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ぽかぽか春庭「日々是好日」

2019-05-21 00:00:01 | エッセイ、コラム
20190521
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>樹木希林映画(4)日々是好日

 若いころ、職場に茶道サークルがあり、お試しでお茶の稽古に出たことがあります。当時の職場の花たちは、よりよい嫁ぎ先を求めて、お茶お花料理といった「花嫁修業」にいそしんだものでしたから、女性の多い職場には、茶道サークル華道サークルなどがありました。

 英文タイピストという仕事を半年だけやっていたころのこと。専門職ですから、独身で仕事を続ける人もいました。タイプ室室長さん副室長さんは50代の独身女性。(定年は55歳の時代でしたけれど、20代の私の眼にはものすごく年取った人に思えていました)
 多くは「3年ほど勤めたら結婚退職する」というライフスタイルに、微塵の疑いもない花たちでした。

 お試しのお稽古、袱紗さばきを教わりましたが、一日でリタイアしました。第一、正座、私には無理。
 棗、きれいになっているのに、袱紗でわざわざ拭く?茶杓だって洗ってあるでしょう、といちいち引っかかっていたので、先に進むことは遠慮しました。

 (袱紗の手順を思い出しても、裏も表も定かでなく、自己流で薄茶をたてて飲むときは「横千家」とか「斜め千家」と名付けて茶筅をぐるぐるして飲みます。ようは、おいしくお茶が飲めればいいのだ、と思いましたので。

 今のように立礼が盛んな時代ではなかったし、とにかく形通りにお茶をたてていく手順のひとつひとつが、「なんじゃこりゃあ」と思ってしまいました。
 原作者の森下典子は、「世の中にはすぐにわかることとすぐにはわからないことがある」と会得し、習い始めた20代にはわからなかったお茶の心が、25年間お茶を習ってようやくわかってきた、と書いています。わたしは「すぐにはわからない」時点でやめてしまいました。樹木希林が演じた武田先生のような人に出会って、茶道の「心」を教えてくれる師匠だったら、続けたかもしれないけど。
 武田先生は「最初は形だけまねればいいのよ。そのうち形に心が添うから」と教え諭しています。 

 いっしょに映画を見たA子さんは、茶道もちゃんとお稽古した人だったので、映画の中の「茶道アルアル」のエピソードがひとつひとつ思い当たり、笑えたのでとても楽しかった、という感想。
 私は、初心者がしびれてひっくり返り、お湯だかお水だかを倒れた自分の顔で受け止めるシーンは大笑いしたけれど、「アルアル」にはならなかった。畳の縁を踏まないよう、畳を7歩で歩く、という所作も、若いころと同じく、「7歩でも6歩でもいいんじゃね?」と、感じたし、畳の縁を踏んづけたところで、お茶の味は変わらないと思いました。
 武田先生の「形から入って、形の器に自由な心を盛る」という教え、私には今でもわからないのかも。

 原作『日日是好日―「お茶」が教えてくれた15のしあわせ』は、
序章 茶人という生きもの
第一章 「自分は何も知らない」ということを知る
第二章 頭で考えようとしないこと
第三章 「今」に気持ちを集中すること
第四章 見て感じること
第五章 たくさんの「本物」を見ること
第六章 季節を味わうこと
第七章 五感で自然とつながること
第八章 今、ここにいること
第九章 自然に身を任せ、時を過ごすこと
第十章 このままでよい、ということ
第十一章 別れは必ずやってくること
第十二章 自分の内側に耳をすますこと
第十三章 雨の日は、雨を聴くこと
第十四章 成長を待つこと
第十五章 長い目で今を生きること

 という章だてで、20歳でお茶を習い始めてからずっと武田先生に教えを受け、25年間の間の人生のあれこれ。
 何物でもなく自分を探し続けた若い日から、エッセイストとしてベストセラーも持つライターとして生きてきた自分を肯定する50代までの時間の流れがあります。森下典子の自伝エッセイ。

