春庭Annex カフェらパンセソバージュ~~~~~~~~~春庭の日常茶飯事典

今日のいろいろ
ことばのYa!ちまた
ことばの知恵の輪
春庭ブックスタンド
春庭@アート散歩

ぽかぽか春庭「慣用読みと誤読みんなで間違えれば怖くないべいさくこめさく

2019-08-20 00:00:01 | エッセイ、コラム
20190820
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>再録感じる漢字(19)慣用読みと誤読べいさくこめさく

 春庭コラムの中から、漢字について書いたものを再録しています。
~~~~~~~~~~~

 「総合初等教育研究所」2005/01/27発表の「小学生漢字読み書き習得状況調査」で、「子どもが苦手な字」として、誤読が多かった字があげてある。
「米作農家 べいさくのうか→こめさくのうか」「川下 かわしも→かわした」「戸外 こがい→とがい」など。
 誤記述の漢字。「こかげ 木かげ→小かげ」「らくがき 落書き→楽書き」など。

 私は、これらはあと30年して今の子どもたちが社会の中心世代になったら、「慣用読み」「慣用書き」として定着していくだろうと予測する。

 重箱読み湯桶読みがあるのだから「米作」が「べいさく」でなく「こめさく」でも、みんながそう読みたいのなら、定着する。「らくがき」するのが楽しい子どもたちは、「楽書き」と書き表わしていくだろう。

 変わりはじめた当初の誤読者は「今どきのワカゾーは、漢字ひとつ読めない。消耗(ショウコウ)をショウモウなどと読みおって、けしからん。嘆かわしい」と非難されただろう。今は「ショウモウ」と読んでも、当然とされる。
 「米作」を「こめさく」と読む人がおおくなれば、その読み方が定着していく。

 「楽書き」という書き方が生まれて定着していくかどうか、そのあと「落書き」のほうも残るかどうかは、後の世代にまかせるとしよう。

 「楽書き」って、なんだか楽しそうでいいなあ。決められた紙やノートに書くだけじゃなく、教科書のすみっこや机のうらなんかに、こっそり落書きをするのが、楽しいって子どもの気持ちが出ている。

 読み方の変化、最初は誤読だったものが慣用的に使われて、定着する。誤読自体はこれからも起こりうることだ。

 では、子どもたちの漢字読み書き能力が弱くなっている問題を、どうしたらよいのか。
 漢字文化は日本語言語文化にとって、大変重要なものだ。漢字文化をなくしてしまうことは、私たちのものの考え方感受性にまで影響が及ぶ。

 ひとつの漢字を百回繰り返して書取りしても、子どもの心に残らなければ、それは手の運動になるだけで、漢字が身に付いたことにはならない。心に残る漢字になるためにはその漢字語彙が驚きや感動を伴って記憶されることです。子どもの体験や生活に根ざした語彙であること。
 言語文化全体をみわたして、「ことばの学び」をどうしていくべきなのか、考えていくこと。現代の子どもたちをとりまく言語文化環境はあまりにも貧弱です。<続く>

2005/02/04 (金)
ニッポニアニッポン語>みんなで間違えばこわくない・誤読→慣用読み④

 総合初等教育研究所の読み書き習得状況調査によれば、5年生の半数が「赤十字」を「あかじゅうじ」と読んだそう。

 自分の生活に身近でない漢字のことばに出会ったとき、知っている漢字や熟語から意味と読みを類推する力はとても大切。
 「赤十字」の活動にも「赤十字病院」にも縁がない生活をしていれば、5年生の多くが「あかじゅうじ」と読むのは当然だ。
 子どもの生活に身近な「赤レンジャー青レンジャー」「赤とんぼ」「運動会の赤旗白旗」のほうに合わせて、「あか十字」と類推したのだ。

 赤ちゃんのときから「赤十字病院」のお世話になっている子どもだったら、親から「ほら、きょうはセキジュージにいって、おばあちゃんの薬もらってくる日だよ」などと、聞かされており、漢字と音が結びついていて間違えない。

 昔の人が近所に赤十字病院がなくても「セキジュージ」と読めたのは、ナイチンゲールやアンリー・デュナンの伝記が今より広く知られていたからかも。(1933(昭和8)年から1940年まで使われた第4期国定修身教科書に、ジェンナー、ソクラテスらと共にナイチンゲールの話が掲載されていた)

 しかし、「米作」が「べいさく→こめさく」と慣用読みが定着するのではないかと予想されるのとは異なり、「赤十字」については、そうはならない。その存在や活動を学習した時点で「せきじゅうじ」という読み方のほうを採用するだろう。「赤十字」は団体の固有名詞でもあるので、慣用読みの定着はむずかしい。

 子どもが読みを間違えるのは、その漢字が日常生活での会話にも、テレビや、本・漫画から仕入れる語彙にもなじみがない語であることが多い。
 幼児のころから「へんし~ん!」という言葉を見聞きしていたあと「変身」という漢字をならった場合、「へんみ」と読む者は少ないはず。

 漢字の誤読・誤記は、子どもが浸っている生活文化全体の問題なのだ。
 夏の陽射し厳しい中を歩いていて日陰がほしいとき、木の下で憩える子どもは少なくなっている。ビルの間のちょっとした陰や道路におかれたパラソルの下の日陰で休む人にとっては、「木かげ」より「小かげ」のほうが、実感にあっているだろう。

 今回の調査で「高層ビル」「大統領」の正答率が上がったのは、これらの言葉をニュースなどで見聞きし、親世代の会話のなかに出現する頻度も上がっているからだ。

 子どもの漢字力語彙力(ボギャブラリー)を心配するなら、子どもをとりまく大人たちが、子どもの目耳心に、豊かな語彙を、どんどん与えることだ。親世代の言語能力がなくなっているのに、子どもの言語力があがるはずがない。

 昔の子どもたちは、酒屋へおつかいに行かされれば、一合だの一升だのと単位を覚えた。豆腐屋へ豆腐を買いに行って「とうふひとつ油あげふたつください」「はい、とうふ一丁あげ二枚ね。おまちどうさま」というやりとりで、豆腐は丁、油揚げは枚と数えるのだと、自分で覚えた。

 今の子どもは、スーパーで親がだまってパック入りの豆腐をかごにいれるのを見るのみ。いくら「数え方辞典」片手に教え込もうとしたところで、それは「知識」にはなるが、身についた生きた言葉になるのは難しい。
 すべてのものを「いっこ、にこ、さんこ」と数えるようになるのもやむを得ない。

 わかりやすい例として助数詞(ものを数えるときにつけることば)をあげたが、すべての語彙において、同じ現象がおきている。授業で教えテストをするだけでは、子どもたちの語彙能力は高まらない。

 周囲の言葉のやりとりの中で「政治家のオショクジケンは困ったもんだ」と、聞いて誤解し、「お食事券ぼくも欲しい」と、話題に加わってみる。こんなとき「汚職事件」について説明されれば、国語の時間に辞書をひいて覚える以上に頭に入る。

 生きたコミュニケーションのなかでの言葉のやりとりをし、周囲の人の話、本・新聞やニュースで知ったことばを生活で使ってみたり、書き言葉にとりいれたりする、その営みが貧弱になっていれば、子どもの言葉は育たない。<誤読→慣用読み つづく>


<つづく>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする