
2019モロー展サロメと運命の女たちポスター
201905月25
ぽかぽか春庭アート散歩>薫風アート(1)ギュスターブ・モロー展 in パナソニック汐留美術館
私がはじめて見た「画集や絵葉書の絵ではない本物の洋画」は、中学3年生のとき西洋美術館で見た「ギュスターブ・モロー展」でした。
なぜ、この絵を見たいと思ったのか、まったく覚えていません。西洋美術史を教えてくれた中学校の美術教師松岡先生が教室で授業中に勧めたのかもしれません。
前橋の叔父の家までなら、子どもたちだけバスに乗ってで出かけることを許してくれていた母も、私が上野に行って絵を見てきたいといったとき、すぐには承知しませんでした。しかし、高校生2年生の姉といっしょなら、まあ大丈夫だろうと許してくれたので、絵にはさほど興味のない姉といっしょに上野へ行きました。
西洋美術館の記録では、このときの「ギュスターヴ・モロー展」の会期は、1964(昭和39)年11月26日-1965(昭和40)年1月31日。
私と姉はたぶん、冬休み中に行ったのだろうと思います。
1965年モロー展図録

1985年に神奈川近代美術館などで巡回したモロー展は、見ていません。娘が2歳。私は2度目の大学に入った年ですから、展覧会に行く余裕はなかった。
次にモローを見たのは、1995年だったと思います。同じく西洋美術館。1995(平成7)年3月21日- 1995(平成7)年5月14日。
1995年の4月から国立大学に出講し始めたので、3月の春休み中に行ったのだと思います。
1995年モロー展図録

2005年のBunnkamuraの美術館のモロー展、図録古書の絵のいくつかを見ると、見た覚えがあるのですが、本当に見たのかどうか、記憶があいまい。
2005年モロー展図録

というモロー遍歴を経て、2019年パナソニック美術館の「ギュスターヴ・モロー展 サロメと宿命の女たち」展は、14年ぶりの日本開催モロー展。
前回2005年は、パリのモロー美術館改修中の貸し出しだったということです。今回のパナソニック美術館への海外貸し出しが行われたのは、モローの弟子のひとりがルオーであり、パナソニックはルオー収集を中心にしていて、常設展示のルオー室がある美術館だからです。
2013年にパリのギュスターヴ・モロー美術館協力のもと、同館で「モローとルオー -聖なるものの継承と変容-」展を開催した経緯から、モロー美術館とのかかわりができ、今回モローだけの展覧会が実現したのだそうです。(担当学芸員:萩原敦子)
ともかく、大好きなモローを見ることができて、よかったよかた。
招待券で入ったときは音声ガイド借りたり図録を買ったりしていいけど、チケット自腹のときは我慢する、という自分ルールも破って絵葉書とともに図録も購入。
2019モロー展図録2400円

(以下の画像は、図録を写真にとったものなので、画面にゆがみがあります)
次が14年後なら、私は84歳になっている。次に見ることができるかどうかも先のことはわからないのだから、図録買っておきました。
今回はパナソニック美術館受付で「シルバー券900円」を買うまで10分間、じっとチケット購入列に並んで待ちました。入場制限しているだけあって、中はそれほど混みあってはおらず、一列目で見ることができます。私が見終わって外に出てきたときは、待ち時間は40分になっていました。
招待券が手に入らないとき、いつもぐずぐずためらっていて会期最後のほうになって見に行くのに、5月3日に見たのは、5月5日にNHKの日曜美術館で「モロー展」が特集されることがわかったから。どの展覧会も、日美で放映があると、どどっと観客が押し寄せる。こりゃ5月5日の前にいかなきゃ、と思いました。5月1日2日は仕事をして、4日はみどりの自転車散歩があるので、3日に。
15歳のころから55年間ファンであり続けた画家、ギュスターブ・モロー(1826-1898)。4月18日が没後121年目の命日。
(日本画家だと、5歳から65年間ファンであり続けた堀文子、今年2月に100歳でなくなりました。残念。去年白寿展を見ておいてよかった
https://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/e/f0a72e245eade765d77f237171390875)
モローは、ギリシャ神話や聖書の一場面を描くことが多い画家でしたが、単に物語の絵解きとしての画面構成ではなく、精神的な世界、人の情念・理念を描き出そうとしました。
「象徴主義」の画家と呼ばれ、20世紀絵画の礎となる表現を生み出した画家のひとりです。また、マティスやルオーなど、教え子たちに多大な影響を与えた美術教師でもありました。
モロー24歳の自画像

