20190514
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2019十九文屋日記新緑令和(7)母業卒業と留年
保育園の待機児童問題とか、まだまだ働く母親にとって、とりわけシングルマザーにとっては、厳しい環境の日本であることは変わってはいません。「保育園落ちた、日本死ね」の現実は続いています。
しかし、50年前30年前の厳しい状態を思い出せば、まだしも今のお母さんたちのほうが、少しは良くなった部分もあるとは思います。
それにしても、子育て、たいへんです。難しい問題はいろいろある中、母子で孤立し、悩みを話し合う相手もいないまま一室に閉じこもってしまう例も少なくないとか。
私の同級生は、すでに「孫の子守」からも卒業しています。
子を持つのが遅かった私も、この30年間、シングルマザー準シングルマザーとして、ともに子育ての悩みを語り合ってきた友人たちがいてくれたおかげで、なんとかやってこられました。
偉大なマザーたち、このところ、母業卒業祝いが続いています。
ジャズダンス仲間のミサイルママ。「もう、子どもからは手をひき、これからは自分の幸せを優先します」と宣言して、息子ふたりと元旦那にも話して、再婚しました。
2019年1月1日に入籍、3月に同居開始。今年中に新居へ引っ越し、というスケジュールで、4月に私からミサイルママにおくったメールの返信には「今がいちばん幸せかもしれない」という返信がきました。新婚生活真っ盛りです。
ジャズダンス仲間としてミサイルママに出会ったころ、ふたりの息子さんを連れて離婚したばかりのころでした。近所のスーパーで働き始めて、大手スーパーに移ってパートのレジ係。インテリア会社の正社員。がむしゃらに働き、息子の成長を見守ってきました。
長男さんは演劇に打ち込み、今もフリーの役者。これまで息子の演劇活動に、ずいぶんとミサイルママも貢献してきたのだけれど「もういっさい、息子にまかせる」と決め、自分の老後を優先することにしました。
次男さんは学生時代から堅実派で、バイトをしていた店でコーヒーについて勉強し、在学中に「バリスタ」の資格をとり、大学卒業時には教員資格も獲得しました。さまざまなレストランやカフェでバリスタとして働くほか、教員資格を生かして、専門学校でバリスタ養成講師をしています。
次男さんが一人暮らしを始めたころは、心配して部屋のお掃除などに出かけていたミサイルママでしたが、今はもう息子の自立を見守っているだけ。
再婚は、完全に「母業卒業式」です。
もうひとり、ブログ友だちからはじまって、だいたい年に1度は子育て報告やら愚痴やらを吐き出し合ってきたA子さん。私の2度目の大学の同窓です。
A子さんの息子さんが小学生のころに出会い、15年間、互いの足場を支え合ってきました。今読んでいる本の紹介、関わっている活動などを知らせ合うことで、「毅然として意思を曲げない生き方」を感じ合ってきました。友達少ない私の友人の中でも、数少ないフェミニスト仲間です。石牟礼道子、市川房江、松井やよりなど、尊敬する女性について注釈なしに語りあえる人。
この3月、息子さんは大学の理工学部を卒業し、4月からは企業で働き始めました。
息子さんは新任研修に出る中、学生時代とは異なる「働くことの厳しさ」を感じたようで、学生時代はあまり話をしなくなっていたのに、改めて「お母さんへの感謝」を伝えたのだそうです。ずっとひとりで自分を育ててきたお母さんを尊敬していると。
いいなあ、「お母さんを尊敬している」なんて言ってくれる息子。
初任給のうちは、まだ一人暮らしは無理でしょうけれど、「来年ボーナスが出たあたりで、一人暮らしをさせてみたほうがいいよ」と、私からの母業卒業のはなむけのことばを贈りました。
ミサイルママもA子さんも、立派に子育てを仕上げて、母業卒業式!です。拍手拍手!
