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ぽかぽか春庭「ツツジと一万円」

2019-05-02 00:00:01 | エッセイ、コラム

 即位の日の若葉が日に輝く

20190502
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2019十九文屋日記新緑令和(1)ツツジと一万円

 若い人たちは一晩中大騒ぎのカウントダウンで盛り上がっていたし、夜空に花火は上がるし、華やかな「お代がわり」の一日でした。

 私は、30日に退位の儀式のおことばもテレビ中継で聞いたし、1日は新天皇の前に剣と勾玉が侍従らによってうやうやしく運ばれてすぐに持って帰る、剣璽等承継の儀というのも見ました。新時代気分になれたかというと、、、、ぅ~ん、古希直前老体には旧も新もあまり変わらない気がします。

 思えば平成になったときも、私は退院してきた赤ん坊にかかりきりで新も旧もありませんでした。赤ん坊は、1ヶ月間入れられていた保育器から出てきたばかり。このまま生きていけるのかどうかも定かでなく、必死でした。30年ずう~っと必死。
 令和も同じような状況。娘と息子の体調に一喜一憂です。

 世間では、新時代気分横溢ですね。5年後から使われるという新札の肖像画発表のタイミングも、あたらし気分を盛り上げるのに一役買いました。 

 新しいお札の肖像が決まったというので、さっそく検索キーワード急上昇ワードに渋沢栄一と津田梅子、北里柴三郎があがっていました。
 樋口一葉とさよならするのは寂しいけれど、「5千円札は女性」が既定路線になったのかも。

 どん底貧乏の中で借金ばかりが増えていく家計を支えた一葉に対して、梅子は女子留学生第1号の栄誉を担い、鹿鳴館の花、女子学習院教師、津田英語塾開学、という輝かしい教育者の道を歩いた人です。むろん、学校を維持するには並々ならぬ苦労があったとは思いますが、学歴がないために女学校教師にもさせてもらえなかった一葉に比べれば、アメリカの女子大学を卒業した梅子、着々と自分の道を切り開いていき、女性がひとりで生きていく道を切り開きました。

 日本女子大学の創立に貢献した広岡あさ(朝ドラ「あさがきた」のモデル)と渋沢栄一には銀行経営や女子大学設立にあたって交流があったことが知られています。津田梅子と渋沢栄一はどうだったのでしょうか。
 渋沢栄一は、「不平等条約の改正のためには、欧米と対等に社交を行う必要がある」と考え、鹿鳴館の隣に帝国ホテルを設立しました。
 鹿鳴館にも顔を出したかもしれませんが、アメリカ仕込みのダンスを教えていた津田梅子にダンスをならって踊っている姿、想像できません。

 一万円の渋沢栄一(1840-1931)は、飛鳥山公園に「渋沢史料館」があるので、ときどき訪問して栄一や孫の渋沢敬三の事績に親しんできました。
 敬三は民俗学民族学の学者になりたかった人ですが、父が病気を理由として廃嫡されたために栄一のあとを継いで経済人となりました。(放蕩という病気!)
 敬三は、自分がしたかった学問を、宮本常一らに託し、研究費用を出しました。

 渋沢史料館の晩香廬と咲き始めたつつじ


 栄一のことは、その91年の生涯について、さまざまな紹介がありますから、どれを参照してもいいですが、かいつまんで紹介すると。

 今から約180年前の1840年、渋沢栄一は埼玉県(現在の深谷市)で、豪農の子として生まれました。学問(主に儒学)に励みつつ家業の藍や繭の商売に携わった経験は、のちに『論語と算盤』という著作の基礎となりました。

 1887年、翌年は明治維新となる激動の時代、渋沢栄一はその才気を認められて、一橋家徳川慶喜の家臣となります。慶喜が15代将軍になると幕臣に取り立てられ、フランスで開催される「万国博覧会」の視察を命じられました。将軍徳川慶喜の弟昭武の随身として「御勘定格陸軍附調役(会計係兼書記)」という役職を得たのです。徳川昭武の警護役として選ばれた7名の武士のなか、随行武士まとめ役兼お金の管理ができる才を持つものとしての抜擢でした。

  晩香廬の脇に立つ渋沢翁


 渋沢は、もとは「尊王攘夷」思想の持ち主でしたが、パリ万博視察を経て、近代国家に必要な財政、産業振興、株式会社や銀行の組織などを学んで帰国しました。欧州視察の成果を『航西日記』に残しています。
 渋沢史料館に行くと、栄一の生涯が詳しくわかりますし、青淵文庫、晩香廬など、大正期の2棟の建築を見学できます。(内部公開日は不定期)

 晩香廬は、渋沢喜寿の祝いとして1917(大正6)年に建てられた洋風茶室です。
 晩香廬室内(内部での写真撮影は不可だけど、外から撮るのはok。外部だけの見学は入館券なくてもいいので、今回は外回りだけ)
 

 青淵文庫は、1925(大正14)年の竣工の書庫。渋沢翁傘寿の祝いのたてもの。 


 春庭の渋沢史料館訪問記は↓に。
 2012年
https://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/e/6b0c3aa3eef5e031fc9ee2c1580f141c
 2013年
https://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/e/842ea61b89735c27d0e34a32d1d24c08

 私が渋沢を高く評価する点は、財産を一族で固めてしまおうとしなかったこと。三井・岩崎・安田・住友・古河・大倉・浅野などといった他の明治の財閥創始者は、財産を形成したのち、財閥によって一族による財産の保持をはかりました。

 しかし、渋沢栄一は、「得たお金は社会に還元」という信念を貫き「渋沢財閥」を作りませんでした。
 「公益財団法人渋沢栄一記念財団」は、渋沢栄一が主張し実践していた「道徳経済合一主義」に基づき、経済道徳を高揚することを目的とする財団なんだそうです。
 経済上の功績で受爵した岩崎家古河家などは男爵のみですが、ただ一人経済人で子爵を受けたのは、経済上の功績に加えて、社会貢献が認められたから。

 三井、三菱などの財閥系企業は、今も日本の経済界に大きな力をもち残されていますが、渋沢が作り上げた会社も学校も、一族の手を離れて運営されています。

 150cmという私と同じ背丈の栄一さん、小さな体に大きな志を抱いた一生、お札の顔になって、日本の経済を活気づけること、喜んでいると思います。
 なろうことなら、我が家にいっぱい来てほしいですが、、、、。たぶん、聖徳太子や諭吉さんと同じく、我が家には縁薄いかも。

 来てね。


 青淵文庫入り口前で渋沢翁の我が家来訪を願う。(入り口で「入場券お持ちですか」と聞かれて、いいえ!と答える。入館料300円けちった人のところには来てくれない気がする)


 退位のおことばにあったように、新しい時代が平和を希求し続ける年月になりますように。

<つづく>
コメント (2)
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