 日日是好日は、映画では「にちにちこれこうじつ」となっていますが、元の禅語では「にちにちこれこうにち」でもいいし、私がそう思っていたように「ひびこれこうじつ」でもいいみたい。

 映画だと、習い始めのエピソードは季節のうつろいとともに描写されるけれど、大人になってからは、「父親の死」のほかにこれといったストーリーはありません。

 原作者の森下典子は「(お茶を習うということは)茶室に通う習慣をつけることで、自分の心と向き合える。人は生きている限り、将来の不安や過去の後悔といった感情から逃れられないけれど、そうした雑音をいったん止めることができます」とお茶の稽古について述べています。そして「人はみんな年を重ね、見える景色が変わってくる。それは決してネガティブなことではなく、面白いことだと思うんです」と。

 映画の中の典子さんは、冒頭で「10歳のころ、フェリーニ監督の名画『道』を見たとき、ぜんぜんわからなかったけれど、大人になって、この作品の素晴らしさがわかった」ということを例にあげて、「世の中には、すぐわかるものと、わからないものがある」と。

 フェリーニのすごさを子供のころわからなかった、というのは当然のこと。10歳でフェリーニに陶酔する子供がいたっていいけれど、ふつうはそうではない。
 子どもにはわからなかった、というのはそうとして、大人になってからも、わからない人にはわからない。時間がたってわかった、というより、映画への感受性が育ったからわかってきたのでしょう。

 お茶も同じこと。すぐにはわからなかったお茶の奥深さ、季節を感じ取る繊細な心や、静かに自分の内面を見つめること、など、お茶のお稽古を通して典子が会得してきたことの、「すぐにはわからなかったこと」が、時間の深まりとともにわかってくる、というのは、さまざまな人がいろんな方法で自分の中に積み上げていく人生そのもの。

 私にとって季節を感じ取る心は、自然の中に身をおくこと、歳時記その他の本の中に好きなことばを見つけることで育っていきました。
 人によって、数々の映画を見ることで、また格闘技の稽古を続ける中で会得する人もいる。友人のK子さんなら、芝居の稽古で人間をつかみ取ってきた、と言うでしょう。

 典子さんがお茶の稽古によって人生を豊かにしてきたのは、お茶とまたは武田先生との相性がよく、典子さんにお茶の感性が備わっていたから。私が25年お茶を習っても、25年たっても、「どうしてこの形に袱紗をたたまなけりゃならんのか」とおもいつづけているかもしれません。ハンカチをたたむときのように、四角四角にたたんでいっても、棗は拭ける。

 大森作品参加にあたっての樹木希林のコメントは。
 「年とったからって自動的にいい顔になるわけじゃない・・・つくづくわかった。 映画に出ることは恥多いことだ。(後期高齢者)」というものだったそうで、樹木希林らしいウィットに富んでいると思います。いやいや、後期高齢者になった希林さん、すばらしい顔をしています。それは、目前にせまっている死をも受け入れた人の強さ気高さなのかなあとも思うけれど。私は凛としたたたずまいの武田先生より、「万引き家族」の初枝ばあちゃんの入れ歯をはずした顔が好きでした。

 大森立嗣監督作品、『ゲルマニウムの夜』2005『まほろ駅前多田便利軒』2011『さよなら渓谷』2013を見てきました。
 本作に、いまひとつ乗り切れなかったのは、私がお茶にまったく感性を持っていなかったせいだと思います。

 連休最終日の館内、中年女性グループや定年退職後の夫婦連れで満員でした。「え~、こんなに混んでいると思わなかった」という女性に、お連れが「樹木希林が出ている映画だからじゃない」と答えていました。
 女優の名前だけで客が呼べる人気ぶり。「女優も、すぐに大人気となる美人さんもいるし、すぐにはよさがわからない女優もいるのよね」と、天国で旦那様と笑って見ているかもしれません。

<つづく>
コメント (2)
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