20200725
ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>全員死刑!(1)死刑制度について
死刑制度について、私の立場を一言でいうと。
「国家による死刑に反対。減刑なしの終身刑を最高刑とすべし」
なぜなら、人は裁判においても間違うことがあるからです。冤罪は皆無ではないからです。
2020年3月31日、冤罪を主張していた西山美香さんに対して、大津裁判所は無罪判決を出しました。西山さんは、殺人罪で懲役12年の刑を受け、服役し出所後に再審裁判を起こしました。
2003年滋賀県東近江市の湖東記念病院で、男性患者の人工呼吸器を外して死亡させたとして看護助手西山美香さんが逮捕され、自白を有力な証拠として殺人罪が成立。懲役12年の刑が確定し西山さんは服役しました。
しかし、自白は警察による誘導によるものだったとして、裁判をやり直す再審公判が大津地裁(大西直樹裁判長)で始まり、ついに「男性患者死亡時75歳は、自然死であり、事件性はない」という結論により、西山さんに無罪の判決が出たのです。
西山さんに「他者に誘導されやすい」という弱点があったことは確かのようです。人に言われるままにそれを受け入れてしまう。自白は、相手に迎合するために誘導されてなされたものです。警察官と検察官は事件を作り出し、精神的に自立が難しかった弱い立場の女性に殺人の罪を背負わせました。「自白したから」という理由で起訴され、殺人犯とされました。
警察検察は、無実の人に殺人罪を負わせたのです。
この判決でも言えますが、「人は間違う」のです。
1966年に起きた静岡県の一家4人殺害放火事件の犯人として、従業員の元プロボクサー袴田巌元被告人が逮捕されました。その後、袴田元被告が犯人とされた証拠を覆す「5点の衣類の写真」のネガフィルムが、実際には静岡県警察で保管されていたにも関わらず、裁判には出されず隠されていた事が判明。
袴田被告の死刑は停止されましたが、いまだに再審請求中という冤罪事件です。警察や検察のメンツを保つために、無罪の証拠が隠された、というあまりにも卑劣なやり方、長い間の拘禁のために、精神が不安定になっている現在の袴田巌さんを見ると、もし、死刑執行後に無罪証明証拠がでたのだとしたら、この国家による犯罪は取り返しのつかないものになっただろうと思います。
明治の幸徳秋水が死刑になった時代よりましになったのかもしれませんが、冤罪は現代にも決してなくなったわけではありません。
冤罪が皆無ではない以上、死刑を実行すべきではない。
しかし、私が死刑制度反対論者として名乗りを上げることができないのは、死刑を自分自身の問題として考えていないからではないか、という疑念が残っているからです。
我が事として考えたとき、もし私が我が子を犯罪によって殺害されたとき、相手に対する復讐感情をどのように処理するのか、自分でもまだわかっていないからです。「ためらう」気持ちがあるのです。すべてのことを「善悪正邪」に一刀両断できる人もいるのでしょうが、優柔不断がサガである私は、すべてのことをためらいます。
死刑を廃止した多くの国で、最高刑は「減刑なしの終身刑」です。
死刑囚にとっては、「いつ刑が執行されるのかわからない」という不安の年月を過ごすことが「精神的拷問」の時間になっています。多くの死刑囚は「拘禁性ノイローゼ」を発症。
終身刑は一般の懲役刑と同じく労働を課す。「罪を悔いつつ、労働の報酬によって被害者に賠償する」という刑になります。どちらが残酷な刑かというのは、人によって受け取り方はことなるでしょうが、残酷性という点では日本の絞首刑は、絶命まで20分かかる、という点で世界でもっとも残酷な刑です。
日本は、世界の主要国のなかで、中国、アメリカの30の州とともに、今でも死刑制度を存置している国家です。ヨーロッパのほとんどの国が死刑制度を廃止または凍結としている中、アジアではカンボジアが死刑廃止となったほかは、北朝鮮、タイ、インド、サウジアラビアなどが存置国です。韓国は制度としては残していますが、事実上の凍結です。
2018年は、久しぶりに死刑制度が人々の話題に上りました。オーム事件で死刑判決を受けた13人の大量執行があったからです。
2018年7月6日と26日にオーム真理教事件の13死刑囚の執行がいきなり「全員死刑!」となったのも、2019年は代替わり行事がある、2020年にはオリンピックの予定、というスケジュールの中、2021年以後になると、世界的な死刑廃止の潮流の中、死刑執行は国際世論の反対を受けかねない、というタイムリミットでの執行であったようです。(なにも開示されていないので、憶測にすぎませんが)
