20200726
ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>全員死刑!(2)私だったかもしれない永田洋子
私のもとに「フォーラム90」という団体から、発行ごとにニュースレターが送られてきます。
ずいぶん前にフォーラム90のイベントで、作家辺見庸の講演が開かれました。ナマ辺見を見たい、というミーハー気分で、会場に出かけ、氏名住所を書いてきて以来、ニュースレターが送られてきます。寄付依頼も同封されていますが、すみません、一度も送金したことなし。
フォーラム90のニュースレターにより、テレビやネットでは報道されることも少ない死刑執行者の名前なども、一般の人よりも目に触れる機会が多いです。
カレー事件で死刑判決を受けた林眞須美(はやし ますみ)の絵なども、ニュースレター同封の「死刑囚表現展」のチラシなどで見てきました。
2019年12月付のパンフレットに同封されていたのは坂上香監督のドキュメンタリー作品『プリズンサークル』のチラシ。
刑務所に服役している4人の受刑者を2年間撮影し、強盗傷人、傷害致死、窃盗、詐欺などの罪を犯した受刑者が、どのように罪と向き合い、なぜ犯罪者となってしまったのか追及していく。
受刑者施設「島根あさひ社会復帰促進センター」は、回復共同体Therapeutic Communityを日本で唯一取り入れている施設です。受刑者同士の対話により犯罪の原因を探り、更生を促すプログラムを実践しています。周囲から愛を受けられず、不幸な育ちをした人が多く、それらをしっかりと見つめなおすことで、犯罪に至った自身の人生を振り返り、別の人生を目指す、というプログラムです。
官民協働の施設で、官の施設と民間の職業訓練施設とが合体して、受刑者の社会復帰をめざしています。
受刑者は、成長の過程で貧困、差別、いじめ等を受けた者が多い。
罪人を断罪するだけでは世の中から罪びとはいなくならない。貧困や差別をなくさない限り、犯罪もなくならない。プリズンサークルのプログラムを受けた人は、全員ではないかもしれませんが、一般の懲役刑受刑者よりも社会復帰がうまくいくようです。
犯罪に至る原因には、貧困や差別などのほか、「より良い社会をめざす」という目的を追いながら、社会から見ると理想から外れて犯罪にかかわっていく、という経緯があります。オーム真理教に所属した信者たちも、教祖を中心とした理想の宗教国家を作ろうとしていて、道がねじ曲がってしまったのではないか、と思うのです。
1968-1970年に社会を揺るがした「赤軍派リンチ事件・あさま山荘事件」は、私の世代の者にとっては、心に深く刺さった事件でした。
死刑囚のひとり永田洋子(ながた ひろこ1945- 2011)は、死刑が確定後、執行前に脳腫瘍のため東京拘置所で獄死。脳腫瘍による症状を訴えても「死刑を免れようとする虚言」などと扱われたという話もありますが、真相はわかりません。
永田と一時期事実婚の間柄であった坂口弘は、2020年の現在も死刑囚として獄にいます。
私は、確固とした思想もない人間ですから、もし私が先の戦時中に生きていたら、きっと「パーマネントはやめませう」「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」なんていうスローガンを叫びながら、スカートをはいている女性に「この非常時にスカートとはけしからぬ。もんぺをはきなさい」なんて言いたてる婦人会メンバーになっていたんだろうなあ、と思うし、永田洋子のそばにいたら、永田といっしょになって仲間をリンチする側に回ったのかもしれない。(殺される側になった可能性のほうが大きいにしても)
私には、犯罪を犯してしまった人が、自分とはまったく別世界の人とは思えないのです。
私も何かの事情があったり、なんかしらの団体に吸い込まれて、一歩道をたがえれば、犯罪者になっていたかもしれない、と感じます。
外出自粛と要請されておとなしく皆で自粛する国民というのは、「鬼畜英米」「欲しがりません勝つまでは」と言われて、米兵に見立てた藁人形を竹やりで突き刺す訓練に嬉々として身をささげる国民でもあります。
2019年12月10日のフォーラム90のニュースレターに、「死刑囚表現展」の選考過程の録音記録が載っていました。表現展に作品を寄せた死刑囚のうち、河村啓三、庄子幸一(筆名響野湾子)は、すでに死刑執行されていることを知りました。
表現展の選者(評者)は・池田浩士・加賀乙彦・川村湊・香山リカ・北川フラム・坂上香・太田昌国。
作品に対しては、たいへん厳正な評価がなされており、「死刑囚」ということを脇において、日本語文芸作品として絵画作品として表現しきれているかどうか、厳しく評しているように思いました。
たとえば。
批評の中で、2008(平成20)年6月の秋葉原無差別殺人事件で死刑判決を受けた加藤智大の作品に対して。