さて春庭は、単位が足りずに今年も留年です。
娘からの辛辣な批評もありました。「こういう変てこりん母に育てられて、子どもはたいへんだった」と。
聴覚障害や視覚障害の親を持った健常児のこどもは、世間から親のヘルパーさんのように扱われ、親を助けるよい子として自分を圧して生きてきてしまい、ストレスが大きい、という記事を読んで、私も思い当たることがありました。
それで娘に「うちは準母子家庭だったから、いつもおねえちゃんに負担をかけちゃったね。おねえちゃんは、ずっとよい子にしていなければならなかったから、たいへんだったよね」と、娘に言いました。
幼いころの娘は、帰りが遅い母にかわって、弟の保育園の送り迎えをすることからはじまり、大人になってからはおばあちゃんの介護もやり、ずっと「家族を支える役割」を果たしてきました。小学校のころ、友達の家に遊びにいくときも、かならず弟を連れていきました。
私のことばに娘が反論しました。「準母子家庭ってなにさ。それは母が、我が家の欠陥の責任を、全部父に責任転嫁しているってことだよね。父がいない家庭は世間にないわけじゃない。それが欠陥にならないほうが多いの。うちは、母がフツーじゃないから、子どもが苦労したんだよ。母が自分自身が発達障害の部分を持っていることに気づいたのは最近でしょう。普通の母親だったら、母子家庭でも貧乏でも、私が負ってきたようなストレスはなかった。私も子供だったから、自分の母親がほかのお母さんとは変わっていると思っていただけで、そのせいで私がたいへんな思いをしてきたのだとはわかっていなかった」と言うのです。たしかに。
今なら、障害のある母を持ち、ヘルパーさんのように家族を支えなければななかった子どもと、規定できるのかもしれません。」
春庭は、人付き合いができなかったので、娘息子が小さい時、娘息子の同級生の親たちとママ友になれませんでした。子供の保育園や学校でのママ友ネットワークに入れなかったので、子ども同士のつきあいに影響していることはわかっていました。夏休みに子供を預け合うとか、合同でいっしょにお出かけをするとかが、まったくできなかった。でも、それ以外に子供に犠牲を強いているとは感じないまま、とにかく食費生活費を稼ぐことでせいいっぱいでした。ずっと生きづらさを抱えているけれど、性格だから仕方がないと思っていました。
息子が小学校高学年になるころまで、息子の世話は、5歳違いの娘がしていたようなものでした。絵本を読んでやったり、おやつを食べさせたり。
娘にとっては、子どもらしいわがままなど言っていられない「小さいお母さん」をやり遂げなければならない月日だったのです。
息子は「ぼうっと生きてんじゃねーよ」のほうですから、母親が変?と感じたのは娘よりは薄かったようです。
息子が覚えているのは、登校しようと団地の出口から出たら、母が9階のベランダから「お~い、体操着忘れていったよー」と叫んだこと。普通の母親ならエレべーターで1階に降り、体操着袋を渡すところですが、「母は、9階のベランダから下に向けて体操着袋を投げ落としたよね、だれもいなかったから人の頭にぶっつくこともなかったし、僕は落ちてきた袋を拾って学校へ行ったけど、フツーそういうことする?」と息子が言う。
言われてはじめて、フツーはしないのかなあ、と思いました。エレベーターで下に降りて渡すより、投げ落としたほうが早いと思ってやっただけだった、と思うのですが、20年たっても息子が覚えているということは、フツーの母なら「ありえない」ことだったのかもしれません。
生きづらい、人付き合いが苦手、というのはそっくり息子に遺伝していますが、その息子にとっても、私は変な母親だったらしい。
気を許せた少数の人としか会話ができない(一般的な世間話というのができない)、よくモノを落としたりなくしたりする、整理整頓片付けが極端にできない。というのはずっと自分の性格だと思っていましたが、発達障害が世間に認知されたころ出てきた診断基準をみると、全部私に当てはまっていました。
1ケアレスミスが多い
2気が散りやすくて、一般的なことがらや物事に集中することが苦手。
3やりたいことや好きなことに対して積極的に取り組めるが、集中しすぎてしまう。
4物をどこかに置き忘れたり、物をなくしたりすることが頻繁にある。
5片付けや整理整頓が苦手。
