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ぽかぽか春庭「トゥーリッキとトーベ」

2020-07-21 00:00:01 | エッセイ、コラム

 ムーミンバレー「エンマの劇場」

20200721
ぽかぽか春庭ジャパニーズアンドロメダシアター>2020感激観劇日記(1)トゥーリッキとトーベ

 飯能のテーマパーク「ムーミンバレー」で最初にしたことは、「エンマの劇場」で「ニンニの物語」の観覧。 
 おなじみのスナフキンやムーミン一家とミーの次に、登場したキャラクターに、ムーミントロールが「やあ、トゥーティッキ」と呼びかけたので、娘と私は「あれ?トゥーティッキ?」

 私が1970代に全巻揃えた単行本と毎週見ていた1969年からはじまったフジテレビのアニメ「ムーミン(ムーミンの声は岸田今日子。主題歌と挿入歌の作詞は井上ひさし)」、そして娘が図書室で読んだ本と1990年テレ東のテレビアニメで見た「楽しいムーミン一家」では、トゥーティッキというキャラクターは「おしゃまさん」と呼ばれていたからです。(私が揃えた単行本は、姉が私に無断で元カレに全部貸したのですが、その後すぐに別れてしまい、借りパクされたままになりました。初版本もあったのに、、、50年前の出来事を今でも残念に思っていて、新しいシリーズを買う気になれず、娘は図書館の本を読んだんです)

 現在のCGアニメ「楽しいムーミン一家」では、「おしゃまさん」は原作通りトゥーティッキになっていたこと、知らなかった。
 1970年代には「ノンノン」1990年代には「フローレン」だったムーミンのガールフレンドも原作通り「スノークのおじょうさん」に戻りました。
 現在トーベ・ヤンソンの著作管理をしている団体(トップは、トーベの弟の娘ソフィア・ヤンソン)が、原作から逸脱しないよう目を光らせているのです。(1969年のフジテレビアニメでは、原作から離れた独自ストーリーやキャラクターの違いがあり、トーベは気に入らなかった)
 トーベは、1976年と1990年代に2度日本を訪れていて、日本が大好きでしたが、作品に関しては原作の変更に厳しかったのです。1969年版アニメは、「トーベ・ヤンソン原作」と「原案」をはっきり区別したうえでDVD化してほしいものです。

 ムーミンバレーの展示室で、娘はトゥーティッキのモデルであったトゥーリッキ・ピエティラ(1917-2009)をはじめて知りました。トーベが描いた「おしゃまさん=トゥーティッキ」は、写真のトゥーリッキとよく似ています。
 私は、トゥーリッキが撮影したドキュメンタリー「ハル-孤独の島」という作品を(テレビ放映だっと思うけど)見て、トーベとトゥーリッキが女性同士のパートナーとして30年間ともに暮らしたことを知っていました。

 トゥーティッキは、フィンランドでは著名なグラフィックデザイナーでしたが、日本ではアーティストとしてではなく、トーベのアートの源泉として、またムーミンフィギュアの共同制作者として認識されています。


 島の小屋ですごすトーベとトゥーりッキ

 若いころのトーベは、3人の男性と交際があったことが知られています。ことに、国会議員でジャーナリストのアトス・ヴィルタネンとは3年間交際し、いっしょに暮らした時期もありました。トーベはいずれ結婚するだろうと考えていましたが、当時の社会規範であった「女性は結婚したら家庭から出ることなく家事育児に専念する」という考えは持っていませんでした。そのゆえか、結局アトスと結婚することはありませんでした。
 トーベは、ヴィヴィカ・バンドレルに出会い、自分自身のセクシャリティを肯定しつつ生きることを望みました。ヴィヴィカは、女性農学者であり、カリスマ的な舞台監督でもありました。

 1971年まで、フィンランドでは同性愛は「犯罪」でした。
 トーベは、スェーデン語圏フィンランド人彫刻家の父ヴィクトル・ヤンソンとスェーデン人画家の母シグネ・ハンマルステン・ヤンソンの間に生まれました。自由な意思によって生きてきたトーベは、社会規範に従うより自分の愛を選びました。しかし、ヴィヴィカは市会議員の父を持ち、社会規範からの逸脱を望まなかったのかもしれません。

 1955年、トーベは、生涯を共に暮らす運命の人に出会いました。アメリカシアトルで生まれたフィンランド人トゥーリッキ・ピエティラです。トゥーリッキは、フィンランドやパリで美術を学び、グラフィックデザイナーとなりました。

 トーベとの共同生活では、ムーミンキャラクターの立体像作品をトーベと共同制作したほか、トーベと夏をすごした孤島での暮らしやいっしょに世界中を旅した記録をドキュメンタリー映画として残しています。1964年からフィンランド沖合の孤島クルーブハルに小屋を建てて、夏は孤島ですごし、秋から春まではヘルシンキの隣り合ったアトリエでアーティストとして制作を続ける共同生活でした。

 1991年、77歳のとき、体力の衰えから島での生活を断念しましたが、2001年に86歳で亡くなるまで、トーベはヘルシンキで執筆をつづけ、トゥーティッキはその8年後に亡くなりました。

 夏の数か月を「水も電気もない暮らし」としてふたりですごしドキュメンタリーが、先に述べた「ハル孤独の島」です。アイスランドやパリの旅の記録といっしょにしてDVDが発売されています。

 ムーミンシリーズの中「ムーミン谷の冬」で、トゥーティッキが登場します。トゥーティッキは、落ち着いた静かな画家です。


 冬眠からひとり目覚めたムーミンは、トゥーティッキに「冬でなければ出会えない生き物」を教えられます。人々が冬眠につく間だけ、のびのびと生きられる生き物たちについて、トゥーティッキはムーミンに語ります。
 「この世界には春、夏、秋には生きる場所をもたないものがいる。あたりがひっそりとして、なにもかもが雪に埋まった時にやっと出てくるの」

 フィンランドはフィンランド語とスェーデン語の両方が公用語ですが、スェーデン語は少数派。トーベはスェーデン語を母語として育ち、フィンランドの中では「少数派」でしたし、セクシャリティの面でも女性を愛するマイノリティでした。冬の厳しい寒さの中に生きている生き物、マイノリティについて肯定できるトゥーティッキは、トゥーリッキその人の反映でしょう。トゥーリッキは、マイノリティとして生きていくトーベをあたたかく包んでいたのだろうと思います。

 「ムーミン」がイギリス新聞の連載4コマ漫画として大成功を収めた後、1970年ころには新聞連載を弟のラルフが引き継ぎました。トーベはムーミンから離れて、画家、小説家として生きていたかったのです。画家としてはなかなか認めてもらえなかったトーベは、アイデンティティの危機をトゥーリッキとの生活の中で乗り越えました。

 「エンマの劇場」で見たニンニの物語。心を押しつぶされて姿が消えてしまった少女ニンニを、ムーミン一家はあたたかく迎え、ニンニは姿を取り戻します。
 ムーミンの物語は、トーベとトゥーリッキが望んだように、すべての人が自分らしく生き、周囲の人とあたたかく過ごせるストーリーです。
 ムーミンの大成功によって自分を見失い、姿が消えかけていたトーベが再び自分を取り戻し、制作に戻っていく心の旅路の物語と重なると思います。

 娘と、「もう一度ムーミンシリーズ、読みなおししなくちゃ」と、言い合いました。

<つづく>

*ジャパニーズアンドロメダって、馬酔木(あせび)のこと。
コメント (2)
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