20200728
ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>全員死刑!(3)坂口弘の歌をみて、我らの世代の共同幻想を思うこと
犯罪に至る原因には、貧困や差別などのほか、「より良い社会をめざす」という目的を追いながら、社会から見ると理想から外れて犯罪にかかわっていく、という経緯がある、と述べました。
自分たちの思うような理想的な社会を作るためには、その邪魔となるものは排除しなければならない、という考え方は、ソビエト連邦成立の前後にも、中華人民共和国成立の前後にもありました。凄惨な殺し合いがあったことは、歴史的事実です。
旧日本帝国成立後にも、幸徳秋水(1871-1911 享年39歳)は、「天皇暗殺」をはかったとして1月18日に死刑判決。わずか6日後に執行。秋水は審理終盤に「一人の証人調べさえもしないで判決を下そうとする暗黒な公判を恥じよ」と陳述したそうです。
政府に批判的な言論を封じるために反対意見を持つものを抹殺していく方法は、現代でも行われています。
現代日本でも。沖縄返還の密約を報道した記者は、女性とのスキャンダルを利用され、言論界から抹殺されました。「50年たつと機密文書も公開する」というアメリカの公開制度により、密約報道が正しかったことが、証明されています。
財務省近畿財務局の上席国有財産管理官、赤木俊夫さんは、モリカケ問題の記録を改竄するよう命じられました。国有地売却に関与したとされる安倍晋三首相の妻昭恵さんの名を記録から消すよう命じられて抵抗し、自殺に至りました。(享年54歳)。妻赤木昌子さんは、夫の死の真実を明らかにしたいと、国を相手に裁判をおこしました。国は、昌子さんの申し立てを受理しないよう、裁判所に命じています。
どうぞ、証人喚問が行われて、裁判が公平に行われますように。沖縄密約問題と同じように、政界と官僚のトップがからむ犯罪は、最高裁で無実になる可能性は高いです。最高裁トップは首相が任命するのですから。
オーム真理教に所属した信者たちも、教祖を中心とした理想の宗教地域を作ろうとしていて、道がねじ曲がってしまった。むろん、人を殺した人たちを許せと言っているのではありません。
私たちの社会が、このような犯罪集団を生み出す下地となったのはなぜなのか、きちんと検証しないうちに、証言できる者たちを、大急ぎで「代替わりの前に処刑」すべきであったかについて、疑念を持っているのです。
1968-1970年に社会を揺るがした「赤軍派リンチ事件・あさま山荘事件」は、私の世代の者にとっては、忘れられない事件のひとつでした。
殺し、殺された者たちは、「社会をより良いものにしたい」と願いながら、思想考え方の齟齬により、ある者は殺され、ある者は殺人者として死刑囚となりました。
死刑囚のひとり永田洋子(ながた ひろこ1945- 2011)は、死刑が確定後、脳腫瘍症状を訴えたのに治療は許されないまま手遅れとなり、執行前に病死。
永田と一時期事実婚の間柄であった坂口弘は、2020年の現在も死刑囚として拘置所にいます。
1992年に書いた「坂口弘の歌をみて、我らの世代の共同幻想を思うこと」を、再々録します。
坂口の短歌を読んで思ったこと、28年たっても、変わっていないので。
2012年にも再録していますので、再々録です。
~~~~~~~~~~
1992年十月二十日火曜日(雨)
ニッポニアニッポン事情「坂口弘の歌をみて、我らの世代の共同幻想を思うこと」
坂口の歌を日曜日の短歌投稿欄にみるようになってどれくらいたつだろうか。受刑者が獄中で作歌を始め、死刑囚の心境を詠んだものなどにすぐれた作品が少なくないことを聞いてはきたが、坂口の歌はまさに「私だったかもしれない殺人者」の絶唱として響いてくる。