6約束や時間を守れない。
7物事の優先順位が分からない。
8落ち着いてじっと座っていることが苦手。
9衝動的に不適切な発言や行動をする。
10忘れ物や物をなくすことが多く、じっとしていられず落ち着きがない。
11ルールを守ることが苦手で順番を守らない、大声を出すなど衝動的に行動をすることがある。
というPDD(広汎性発達障害)の症状うち、8番は当てはまりませんが、あとの10個は全部子供のころからの症状。でも、子どものころは、成績はいつもトップであったので、「問題児」の中にいれられることがなかった。昔は、成績さえよければ、少々変でもなんとかなった時代でしたから。
変わり者だとはいわれてきたけれど、これらの症状が障害のひとつだと気づくのが遅れました。
大人になって13回も転職し続けたのも、「自分探し」ということもできますが、上の症状のどれかが引っかかって、「パワハラを受けがち」という状態だったから。
上司は、愛想がなく、空気読めない私に、がまんならなかったのでしょう。私、パッと気をきかして空気を読み、上司の意を汲むことができなかった。
中学校国語教師は3年で退職になったのに、日本語教師は30年以上続けられたのは、留学生の教室では「日本的気配り」が求められる割合が少なかったからかもしれません。
むろん最初につとめたいくつかの日本語学校の教員室では「いじめ」にあいました。職場は何度も変わりましたが、子どもの生活費稼ぎをしなければならなかったから、仕事は続けることができました。日本語学校は4校、大学は7校に出講しました。大学の講師室では、非常勤講師は「請負ひとり親方」の働き方ですから、授業さえ問題なくこなしていればよかった。いくつかの大学を掛け持ちで回り、毎日同じ職場じゃなかったことも幸いしたのでしょう。週5日の間に90分授業を12コマ受け持ち、大学5校回って仕事をしましたから。
ブログ書きは、3の「やりたいことや好きなことに対して積極的に取り組めるが、集中しすぎてしまう」にあてはまり、8時間以上続けて書いていても平気です。変なのかなあ。
ダメ母には卒業式がこない。単位不足で今年も留年。
めでたく母業卒業式を迎えたミサイルママやA子さんには、心からお祝いを言いたいです。
「よくがんばりました。えらい!」
卒業できない私を見捨てないで、これからもおつきあいお願いします。
<つづく>
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2019十九文屋日記新緑令和(7)母業卒業と留年
保育園の待機児童問題とか、まだまだ働く母親にとって、とりわけシングルマザーにとっては、厳しい環境の日本であることは変わってはいません。「保育園落ちた、日本死ね」の現実は続いています。
しかし、50年前30年前の厳しい状態を思い出せば、まだしも今のお母さんたちのほうが、少しは良くなった部分もあるとは思います。
それにしても、子育て、たいへんです。難しい問題はいろいろある中、母子で孤立し、悩みを話し合う相手もいないまま一室に閉じこもってしまう例も少なくないとか。
私の同級生は、すでに「孫の子守」からも卒業しています。
子を持つのが遅かった私も、この30年間、シングルマザー準シングルマザーとして、ともに子育ての悩みを語り合ってきた友人たちがいてくれたおかげで、なんとかやってこられました。
偉大なマザーたち、このところ、母業卒業祝いが続いています。
ジャズダンス仲間のミサイルママ。「もう、子どもからは手をひき、これからは自分の幸せを優先します」と宣言して、息子ふたりと元旦那にも話して、再婚しました。
2019年1月1日に入籍、3月に同居開始。今年中に新居へ引っ越し、というスケジュールで、4月に私からミサイルママにおくったメールの返信には「今がいちばん幸せかもしれない」という返信がきました。新婚生活真っ盛りです。
ジャズダンス仲間としてミサイルママに出会ったころ、ふたりの息子さんを連れて離婚したばかりのころでした。近所のスーパーで働き始めて、大手スーパーに移ってパートのレジ係。インテリア会社の正社員。がむしゃらに働き、息子の成長を見守ってきました。
長男さんは演劇に打ち込み、今もフリーの役者。これまで息子の演劇活動に、ずいぶんとミサイルママも貢献してきたのだけれど「もういっさい、息子にまかせる」と決め、自分の老後を優先することにしました。