今回パリのモロー美術館からやってきたのは、モローの作品の中でも「女性」にテーマとした作品。
運命の女ファムファタルと呼ばれる、人の運命を左右する美を持った女性たちを描くことは、洋画の一大テーマでもあります。
第1章「モローが愛した女たち」
モロー最愛の人は、母のポーリーヌ。モローは母が亡くなるまでに何点ものポーリーヌ肖像を描きました。(素描だけでも40点以上)
モデル代がかからないから、と言えばそうなのですが、息子ギュスターブの母への愛は、「生涯、結婚しなかった」というのもわかる気がするほど。はっきり言えばマザコンです。ギュスターブは、母に対して恋文かと思うような手紙を何通も出しています。
1859年、デッサンを教えることからつきあい始めた、恋人アレクサンドリーヌ・デュルーとは、30年近く身近な人として親しんだのに、ついに結婚しなかったのも、アレクサンドリーヌが「修道女のような人だった」という評などを読むと、ギュスターブにとって、恋人というより、母や13歳で亡くなった妹カミーユと同じように、精神的な結びつきによって絆を結んでいたと思います。
30年間恋人であったアレクサンドリーヌ

ギュスターブ58歳のとき、最愛の母ポーリーヌが82歳で死去。
母は、晩年耳が聞こえなくなっていたために、ギュスターブは文字による筆談でコミュケーションをとるようになりました。そのため、新作の自作絵画について、ことこまかに説明の手紙を書いています。
はからずも、自作解題が大量に残されました。その手紙も展示されていました。
母の死に大打撃を受けたギュスターブがかろうじて立ちなおれたのは、アレクサンドドリーヌのおかげですが、母の死から6年後には、アレクサンドリーヌも死去。
私の勝手な感想。今回、母ポーリーヌと恋人アレクサンドリーヌの肖像画を何枚も見たことで、これまでとは異なるギュスターブ像を感じました。
ギュスターブにとって、母ポーリーヌも30年ともにすごした恋人アレクサンドリーヌも、「信仰の対象ともいうべき聖なる者」だったのではないか、ということ。人が人を愛するパターンはさまざまにあっていい。
ギュスターブの愛は、人が聖母を愛するように、女性を讃仰してやまぬものであったろう。人が聖母に祈りをささげることで母の愛に包まれるように、ギュスターブもポーリーヌやアレクサンドリーヌの愛に包まれて過ごしたのだろう、と思うのです。ギュスターブは自身の遺言として「(神に召されるときは)アレクサンドリーヌに手を握っていてほしい」と書いたのですが、10歳若い恋人にも先立たれることになりました。
アレクサンドリーヌの死の年1890年にギュスターブが描いたのは、「パルクと死の天使」。
馬に乗り、人を死の世界に導く死の天使と、人の運命を司るパルク。馬のたずなをとりうなだれた姿で描かれたのは、人の運命の糸を断ち切る役目のアポロトス。

パルク~は、これまで何度か見たことがありましたが、母ポーリーヌの肖像写真やあり句サンドリーヌの素描などは、はじめて見ました。
母も恋人も失った孤独な老画家は、国立美術学校の教師となり弟子の育成に力を注ぐようになりました。アンリ・マティス、ジョルジュ・ルオーほか、20世紀を代表する画家を育てたほか、自宅を美術館に改修し、母やアレクサンドリーヌの遺品や自分の作品を飾りました。
アレクサンドリーヌの墓はギュスターブが建てました。両親の墓をデザインしたように、自身でデザインして、AとGを組み合わせたイニシャルを刻み、遺産の一部はこの墓の維持費にあてられています。しかし、アレクサンドリーヌとの間の書簡は、ギュスターブの手によって焼却されてしまいました。
<つづく>