一昨日の日曜歌壇を一瞥。久しぶりに坂口弘の名をみる。このところ選に入っていない週が続いたので、病気なのか創作意欲が衰えたか、と心配していた。
坂口弘『リンチにて同志の逝きし場面なり気持新たに明日書くべし』佐々木幸綱選
歌の声調の高さからいけば、彼の他の歌のほうにもっと佳作があるかもしれない。しかし、とにかく彼の名をみるたびに、しんとした思いにひたってしまう。
「宇宙」が我らの世代にとって上昇イメージの開かれた明るい共同幻想であり、「科学の発達=社会の進歩発展」という図式が、この世紀末に至って破綻したのちも、なお、私にとって「宇宙」だけは明るい夢のまま存在し得た。
しかしもう一つの共同幻想であった「体制変革」は、東欧・ソ連の崩壊を見る以前に、われらの中ですでに、「あの幻想は、クラゲなす漂うヨミに流された水蛭子にすぎず、夢はとうに醒めてしまった。」というようなことで、了解済みになってしまったらしい。(潰された夢を今なお追うのも自由だが)
二十年前に「体制変革」の共同幻想を打ち砕き、幻想を悪夢として顕現化したものこそ連合赤軍の一連の事件であった。
道浦母都子『生かされて存(ながら)うことの悲しみに満ち満ちていむ永田洋子よ』
同 『私だったかもしれない永田洋子 鬱血のこころは夜半に遂に溢れぬ』
私の世代の人々の中で、この道浦の思いに共感しえぬ人もいよう。「永田洋子は私だったかもしれない」と心震えることのない人は、われらの幻想をヒルコに過ぎなかったと笑える人であろう。
私など、道浦のように真剣に体制変革を夢見たわけでもなく、深く運動に関わったわけでもなく、この時代の若者が「時代の中に生きる当然」としてデモや集会にでた程度の参加であった。
あまり考えもせず、悩みもせず不和雷同していたにすぎない。逮捕される心配もないベ平連のデモのシッポなどにくっついていく程度の時代への関わり方は、日々を運動にかけて生きている友人からは、「日和見」と非難されノンポリと蔑まれた毎日であった。それでもやはり、「私だったかもしれない永田洋子」という道浦の共感は、私の胸を打つ。
共同幻想を、赤軍派リンチ殺人事件の悪夢でしか顕在化できなかった、われらの世代。道浦のこの歌は、「世代の悲しみ」といったようなものになって私の胸に沈む。
閉ざされた集団の中にいるときの、しだいに不穏になっていく心理状態については、ケニアのゲストハウスにいたときに、ほんの片鱗だけにせよ味わった。
本当に、限られた人だけと限られた場所に追い詰められて起き伏しすると、人は異常を異常と思わないようになり、人格も変質していく。赤軍派のあの状況の中にもし私がいたら、私もまた、リンチ殺人者となるか、または殺され埋められていただろう。今、殺されもせず殺しもしなかった者として私がここに生きているのは、偶然にすぎないかもしれない。
あのころから二十年がすぎ、六十年代後半と七十年代の再検証が始まりつつある。歴史として見直せる時間がたったということだろう。
よど号で北朝鮮へ渡った者にも二十年、パレスチナへ行った者にも二十年、永田と坂口にも二十年、そして何もしなかった私にも二十年。
道浦母都子『ああわれらが<共同幻想>まぼろしのそのまた幻となりし悲しみ』
~~~~~~~~~~~~~
もんじゃ(文蛇)の足跡:2012/10/21のつけたし
坂口弘の短歌 抜粋(小見出しは勝手な編集による)
これら坂口の短歌をコピーしておいたのは、死刑囚は「すでに死んだ者」であるので、家族以外には外部とコミュニケーションをとることができず、彼の短歌も死刑確定前に出版したもののほかは、世の人の目にふれることができなくなったためです。
<リンチ>
榛名山の林のなかの片流れ造りの小屋にてリンチをなしき
リンチせし者ら自ら総括す檸檬の滓を搾るがごとく
思い余り総括の意味を問いしとぞ惨殺される前夜に彼は
この冬の寒くなれかし雪降らばリンチの記憶鮮やかにならむ