加藤は、母親が弟だけを溺愛し、自分は親の愛を感じないまま成長したことを繰り返し川柳などの作品に表現しています。(加藤の弟は、2014年2月に自殺。享年28歳)。
加賀乙彦は、加藤がゆがんだ家族関係の被害者とのみ自分を規定し、事件を起こすことによって弟や母に対しては自分が加害者となったことに対して向き合おうとしてこなかったことを「実にかわいそうな状況」と感じています。自分が犯した罪に真正面から向き合うことができない状況が、「かわいそう」なのだと思います。(やまゆり園19人殺人の植松被告も同じです)
死刑囚表現展に出展した加藤智大文芸作品には厳しい評が出ましたが、加藤の絵画作品に対して、評者は「アニマ程近し賞」を贈っています。animaは、ラテン語で「生命や魂」を指す語。加藤の心を、殺人者として切り捨てるのではなく、救い上げようとしているように感じました。
永山則夫の小説、坂口弘の短歌、日本語作品としてすぐれた水準に達していると思います。これだけの表現ができる者が殺人者として死刑判決を受けたこと、本人の問題だけじゃないと感じます。「家庭が悪い」「社会が悪い」だけでもないが。
死刑制度、まだまだ考えがまとまりません。
道浦母都子『
・生かされて存(ながら)うことの悲しみに満ち満ちていむ永田洋子よ
・私だったかもしれない永田洋子 鬱血のこころは夜半に遂に溢れぬ』』
人が人に持つシンパシー。たとえ相手が殺人犯であっても、「私だったかもしれない永田洋子」と感じる心こそが人が人として生きていく感情なのだと思います。
カミュの『ペスト』の中で旅人タルーは、若いころ銃殺刑を見て衝撃を受けます。それ以来心の平和はなくなり、常に「心の中にペストを持つ」という心理になります。タルーは保健隊で患者の世話をし続け、医師リウーと共感しあえるようになります。タルーのリウーへの共感、タルーの世話をしてくれたリウーの母親への親近感は、この物語の要と思います。
タルーの手帳は、『ペスト』の中でも重要な部分です。
「すべての人間はペストを持っている」というタルーの思い、あらゆる暴力と死刑や戦争を含む殺人に抵抗する、というカミュの考え方。死、そして死刑。
人への共感を失い干からびていたタルーがリウーの母に寄せた共感。カミュはここを書きたかったんだろうと感じます。
よしなしごとを考えてすごすのも、「オランのような封鎖都市」の住人になったためでしょう。
これまでつきつめて考えることを停止してきた「死刑制度」も、コロナ封鎖、自粛生活の中で、「宣告」を思い返したり「ペスト」について触れたりしながら、考えてみました。
<つづく>
ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>全員死刑!(2)私だったかもしれない永田洋子
私のもとに「フォーラム90」という団体から、発行ごとにニュースレターが送られてきます。
ずいぶん前にフォーラム90のイベントで、作家辺見庸の講演が開かれました。ナマ辺見を見たい、というミーハー気分で、会場に出かけ、氏名住所を書いてきて以来、ニュースレターが送られてきます。寄付依頼も同封されていますが、すみません、一度も送金したことなし。
フォーラム90のニュースレターにより、テレビやネットでは報道されることも少ない死刑執行者の名前なども、一般の人よりも目に触れる機会が多いです。
カレー事件で死刑判決を受けた林眞須美(はやし ますみ)の絵なども、ニュースレター同封の「死刑囚表現展」のチラシなどで見てきました。
2019年12月付のパンフレットに同封されていたのは坂上香監督のドキュメンタリー作品『プリズンサークル』のチラシ。
刑務所に服役している4人の受刑者を2年間撮影し、強盗傷人、傷害致死、窃盗、詐欺などの罪を犯した受刑者が、どのように罪と向き合い、なぜ犯罪者となってしまったのか追及していく。
受刑者施設「島根あさひ社会復帰促進センター」は、回復共同体Therapeutic Communityを日本で唯一取り入れている施設です。受刑者同士の対話により犯罪の原因を探り、更生を促すプログラムを実践しています。周囲から愛を受けられず、不幸な育ちをした人が多く、それらをしっかりと見つめなおすことで、犯罪に至った自身の人生を振り返り、別の人生を目指す、というプログラムです。
官民協働の施設で、官の施設と民間の職業訓練施設とが合体して、受刑者の社会復帰をめざしています。
受刑者は、成長の過程で貧困、差別、いじめ等を受けた者が多い。
罪人を断罪するだけでは世の中から罪びとはいなくならない。貧困や差別をなくさない限り、犯罪もなくならない。プリズンサークルのプログラムを受けた人は、全員ではないかもしれませんが、一般の懲役刑受刑者よりも社会復帰がうまくいくようです。
犯罪に至る原因には、貧困や差別などのほか、「より良い社会をめざす」という目的を追いながら、社会から見ると理想から外れて犯罪にかかわっていく、という経緯があります。オーム真理教に所属した信者たちも、教祖を中心とした理想の宗教国家を作ろうとしていて、道がねじ曲がってしまったのではないか、と思うのです。