次男さんは学生時代から堅実派で、バイトをしていた店でコーヒーについて勉強し、在学中に「バリスタ」の資格をとり、大学卒業時には教員資格も獲得しました。さまざまなレストランやカフェでバリスタとして働くほか、教員資格を生かして、専門学校でバリスタ養成講師をしています。
次男さんが一人暮らしを始めたころは、心配して部屋のお掃除などに出かけていたミサイルママでしたが、今はもう息子の自立を見守っているだけ。
再婚は、完全に「母業卒業式」です。
もうひとり、ブログ友だちからはじまって、だいたい年に1度は子育て報告やら愚痴やらを吐き出し合ってきたA子さん。私の2度目の大学の同窓です。
A子さんの息子さんが小学生のころに出会い、15年間、互いの足場を支え合ってきました。今読んでいる本の紹介、関わっている活動などを知らせ合うことで、「毅然として意思を曲げない生き方」を感じ合ってきました。友達少ない私の友人の中でも、数少ないフェミニスト仲間です。石牟礼道子、市川房江、松井やよりなど、尊敬する女性について注釈なしに語りあえる人。
この3月、息子さんは大学の理工学部を卒業し、4月からは企業で働き始めました。
息子さんは新任研修に出る中、学生時代とは異なる「働くことの厳しさ」を感じたようで、学生時代はあまり話をしなくなっていたのに、改めて「お母さんへの感謝」を伝えたのだそうです。ずっとひとりで自分を育ててきたお母さんを尊敬していると。
いいなあ、「お母さんを尊敬している」なんて言ってくれる息子。
初任給のうちは、まだ一人暮らしは無理でしょうけれど、「来年ボーナスが出たあたりで、一人暮らしをさせてみたほうがいいよ」と、私からの母業卒業のはなむけのことばを贈りました。
ミサイルママもA子さんも、立派に子育てを仕上げて、母業卒業式!です。拍手拍手!
さて春庭は、単位が足りずに今年も留年です。
娘からの辛辣な批評もありました。「こういう変てこりん母に育てられて、子どもはたいへんだった」と。
聴覚障害や視覚障害の親を持った健常児のこどもは、世間から親のヘルパーさんのように扱われ、親を助けるよい子として自分を圧して生きてきてしまい、ストレスが大きい、という記事を読んで、私も思い当たることがありました。
それで娘に「うちは準母子家庭だったから、いつもおねえちゃんに負担をかけちゃったね。おねえちゃんは、ずっとよい子にしていなければならなかったから、たいへんだったよね」と、娘に言いました。
幼いころの娘は、帰りが遅い母にかわって、弟の保育園の送り迎えをすることからはじまり、大人になってからはおばあちゃんの介護もやり、ずっと「家族を支える役割」を果たしてきました。小学校のころ、友達の家に遊びにいくときも、かならず弟を連れていきました。
私のことばに娘が反論しました。「準母子家庭ってなにさ。それは母が、我が家の欠陥の責任を、全部父に責任転嫁しているってことだよね。父がいない家庭は世間にないわけじゃない。それが欠陥にならないほうが多いの。うちは、母がフツーじゃないから、子どもが苦労したんだよ。母が自分自身が発達障害の部分を持っていることに気づいたのは最近でしょう。普通の母親だったら、母子家庭でも貧乏でも、私が負ってきたようなストレスはなかった。私も子供だったから、自分の母親がほかのお母さんとは変わっていると思っていただけで、そのせいで私がたいへんな思いをしてきたのだとはわかっていなかった」と言うのです。たしかに。
今なら、障害のある母を持ち、ヘルパーさんのように家族を支えなければななかった子どもと、規定できるのかもしれません。」
春庭は、人付き合いができなかったので、娘息子が小さい時、娘息子の同級生の親たちとママ友になれませんでした。子供の保育園や学校でのママ友ネットワークに入れなかったので、子ども同士のつきあいに影響していることはわかっていました。夏休みに子供を預け合うとか、合同でいっしょにお出かけをするとかが、まったくできなかった。でも、それ以外に子供に犠牲を強いているとは感じないまま、とにかく食費生活費を稼ぐことでせいいっぱいでした。ずっと生きづらさを抱えているけれど、性格だから仕方がないと思っていました。