元旦のあの日は小屋に小雪降り総括の惨吹き荒みたり
総括をされて死ねるかえいままよと吾は罪なき友を刺したり
落葉見れば落葉踏み分け亡骸を運びし夜の榛名山を想う
なぜ吾の解明努力を君達は認めないのだ同志殺害の
少年は泣き叫ぶ「総括」などしたって誰も助からなかったじゃないか
わが胸にリンチに死にし友らいて雪折れの枝叫び居るなり
リンチ事件を解明せりと糠喜びせしこと過去に幾度ありけむ
凍傷に果てゆく間際「ぺつ、総括をせよだと」と友は吐き捨てて言ひぬ
<死刑判決>
九年前われの新生はじまりぬ死刑判決ありたるこの日
死刑ゆゑに澄める心になるといふそこまでせねば澄めぬか人は
犯したる罪深ければ昼の星映せる井戸のやうな眼となれ
二審にて述ぶるに備え独房にこもりし日日の菜種梅雨どき
走り梅雨来りて房に古びたる訴訟記録の臭いこもれり
被告なれど生ける吾が身はありがたし亡き同志らの言えざるを思えば
リンチにて同志の逝きし場面なり気持新たに明日書くべし
求むるは本質のみの死囚ゆゑ本の多くは底浅く見ゆ
事件には未開封なる事実なしただ解釈が難しきなり
物事はこころ直なれば善き方へ向ふと信ず死囚なれども
<独房にて>
清楚(せいそ)なるフリージアにして果つるいま強き香りを苦しげに吐く
朝日すつと壁に映りて伸びゆけり花開くよと房に見てをり
払ひのけ払ひのけつつ蜘蛛(くも)の巣の多き山下る夢に疲れぬ
クリスマス・イブに保釈で出でし日が岐路にてありき武闘に染みて
過ちを正すレーニンの教えをば全うするは身をも切ること
ひと冬を補充書作りに傾けて彼岸に入りぬ腕立て伏せをす
武闘には意義ありたりと君は言う二十年経て変わらざりけり
壁のほこりを落として房に春を呼びこれより書かむ山荘事件を
あかつきの獄のさ庭に小揺ぎし桜艶めく春のめぐり来
きそ読みし折々のうたの蘇生歌をけさ口ずさむ明日もさあらむ
そのむかし易者が吾をいぶかりておりたりと言いぬ面会の母が
獄蒲のべてふと寂しみぬ独り寝を十九年余重ねしを思いて
逆立ちをして今日のみの運動を楽しみており獄の連休
吾を外に出してゆくての花花を見せむと君は面会に来しや
新しき週のはじめに吾が房の便器洗えばこころ清しも
面会所裏のつつじを抜きしは誰ならむわりなきを悔やむ西行がごと
今われが切りたる爪を黒蟻が運びゆきたり獄のグラウンド
亡き夫もリンチに加担していますかと夫人が迫りぬ真夏の面会
獄に咲く石榴(ざくろ)の花見むと病いつわり医務室へゆかむか
人屋にて日のおおかたを座しおれば脚立て伏せの技編み出しぬ
憂きつゆも今年ばかりは長かれと願えり最後の補充書書きて
熱き湯に浸りて風呂を出でにけりつゆ寒くして舎房の暗く
反派兵デモの後尾に寄り沿わん小菅を去れるものならばすぐ
四十四の歳よさらばと人屋にて桶の張り水に顔を映し見る
検診後噛み締めており御大事にと獄医の掛けたる言葉を幾度も
覚悟せしにまたも延びたる命なり補充書提出期限延長さる
リ ズムよく鉄扉の向こうで箒掃く音優しくてペンを擱くなり
初雪の降りて納めの手紙を出し年始の明けまで獄門は閉ず
夢のなか母の手首をわが手もて握れば吾より太くありたり
牢に住み目を守れるは目を回す体操のおかげ筋みしみし鳴る
牢に来し君の手紙に謝するなり真剣に生きんとありぬ
獄の春手紙を書けば手袋を脱ぎしわが手のみずみずしさよ
原始なる海をゆったり泳ぎいし夢から覚めて充足があり
外廊下を歩みガラス戸の前に来て老けし中年のわれに驚く
振り向けば窓と格子のあわいにて猫が見ており行きて頬寄す
そこのみが時間の淀みあるごとし通路のはての格子戸のきわ
紙を滑る筆ペンの音の心地よさよ房にも秋はひそやかに来ぬ
始発電車の音する前の真夜中のわが魂遊べる獄の平安
とどまれる秋雨ぜんせん房暗く少年のころふと思い出ず
房より見る箱ほどの空にありたるに仲秋の月見過ごしにけり