2018年7月。6日に麻原元死刑囚をはじめ7人、26日に6人。合わせて13人の死刑が執行されました。執行命令書にサインしたのは、上川陽子法務大臣(当時)。
この大量執行には、多くの疑問点が残りました。すでに多くの識者が指摘してきたことなのですが、私もこの死刑執行には疑問を感じたので、メモしておきます。
1)まだ、オーム真理教事件の全容が明らかになっていない中、死刑囚たちの言説をもっと聞き取り、または執筆の時間があってしかるべきだった。死刑囚の書き残したものなどは開示されないままになっているが、一定期間後には開示されてもいいのではないか。
2)岡崎(宮前に改姓)一明(執行時57歳)は、坂本事件に関して自首しており、裁判では自首減刑が成立するかどうかが争点となった。1審は、自首は認定する一方、「自己保身のためだった」として刑を軽くすべきではないと判断した。しかし、逮捕後最初に自白した林郁夫医師は自首を認められ、減刑されたのに対して、法の下の平等が実施されていないと感じる。なにがなんでもオームの被告は死刑にしてしまえ、という国家の意思を感じる。
3)井上嘉浩は、再度の証言を願い、再審請求していたが、無視され死刑執行。再審中は執行されない、というやはり法の元の平等に反する。
オームの犯罪については、さまざまな言説が出されています。国家に挑戦しようとしたテロ集団という見方が一般的であり、29名の殺人を行った集団への死刑執行を「当然」と受け止める方が普通と思います。
それでも、ある違和感が私の中から消えないのは、教祖以外、自らの意思で判断し犯行を決定した者がいない、ということ。マインドコントロールされてしまうのも自己責任という論もあるでしょうが、犯罪を犯したとき、彼らは本気でその行為を「教祖のための善行」と信じていたのではないか、ということです。
彼らが自治省だの建設省だのと、国家まがいの組織を作って活動していたことを考えるとき、彼らが「テンノーヘーカばんざい!」と叫んで敵兵に銃剣を突き刺した兵士たちと、どこが違うのか、という思いがあるからです。命じられて人を殺して、戦時中はそれが正義であり、英雄的行為とされ、戦後なら悪行。これはチャップリンはじめ、多くの人が言及していること。オームの犯罪者にとっては、彼らの論理での戦時中だったのだと感じます。
むろん、違うことはわかっています。1930-1945年の帝国日本は、国際的にみとめられた正規の国家であり、教祖を元首とみなす「自称オーム真理教の国=神聖法皇国」は、自分たちだけで固まった疑似国家。国もどき国ごっこです。
ただ、そこに集結した若者たちは、本気で「私利私欲を超えた理想の宗教国家を、教祖のもとに作り上げたい」という理想を追っていた。それが、ねじ曲がってしまったとき、私たちが住む社会は、かれらよりもっとねじ曲がった社会だったのだと思います。
国家は、人を殺してもよいのか。
オーム神聖法皇国の殺人が許されないなら、他の国家の殺人も許されない、と感じます。
さまざまな犯罪に対して、法に基づいて裁判が行われ判決が下される過程はわかっているのですが、人間は神ではない。人が人を裁くとき、必ず間違いを犯す。
最近見たテレビ番組「逆転人生」の中で、コンビニ強盗の犯人とされ「コンビニのドアに残された指紋」を「絶対的な証拠」とする警察に対して、2年がかりで証拠を集め、無実を証明した人が登場していました。
起訴される前の取り調べに2年かかったのであり、拘束されていたのは刑務所ではなく留置所であるために、何の補償もなく、警察の謝罪もなかった、ということでした。
もしも、起訴されそのまま有罪になっていたら、この人の人生はどうなったのだろうと思います。
まちがうのが人間です。
冤罪は許されません。冤罪で死刑になったら、命はとりかえしがつかない。
「死刑を廃止したほうがいいと思いますか」という問いかけをすると、現在のところ、日本では「いいえ」という答えのほうが多いらしい。しかし、問いかけを変えてみると。
「仮釈放のない終身刑で、その受刑者が一生刑務所から出ないのならば、死刑を廃止してもいいですか。加害者は被害者と遺族にのために働くことを義務付け、一生つぐないを続けることを条件にすれば死刑を廃止してもいいですか」と聞くと、死刑廃止に賛成する人がふえるのだそうです。
私の死刑制度に対する考えは、まだまとまっていません。まとまらないまま、あれこれ無駄な考えを述べます。人が心の中に持っている「ペスト」について考えること、こんな世の中で考えるときを作らないと、考えないで流される一方の私なので。