1968-1970年に社会を揺るがした「赤軍派リンチ事件・あさま山荘事件」は、私の世代の者にとっては、心に深く刺さった事件でした。
死刑囚のひとり永田洋子(ながた ひろこ1945- 2011)は、死刑が確定後、執行前に脳腫瘍のため東京拘置所で獄死。脳腫瘍による症状を訴えても「死刑を免れようとする虚言」などと扱われたという話もありますが、真相はわかりません。
永田と一時期事実婚の間柄であった坂口弘は、2020年の現在も死刑囚として獄にいます。
私は、確固とした思想もない人間ですから、もし私が先の戦時中に生きていたら、きっと「パーマネントはやめませう」「足らぬ足らぬは工夫が足らぬ」なんていうスローガンを叫びながら、スカートをはいている女性に「この非常時にスカートとはけしからぬ。もんぺをはきなさい」なんて言いたてる婦人会メンバーになっていたんだろうなあ、と思うし、永田洋子のそばにいたら、永田といっしょになって仲間をリンチする側に回ったのかもしれない。(殺される側になった可能性のほうが大きいにしても)
私には、犯罪を犯してしまった人が、自分とはまったく別世界の人とは思えないのです。
私も何かの事情があったり、なんかしらの団体に吸い込まれて、一歩道をたがえれば、犯罪者になっていたかもしれない、と感じます。
外出自粛と要請されておとなしく皆で自粛する国民というのは、「鬼畜英米」「欲しがりません勝つまでは」と言われて、米兵に見立てた藁人形を竹やりで突き刺す訓練に嬉々として身をささげる国民でもあります。
2019年12月10日のフォーラム90のニュースレターに、「死刑囚表現展」の選考過程の録音記録が載っていました。表現展に作品を寄せた死刑囚のうち、河村啓三、庄子幸一(筆名響野湾子)は、すでに死刑執行されていることを知りました。
表現展の選者(評者)は・池田浩士・加賀乙彦・川村湊・香山リカ・北川フラム・坂上香・太田昌国。
作品に対しては、たいへん厳正な評価がなされており、「死刑囚」ということを脇において、日本語文芸作品として絵画作品として表現しきれているかどうか、厳しく評しているように思いました。
たとえば。
批評の中で、2008(平成20)年6月の秋葉原無差別殺人事件で死刑判決を受けた加藤智大の作品に対して。
加藤は、母親が弟だけを溺愛し、自分は親の愛を感じないまま成長したことを繰り返し川柳などの作品に表現しています。(加藤の弟は、2014年2月に自殺。享年28歳)。
加賀乙彦は、加藤がゆがんだ家族関係の被害者とのみ自分を規定し、事件を起こすことによって弟や母に対しては自分が加害者となったことに対して向き合おうとしてこなかったことを「実にかわいそうな状況」と感じています。自分が犯した罪に真正面から向き合うことができない状況が、「かわいそう」なのだと思います。(やまゆり園19人殺人の植松被告も同じです)
死刑囚表現展に出展した加藤智大文芸作品には厳しい評が出ましたが、加藤の絵画作品に対して、評者は「アニマ程近し賞」を贈っています。animaは、ラテン語で「生命や魂」を指す語。加藤の心を、殺人者として切り捨てるのではなく、救い上げようとしているように感じました。
永山則夫の小説、坂口弘の短歌、日本語作品としてすぐれた水準に達していると思います。これだけの表現ができる者が殺人者として死刑判決を受けたこと、本人の問題だけじゃないと感じます。「家庭が悪い」「社会が悪い」だけでもないが。
死刑制度、まだまだ考えがまとまりません。
道浦母都子『
・生かされて存(ながら)うことの悲しみに満ち満ちていむ永田洋子よ
・私だったかもしれない永田洋子 鬱血のこころは夜半に遂に溢れぬ』』
人が人に持つシンパシー。たとえ相手が殺人犯であっても、「私だったかもしれない永田洋子」と感じる心こそが人が人として生きていく感情なのだと思います。
カミュの『ペスト』の中で旅人タルーは、若いころ銃殺刑を見て衝撃を受けます。それ以来心の平和はなくなり、常に「心の中にペストを持つ」という心理になります。タルーは保健隊で患者の世話をし続け、医師リウーと共感しあえるようになります。タルーのリウーへの共感、タルーの世話をしてくれたリウーの母親への親近感は、この物語の要と思います。
タルーの手帳は、『ペスト』の中でも重要な部分です。
「すべての人間はペストを持っている」というタルーの思い、あらゆる暴力と死刑や戦争を含む殺人に抵抗する、というカミュの考え方。死、そして死刑。
人への共感を失い干からびていたタルーがリウーの母に寄せた共感。カミュはここを書きたかったんだろうと感じます。
よしなしごとを考えてすごすのも、「オランのような封鎖都市」の住人になったためでしょう。
これまでつきつめて考えることを停止してきた「死刑制度」も、コロナ封鎖、自粛生活の中で、「宣告」を思い返したり「ペスト」について触れたりしながら、考えてみました。
<つづく>