身に近くおみなあるさま木犀の香り漂い獄も華やぐ
この手紙あす福岡に着くという不思議を思う獄よりの速達
歩きつつ盗み見すれば独房で物書く被告の姿よろしき
枯るる前茎断ち切りて看視を避けカーネーションを胸に押しおり
十数年ぶりに手にせし労働の果実稿料よ獄に昂ぶる
そを見ればこころ鎮まる夜の星を見られずなりぬ展房ありて
外に出れば女区の桜咲き満てり仕置場望み房に帰らん
歌詠めば豊けくなりて何ものも生まず壊しし武闘を思う
房ごもりつづく連休近づけば庵で蠅とる歌口ずさむ
この年も鈴蘭見せに面会に君来給いぬ夏立ちにけり
獄廊に手錠と足の音のせり裁判に行かずなりて久しも
二冊目の上申書を今日書き終えぬ歌は償いの一部と記して
あと十年生きるは無理と言う母をわれの余命と比べ見詰めつ
つゆ寒の獄舎の夕べラジオより君の名流るリクエスト曲
事件をば書く手休めてしばしおり呼吸の数に時をはかりて
死の記録書きつつおれば夏草を刈りたる臭い房に満ち来ぬ
にわとりの小屋と呼ばるる運動場に覗きて咲ける薊いとしも
向日葵の写真はしまい花をまた買わん人屋に涼風吹けば
獄蒲にて満ちて微睡むひと時よきょう良き本に吾は出会いぬ
<罪と罰>
われら武闘合目的にあらざりき沖縄返還の闘いにおいて
紅衛兵たりし人の本を読みおれば身につまさるる極左の惨
社会主義破れて淋しさびしかり資本主義に理想はありや
疎まるるも堅物に吾はなりにけり連合赤軍の品位たもつと
永久に輝くこと無き過去なれば仄かな影を著しくせん
ドア破り銃突出して押入れば美貌の婦人呆然と居き
山荘事件を書きいる紙に映りたる格子の影に陽炎立てり
雪晴れて格子の雫星のごと輝きくるる吾に一瞬
済まないと風呂に入るたび詫びるなり裸で埋めし亡き同志らに
ああやはり転びバテレンは年老いて告白せりと続編にある
山荘でニクソン訪中のテレビ観き時代に遅れ銃を撃ちたり
活動を始めし日より諫められ諫められつつ母を泣かせ来ぬ
長男が悲しき姿で夢に出しと遺族の方の便りにありき
運動場へ野菊の花を見に行かんリンチの筆記に心乾きて
エル・ニーニョ終りて寒くなるらしき未決最後の冬を迎える
革命の功罪閲する世紀末十月革命も危うく見えて
その前に武闘を精算しておれば奪還指名をわれは拒みき
判決は如何にありとも掘り下げし弁護書面に救わるる思い
世にはやる癒し閉塞なる言葉そんなものではなしとひとりごつ
過ちの分析の途次縊られて断たれむ不安をつね抱きをり
人の為ししことにて解けぬ謎なしと信じて事件の解明をする
高松塚古墳壁画の発見を聴かされてその日われ救はれぬ
挫折せし過激派われが信ずるに足るものは一つヒューマニズムのみ
~~~~~~~~~~
20200728
赤軍派事件&あさま山荘事件に関しては、死刑囚がまだ生存しています。
さまざまなドキュメンタリーや小説に描かれるなど、検証も深まってきたのではないかと感じます。
坂口弘は、死刑囚として独房で過ごしています。73歳。彼が独房で過ごしてきた50年。
彼が独房に収監されてから50年間の日本の変化を、彼はどのように見てきたのでしょうか。
坂口の短歌を繰り返し再録してきたのは、彼の短歌に読む価値があると思うからです。死刑囚は、家族以外との面会ができず、社会からは隔絶されます。彼の短歌を繰り返し読み返すのは、彼を忘れないためです。彼を忘れない人間がひとりでもいることを表明するためです。
<おわり>
ぽかぽか春庭ことばのYaちまた>全員死刑!(3)坂口弘の歌をみて、我らの世代の共同幻想を思うこと
犯罪に至る原因には、貧困や差別などのほか、「より良い社会をめざす」という目的を追いながら、社会から見ると理想から外れて犯罪にかかわっていく、という経緯がある、と述べました。