<つづく>
ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>全員死刑!(1)死刑制度について
死刑制度について、私の立場を一言でいうと。
「国家による死刑に反対。減刑なしの終身刑を最高刑とすべし」
なぜなら、人は裁判においても間違うことがあるからです。冤罪は皆無ではないからです。
2020年3月31日、冤罪を主張していた西山美香さんに対して、大津裁判所は無罪判決を出しました。西山さんは、殺人罪で懲役12年の刑を受け、服役し出所後に再審裁判を起こしました。
2003年滋賀県東近江市の湖東記念病院で、男性患者の人工呼吸器を外して死亡させたとして看護助手西山美香さんが逮捕され、自白を有力な証拠として殺人罪が成立。懲役12年の刑が確定し西山さんは服役しました。
しかし、自白は警察による誘導によるものだったとして、裁判をやり直す再審公判が大津地裁(大西直樹裁判長)で始まり、ついに「男性患者死亡時75歳は、自然死であり、事件性はない」という結論により、西山さんに無罪の判決が出たのです。
西山さんに「他者に誘導されやすい」という弱点があったことは確かのようです。人に言われるままにそれを受け入れてしまう。自白は、相手に迎合するために誘導されてなされたものです。警察官と検察官は事件を作り出し、精神的に自立が難しかった弱い立場の女性に殺人の罪を背負わせました。「自白したから」という理由で起訴され、殺人犯とされました。
警察検察は、無実の人に殺人罪を負わせたのです。
この判決でも言えますが、「人は間違う」のです。
1966年に起きた静岡県の一家4人殺害放火事件の犯人として、従業員の元プロボクサー袴田巌元被告人が逮捕されました。その後、袴田元被告が犯人とされた証拠を覆す「5点の衣類の写真」のネガフィルムが、実際には静岡県警察で保管されていたにも関わらず、裁判には出されず隠されていた事が判明。
袴田被告の死刑は停止されましたが、いまだに再審請求中という冤罪事件です。警察や検察のメンツを保つために、無罪の証拠が隠された、というあまりにも卑劣なやり方、長い間の拘禁のために、精神が不安定になっている現在の袴田巌さんを見ると、もし、死刑執行後に無罪証明証拠がでたのだとしたら、この国家による犯罪は取り返しのつかないものになっただろうと思います。
明治の幸徳秋水が死刑になった時代よりましになったのかもしれませんが、冤罪は現代にも決してなくなったわけではありません。
冤罪が皆無ではない以上、死刑を実行すべきではない。
しかし、私が死刑制度反対論者として名乗りを上げることができないのは、死刑を自分自身の問題として考えていないからではないか、という疑念が残っているからです。
我が事として考えたとき、もし私が我が子を犯罪によって殺害されたとき、相手に対する復讐感情をどのように処理するのか、自分でもまだわかっていないからです。「ためらう」気持ちがあるのです。すべてのことを「善悪正邪」に一刀両断できる人もいるのでしょうが、優柔不断がサガである私は、すべてのことをためらいます。
死刑を廃止した多くの国で、最高刑は「減刑なしの終身刑」です。
死刑囚にとっては、「いつ刑が執行されるのかわからない」という不安の年月を過ごすことが「精神的拷問」の時間になっています。多くの死刑囚は「拘禁性ノイローゼ」を発症。
終身刑は一般の懲役刑と同じく労働を課す。「罪を悔いつつ、労働の報酬によって被害者に賠償する」という刑になります。どちらが残酷な刑かというのは、人によって受け取り方はことなるでしょうが、残酷性という点では日本の絞首刑は、絶命まで20分かかる、という点で世界でもっとも残酷な刑です。
日本は、世界の主要国のなかで、中国、アメリカの30の州とともに、今でも死刑制度を存置している国家です。ヨーロッパのほとんどの国が死刑制度を廃止または凍結としている中、アジアではカンボジアが死刑廃止となったほかは、北朝鮮、タイ、インド、サウジアラビアなどが存置国です。韓国は制度としては残していますが、事実上の凍結です。
2018年は、久しぶりに死刑制度が人々の話題に上りました。オーム事件で死刑判決を受けた13人の大量執行があったからです。
2018年7月6日と26日にオーム真理教事件の13死刑囚の執行がいきなり「全員死刑!」となったのも、2019年は代替わり行事がある、2020年にはオリンピックの予定、というスケジュールの中、2021年以後になると、世界的な死刑廃止の潮流の中、死刑執行は国際世論の反対を受けかねない、というタイムリミットでの執行であったようです。(なにも開示されていないので、憶測にすぎませんが)
