
「モリのいる場所」山崎努と樹木希林
20190523
ぽかぽか春庭シネマパラダイス>樹木希林映画(4)モリのいる場所・へタも絵のうち
熊谷守一(もりかず1880-1977)の絵画、「生活をきりつめても版画の一枚も購入したい」と思うほどの特別大ファンじゃないけれど、豊島区の熊谷守一美術館も2度訪問しているので、小ファンくらいにはなるのかもしれない。
映画『モリのいた場所』を見たあと、ずっと積ン読にしてあった『ヘタも絵のうち』という守一自伝があったのを思い出して、読みました。1971年、守一が91歳のときに日経の「私の履歴書」に連載されたものです。
また、映画のノベライズ小説「モリのいる場所」(小林雄次2018)が百円本になっていたので、5月12日に購入。たいていの映画ノベライズ本はつまらない文章で、途中で読むのをやめてしまうことが多いのですが、100円なら途中でやめても惜しくないと思って、ノベライズ嫌いなのに、買いました。小林雄次の小説化、私の好みの「周囲の人がそれぞれにその人物を語る」という形式をとったおかげで、最後まで読み切りました。蟻んこや庭が語り手になっている章もあって面白かった。
以下の感想は『モリのいる場所』と『ヘタも絵のうち』と『ノベライズ本』、美術館で見た守一の生涯解説などの感想がごちゃまぜになっているものですから、映画の評とはいえないかもしれませんが、、、、。
2017年の熊谷守一美術館訪問記
https://blog.goo.ne.jp/hal-niwa/e/c446f39826828f105bac106afb717393
ヘタも絵のうち(平凡社ライブラリー2002・原著日経1971)

熊谷守一美術館は、守一の死後、次女の榧(かや 1929年~ )が残された敷地に美術館を建て、作品とともに豊島区に寄贈したものです。榧は今年90歳。父親と同じく画家として生き、父と同じく長生きです。熊谷守一美術館の1階は、榧作品の絵画や陶器の展示室です。
守一は、70歳ごろから97歳で亡くなるまで、家の庭からとんど外に出ずに過ごした、という仙人のような暮らしを続け、ひたすら植物や虫や雲を眺めて、絵を描きました。叙勲(勲3等)も文化勲章も受賞辞退したことでも有名です。
映画は、そんな守一の朝から夜までの一日を描いています。1974(昭和49)年7月10日の一日の出来事。
樹木希林は、山崎努演じる守一の妻秀子。
秀子は前夫と離婚してまで19歳年上の守一と結婚し、56年間の結婚生活中、夫を支え続けました。
結婚生活の前半は、絵描き以外のことができないのに絵を描こうとせず極貧であった夫と5人の子を抱えて、貧乏故病気の子を医者に見せてやることもできなくて、5人のうち3人まで亡くしています。絵が売れるようになったあとも、来客をさばき守一のへぼ碁の相手を務め、いわば「熊谷守一」という人物の総合プロデューサーのような存在でした。
映画冒頭に、昭和天皇が守一の絵を見て「これは何歳の子どもが描いた絵か」とご下問アソバすシーンがあります。展覧会でのことだったかどうかはわかりませんが、昭和天皇のことばは事実らしい。林与一が演じる姿、顔はそれほど似ていませんが、猫背で立つ姿などそっくりで、おもしろかった。
子どもの絵、と評された絵はこれ

座布団と櫛?と思いましたが、タイトルはのしもち。櫛と思ったのは包丁のようです。
「売ってやろう」とか「賞をとろう」なんぞという邪念は少しも感じられない絵だから、天皇も純粋に子供の絵と感じた。何事にも、お金や名誉なんてことにみじんも関心のない純粋な心で絵を眺めた人の感想でしょうから、守一にとっては、「誉め言葉」だったろうと思います。
私が絵をみるときはいつだって「これって、画廊で買うならいくら?」と思ってしまう。この鑑賞法では、いくら誉めちぎったところで守一は喜ばないはず。
映画には出てこない実像の秀子。
大江秀子(1898-1984)は、山林地主で豪商の裕福な家庭に生まれ育ち、1920(大正9)年に原愛造と19歳で結婚。大江家は遠縁にあたる貧しい画家志望の愛造に学資を支援する間柄でした。早くに両親を亡くした秀子は、大江家当主のオジのことばに従って結婚したのです。
愛造の兄、原勝四郎も同じく画家で、画家仲間が集まる中に、熊谷守一もいました。守一は、自分の絵がそこそこ売れるようになると、画商に「原勝四郎の絵を買うなら俺の絵も売る」と言ってやるような間柄でした。
守一は、親友の弟の若妻秀子より19歳年上。しかし、秀子と守一は互いにひかれあい、紆余曲折を経て守一42歳秀子24歳で結婚することになりました。その間に友人たちのさまざまな折衝があったようですが、映画の中では、熊谷家の家事を手伝っている姪の美恵ちゃんが「前の旦那さんのこと、嫌いだったの?」と質問したとき、秀子は淡々と「ううん、いい人だったわよ」と答えています。いい人だった愛造と別れてまでいっしょになった守一と
56年ともに暮らしました。
地主で事業家、初代岐阜市長や衆議院議員を務めた守一の父親の死後、熊谷家は急速に没落し、守一は食べるものにもことかく極貧生活となります。秀子との間に次々に生まれた5人の子のうち、3人は病死してしまいます。
映画の中では、長生きしたい、もっと生きたいという守一に、秀子が「あなたは長生きしたけど、うちの子たちはみんな早く死んじゃって、、、」とつぶやきます。このシーン、実は脚本にはなく、樹木希林のアドリブのつぶやきなんだそうです。
すごいなあ、樹木希林。秀子を演じるにあたって、きっと守一の著作も秀子の記録もたくさん読んだんだろうと思います。子に先立たれた母の悲しみも、夫と添い抜く妻の強さけなげさもすべて体現している秀子そのままが、そこに存在していると思えました。
長男黄(おう)は、守一を支えた親友の作曲家信時潔の長女はる子と結婚。末っ子の榧は、現在まで長生きし、熊谷守一美術館館長。しかし、次男陽、三女茜は幼くして病死。長女萬は、戦時中に食べものも満足でない中、勤労動員の過労により結核を患い、戦後すぐ亡くなりました。
守一が文化勲章を断った理由が「これ以上人が来ると、かあちゃんが困る」。叙勲を辞退した表向きの理由「お国のために何もしていないから、もらうわけにはいかない」(守一は徴兵検査時に、歯が7本なかったゆえに丙種合格となり、日露戦争時に徴兵免除となっています。守一と同郷の同じ年頃の男性は、多くが日露戦争で戦死しているのだそうです。
文化勲章には年金がつくから、と説得されても「かあちゃんがほしいならもらう」と答え、そのかあちゃんは「本人がいやだと思っているのに、私が欲しがっているみたいになったらいやだ」と、結局辞退。
実は、守一の「人に等級をつけるな」という思想からの叙勲辞退であったと、周囲の人は見ています。
映画前半、ここはオリジナル脚本と思うエピソード。
「旅館の名前『雲水館』を看板に書いてくれ」と頼みに来た朝比奈(光石研)。信州を、自分の故郷岐阜県付知のような山奥で、東京に出てくるには2日かかりくらい遠いと思い込んでいるモリは、朝比奈の苦労を慮って揮毫を承諾。力を込めて書いたのは「無一物」。モリの座右の銘です。
秀子は「最初に言いましたよね。自分の好きなことばしか書かない人だって」
映画に出てくる家は、逗子市の「昭和からの古屋」を使っての撮影だったそうです。
実際の守一の家は、秀子の実家から資金を融通してもらって建てたもので、秀子は夫のアトリエのために1932年(昭和7)に豊島区千早に自宅を建てました。赤貧を続けたモリ、52歳でようやく持った自宅アトリエ。
秀子は、もらった建設資金の半分は、絵を売りこもうとしない夫をあてにしなくても暮らせるよう、生活資金にしたのだとか。家を建ててからさらに数年間、モリは絵を売る気にはならないのでした。
モリが画家を志した20歳のときから、38年。秀子と結婚してから16年たってから、ようやくモリは自分の絵を売る決意をしました。
秀子も、幼い子どもが病気になっても、医者にかけてやるお金もなかった生活で、よくぞ守一と56年間添い遂げたものです。
樹木希林演じる秀子は、「池へ行ってくる」と言う94歳の夫に、洗濯ものを干しながら「はい、いってらっしゃい、お気を付けて」と送り出す。自宅庭の池なのに。
その池は、マンション建設のために埋めることになると、「見知らぬ人」として熊谷家に出入りしていた男(三上博史)によって「不思議な宇宙への通路」という様相を持ちます。守一の夢なんだろうけれど、もともと仙人か天狗のような人だった守一の夢だから、現実かもしれないと思わさせられます。
守一のまわりにいるコレクター役のきたろうや、写真家の藤田(加瀬亮)も、実在のモデルがいます。藤田のモデル写真家藤森武は、めったに写真を撮らせない守一を、藤森の師匠土門拳を受け継いで撮り続けました。
ラストシーンでは、建設中のマンション屋上から守一家を撮影しています。
映画は、1974(昭和49)年、モリ94歳のある一日、という設定。
70歳のころから27年間、ほとんどの時間を家の庭の中だけで過ごした熊谷守一のすごした一日の、朝から翌朝までの24時間。
淡々と日常が流れ、とくに大事件もおきないストーリーですが、とてもゆったりとした時間が流れ、ここちよい緑の風に吹かれる思いでした。
妻秀子は、夫を見送ってから1984(昭和59)年、10年で夫のもとに旅立ちました。
沖田修一作品、南極料理人(2009)キツツキと雨(2012)横道世之介(2013)は見ましたが、滝を見にいく(2014)モヒカン故郷に帰る(2016)は見ていません。そのうち見たいと思います。
竹橋近代美術館での熊谷守一展(2017.12.1-2018.3.21)、3ヶ月の展示期間があったのに、行くことができませんでした。招待券が手に入らなかったから。
2018年2月24日には、高畑勲(アニメーション映画監督)の講演(インタビューアー:藏屋美香・近代美術館企画課長=熊谷守一展企画者)があったのですから、見ておくべきでした。高畑勲の闘病について噂程度にしか知らず、この講演のあと2ヶ月で亡くなってしまうとは思っていなかった。講演を聞くためにも、展覧会チケット買うべきでした。
古希を迎えるにあたっての一大決心。見たい展覧会は、無料チケット・招待状が手に入らなくても、見ておく。
<おわり>