をしています。妻は疲弊し、ロメオは冷え切った妻との仲を修復しようともせず、学校教師のシングルマザーと不倫。
ロメオの希望はただひとつ。成績のよい娘エリザ(マリア=ヴィクトリア・ドラグシ)が、バカロレアで期待通りの高得点を得てイギリス留学を果たすこと。
しかし、エリザを学校へ送っていくとき、ロメオは不倫相手の家へ急ぐ気持ちから、校門の手前でエリザを下ろしてしまいます。一家の歯車が狂い出します。
人々の暮らしを支える産業もなく、荒廃した町並。真っ昼間だというのに、通り魔が出て、エリザは襲われます。身を守ろうとして手に怪我を負ってしまいますが、それ以上の被害には遭わずにすみました。結局犯人は捕まりません。小さな怪我の通り魔事件よりも、大事件犯人を追って行う山狩りのほうが、警察の点数になるからです。
エリザは動揺し、国語(ルーマニア語)の試験に失敗。予想の得点は得られませんでした。エリザは得意の数学で点数を稼ぐつもりですが、ロメオの心配はつのります。「もし、数学でも失敗してしまったら、、、、」
ロメオはエリザの点数を確実にするために、ルーマニア社会に蔓延る「コネ利用」に手を染めます。議員にコネをつけ、「点数を割り増ししてもらうために、試験用紙につけるマーク」を書き込むよう、エリザに教えます。
しかし、コネの元締め議員が汚職で逮捕され、ロメオはこんどは、不正を隠さなければならない立場に。
しかし、幸いなことに、エリザは、父の命令に背いて、試験用紙にマークを残していませんでした。実力で数学試験に臨んだエリザ。果たしてイギリス留学が可能になる点数だったかどうか、映画は描いていませんが、実力を出し切って卒業式を迎えたエリザの顔は晴れやかです。
ルーマニアは、もともと親族や知り合い同士が助け合う文化。コネが横行するのも、その「助け合い」の延長なのだそうです。チャウシェスク一族による一方的なコネ社会が崩壊しても、その先には別のコネ社会が広がる。
ロメオの不倫相手だったシングルマザーも、ロメオに依存することから抜け出そうとし、エリザが父親の支配から自立しようとし始めたこと、これがルーマニアの将来にとってよい方向へ向くのだと、私には思えましたが、現実のルーマニアはどうなっているのでしょう。ともあれ、ルーマニア社会のひとつの姿を描いた映画、私には貴重でした。
「たかが世界の終わり」原作:ジャン=リュック・ラガルス 脚本監督:グザヴィエ・ドラン 出演:、ギャスパー・ウリエルほか。第69回カンヌ国際映画祭グランプリ(パルムドール賞に継ぐ第2席)とエキュメニカル審査員賞を受賞。
ルイは、12年前に家を出て以来、劇作家として成功しても、帰郷したことがありませんでした。ふいに実家に帰ることを田舎の家族に伝えると、母親も幼い頃に別れたきりだった妹もおおわらわでルイを迎える準備をします。初めてルイに合う兄嫁(マリオン・コティヤール)も、不機嫌な夫アントワーヌをよそに姑とともに、ルイのために料理を作ります。
ルイが帰郷することにしたのは、自分の余命がいくばくもないことを家族に知らせようとしたからでした。しかし、兄のアントワーヌは、ルイの成功を快く思わず、家長としての重荷をひとりで背負わされて田舎に閉じ込められたと思い、ルイにつらく当たります。
ルイは、幼なじみで初恋の相手だった少年が、すでに亡くなっていたことも知り、家族になかなか自分のことを言い出せません。
元は戯曲なので、丁々発止の激しいセリフの応酬がありますが、アントワーヌがどうしてそこまでルイを拒否するのか、私にはわからないまま、終わりました。ルイは結局家族に自分のことを打ち明けることなく、二度と戻らぬであろう実家を出て行きます。家から出たがっている妹に「いつでも兄の家に来ていいよ」と、伝えて。
フランスの田舎の景色もいいし、ルイは美しい顔だし、それだけでも楽しめたけれど、「家族の肖像」としては、今ひとつ食い足りない思いがしました。
たぶん、母親も兄嫁も兄も、ルイが来る前と去っていた後、何も変わっていないからだろうと思います。妹が「閉塞から解き放たれる契機を得たのだ」という顔をして、もうちょっと晴やかな変化として見えたら、もうちょい点数高くなったかも。妹が家を出ていくことところまで描いていたらよかった。
「赤毛のアン」の幼いアンとダイアナが、「私は変化やまない人生がいい」「私はおだやかで変わらない日常の人生がいい」と、将来の希望を語り合うシーンがあります。私は「変化やまない人生」を望みもしないのにおくってきてしまいました。
明日の変化もわからぬ人生をおくりつつ、平穏おだやかな人生の人をうらやんでしる。それなのに、若い人には「今から平穏な変わらぬ人生を送らなくても、家を出るくらいやりなさいよ」と、思ってしまう。矛盾。
矛盾もまた人生。矛盾が家族。
<つづく>