2018年7月。6日に麻原元死刑囚をはじめ7人、26日に6人。合わせて13人の死刑が執行されました。執行命令書にサインしたのは、上川陽子法務大臣(当時)。
この大量執行には、多くの疑問点が残りました。すでに多くの識者が指摘してきたことなのですが、私もこの死刑執行には疑問を感じたので、メモしておきます。
1)まだ、オーム真理教事件の全容が明らかになっていない中、死刑囚たちの言説をもっと聞き取り、または執筆の時間があってしかるべきだった。死刑囚の書き残したものなどは開示されないままになっているが、一定期間後には開示されてもいいのではないか。
2)岡崎(宮前に改姓)一明(執行時57歳)は、坂本事件に関して自首しており、裁判では自首減刑が成立するかどうかが争点となった。1審は、自首は認定する一方、「自己保身のためだった」として刑を軽くすべきではないと判断した。しかし、逮捕後最初に自白した林郁夫医師は自首を認められ、減刑されたのに対して、法の下の平等が実施されていないと感じる。なにがなんでもオームの被告は死刑にしてしまえ、という国家の意思を感じる。
3)井上嘉浩は、再度の証言を願い、再審請求していたが、無視され死刑執行。再審中は執行されない、というやはり法の元の平等に反する。
オームの犯罪については、さまざまな言説が出されています。国家に挑戦しようとしたテロ集団という見方が一般的であり、29名の殺人を行った集団への死刑執行を「当然」と受け止める方が普通と思います。
それでも、ある違和感が私の中から消えないのは、教祖以外、自らの意思で判断し犯行を決定した者がいない、ということ。マインドコントロールされてしまうのも自己責任という論もあるでしょうが、犯罪を犯したとき、彼らは本気でその行為を「教祖のための善行」と信じていたのではないか、ということです。
彼らが自治省だの建設省だのと、国家まがいの組織を作って活動していたことを考えるとき、彼らが「テンノーヘーカばんざい!」と叫んで敵兵に銃剣を突き刺した兵士たちと、どこが違うのか、という思いがあるからです。命じられて人を殺して、戦時中はそれが正義であり、英雄的行為とされ、戦後なら悪行。これはチャップリンはじめ、多くの人が言及していること。オームの犯罪者にとっては、彼らの論理での戦時中だったのだと感じます。
むろん、違うことはわかっています。1930-1945年の帝国日本は、国際的にみとめられた正規の国家であり、教祖を元首とみなす「自称オーム真理教の国=神聖法皇国」は、自分たちだけで固まった疑似国家。国もどき国ごっこです。
ただ、そこに集結した若者たちは、本気で「私利私欲を超えた理想の宗教国家を、教祖のもとに作り上げたい」という理想を追っていた。それが、ねじ曲がってしまったとき、私たちが住む社会は、かれらよりもっとねじ曲がった社会だったのだと思います。
国家は、人を殺してもよいのか。
オーム神聖法皇国の殺人が許されないなら、他の国家の殺人も許されない、と感じます。
さまざまな犯罪に対して、法に基づいて裁判が行われ判決が下される過程はわかっているのですが、人間は神ではない。人が人を裁くとき、必ず間違いを犯す。
最近見たテレビ番組「逆転人生」の中で、コンビニ強盗の犯人とされ「コンビニのドアに残された指紋」を「絶対的な証拠」とする警察に対して、2年がかりで証拠を集め、無実を証明した人が登場していました。
起訴される前の取り調べに2年かかったのであり、拘束されていたのは刑務所ではなく留置所であるために、何の補償もなく、警察の謝罪もなかった、ということでした。
もしも、起訴されそのまま有罪になっていたら、この人の人生はどうなったのだろうと思います。
まちがうのが人間です。
冤罪は許されません。冤罪で死刑になったら、命はとりかえしがつかない。
「死刑を廃止したほうがいいと思いますか」という問いかけをすると、現在のところ、日本では「いいえ」という答えのほうが多いらしい。しかし、問いかけを変えてみると。
「仮釈放のない終身刑で、その受刑者が一生刑務所から出ないのならば、死刑を廃止してもいいですか。加害者は被害者と遺族にのために働くことを義務付け、一生つぐないを続けることを条件にすれば死刑を廃止してもいいですか」と聞くと、死刑廃止に賛成する人がふえるのだそうです。
私の死刑制度に対する考えは、まだまとまっていません。まとまらないまま、あれこれ無駄な考えを述べます。人が心の中に持っている「ペスト」について考えること、こんな世の中で考えるときを作らないと、考えないで流される一方の私なので。
<つづく>