息子が小学校高学年になるころまで、息子の世話は、5歳違いの娘がしていたようなものでした。絵本を読んでやったり、おやつを食べさせたり。
娘にとっては、子どもらしいわがままなど言っていられない「小さいお母さん」をやり遂げなければならない月日だったのです。
息子は「ぼうっと生きてんじゃねーよ」のほうですから、母親が変?と感じたのは娘よりは薄かったようです。
息子が覚えているのは、登校しようと団地の出口から出たら、母が9階のベランダから「お~い、体操着忘れていったよー」と叫んだこと。普通の母親ならエレべーターで1階に降り、体操着袋を渡すところですが、「母は、9階のベランダから下に向けて体操着袋を投げ落としたよね、だれもいなかったから人の頭にぶっつくこともなかったし、僕は落ちてきた袋を拾って学校へ行ったけど、フツーそういうことする?」と息子が言う。
言われてはじめて、フツーはしないのかなあ、と思いました。エレベーターで下に降りて渡すより、投げ落としたほうが早いと思ってやっただけだった、と思うのですが、20年たっても息子が覚えているということは、フツーの母なら「ありえない」ことだったのかもしれません。
生きづらい、人付き合いが苦手、というのはそっくり息子に遺伝していますが、その息子にとっても、私は変な母親だったらしい。
気を許せた少数の人としか会話ができない(一般的な世間話というのができない)、よくモノを落としたりなくしたりする、整理整頓片付けが極端にできない。というのはずっと自分の性格だと思っていましたが、発達障害が世間に認知されたころ出てきた診断基準をみると、全部私に当てはまっていました。
1ケアレスミスが多い
2気が散りやすくて、一般的なことがらや物事に集中することが苦手。
3やりたいことや好きなことに対して積極的に取り組めるが、集中しすぎてしまう。
4物をどこかに置き忘れたり、物をなくしたりすることが頻繁にある。
5片付けや整理整頓が苦手。
6約束や時間を守れない。
7物事の優先順位が分からない。
8落ち着いてじっと座っていることが苦手。
9衝動的に不適切な発言や行動をする。
10忘れ物や物をなくすことが多く、じっとしていられず落ち着きがない。
11ルールを守ることが苦手で順番を守らない、大声を出すなど衝動的に行動をすることがある。
というPDD(広汎性発達障害)の症状うち、8番は当てはまりませんが、あとの10個は全部子供のころからの症状。でも、子どものころは、成績はいつもトップであったので、「問題児」の中にいれられることがなかった。昔は、成績さえよければ、少々変でもなんとかなった時代でしたから。
変わり者だとはいわれてきたけれど、これらの症状が障害のひとつだと気づくのが遅れました。
大人になって13回も転職し続けたのも、「自分探し」ということもできますが、上の症状のどれかが引っかかって、「パワハラを受けがち」という状態だったから。
上司は、愛想がなく、空気読めない私に、がまんならなかったのでしょう。私、パッと気をきかして空気を読み、上司の意を汲むことができなかった。
中学校国語教師は3年で退職になったのに、日本語教師は30年以上続けられたのは、留学生の教室では「日本的気配り」が求められる割合が少なかったからかもしれません。
むろん最初につとめたいくつかの日本語学校の教員室では「いじめ」にあいました。職場は何度も変わりましたが、子どもの生活費稼ぎをしなければならなかったから、仕事は続けることができました。日本語学校は4校、大学は7校に出講しました。大学の講師室では、非常勤講師は「請負ひとり親方」の働き方ですから、授業さえ問題なくこなしていればよかった。いくつかの大学を掛け持ちで回り、毎日同じ職場じゃなかったことも幸いしたのでしょう。週5日の間に90分授業を12コマ受け持ち、大学5校回って仕事をしましたから。
ブログ書きは、3の「やりたいことや好きなことに対して積極的に取り組めるが、集中しすぎてしまう」にあてはまり、8時間以上続けて書いていても平気です。変なのかなあ。
ダメ母には卒業式がこない。単位不足で今年も留年。
めでたく母業卒業式を迎えたミサイルママやA子さんには、心からお祝いを言いたいです。
「よくがんばりました。えらい!」
卒業できない私を見捨てないで、これからもおつきあいお願いします。
<つづく>