自分たちの思うような理想的な社会を作るためには、その邪魔となるものは排除しなければならない、という考え方は、ソビエト連邦成立の前後にも、中華人民共和国成立の前後にもありました。凄惨な殺し合いがあったことは、歴史的事実です。
旧日本帝国成立後にも、幸徳秋水(1871-1911 享年39歳)は、「天皇暗殺」をはかったとして1月18日に死刑判決。わずか6日後に執行。秋水は審理終盤に「一人の証人調べさえもしないで判決を下そうとする暗黒な公判を恥じよ」と陳述したそうです。
政府に批判的な言論を封じるために反対意見を持つものを抹殺していく方法は、現代でも行われています。
現代日本でも。沖縄返還の密約を報道した記者は、女性とのスキャンダルを利用され、言論界から抹殺されました。「50年たつと機密文書も公開する」というアメリカの公開制度により、密約報道が正しかったことが、証明されています。
財務省近畿財務局の上席国有財産管理官、赤木俊夫さんは、モリカケ問題の記録を改竄するよう命じられました。国有地売却に関与したとされる安倍晋三首相の妻昭恵さんの名を記録から消すよう命じられて抵抗し、自殺に至りました。(享年54歳)。妻赤木昌子さんは、夫の死の真実を明らかにしたいと、国を相手に裁判をおこしました。国は、昌子さんの申し立てを受理しないよう、裁判所に命じています。
どうぞ、証人喚問が行われて、裁判が公平に行われますように。沖縄密約問題と同じように、政界と官僚のトップがからむ犯罪は、最高裁で無実になる可能性は高いです。最高裁トップは首相が任命するのですから。
オーム真理教に所属した信者たちも、教祖を中心とした理想の宗教地域を作ろうとしていて、道がねじ曲がってしまった。むろん、人を殺した人たちを許せと言っているのではありません。
私たちの社会が、このような犯罪集団を生み出す下地となったのはなぜなのか、きちんと検証しないうちに、証言できる者たちを、大急ぎで「代替わりの前に処刑」すべきであったかについて、疑念を持っているのです。
1968-1970年に社会を揺るがした「赤軍派リンチ事件・あさま山荘事件」は、私の世代の者にとっては、忘れられない事件のひとつでした。
殺し、殺された者たちは、「社会をより良いものにしたい」と願いながら、思想考え方の齟齬により、ある者は殺され、ある者は殺人者として死刑囚となりました。
死刑囚のひとり永田洋子(ながた ひろこ1945- 2011)は、死刑が確定後、脳腫瘍症状を訴えたのに治療は許されないまま手遅れとなり、執行前に病死。
永田と一時期事実婚の間柄であった坂口弘は、2020年の現在も死刑囚として拘置所にいます。
1992年に書いた「坂口弘の歌をみて、我らの世代の共同幻想を思うこと」を、再々録します。
坂口の短歌を読んで思ったこと、28年たっても、変わっていないので。
2012年にも再録していますので、再々録です。
~~~~~~~~~~
1992年十月二十日火曜日(雨)
ニッポニアニッポン事情「坂口弘の歌をみて、我らの世代の共同幻想を思うこと」
坂口の歌を日曜日の短歌投稿欄にみるようになってどれくらいたつだろうか。受刑者が獄中で作歌を始め、死刑囚の心境を詠んだものなどにすぐれた作品が少なくないことを聞いてはきたが、坂口の歌はまさに「私だったかもしれない殺人者」の絶唱として響いてくる。
一昨日の日曜歌壇を一瞥。久しぶりに坂口弘の名をみる。このところ選に入っていない週が続いたので、病気なのか創作意欲が衰えたか、と心配していた。
坂口弘『リンチにて同志の逝きし場面なり気持新たに明日書くべし』佐々木幸綱選
歌の声調の高さからいけば、彼の他の歌のほうにもっと佳作があるかもしれない。しかし、とにかく彼の名をみるたびに、しんとした思いにひたってしまう。
「宇宙」が我らの世代にとって上昇イメージの開かれた明るい共同幻想であり、「科学の発達=社会の進歩発展」という図式が、この世紀末に至って破綻したのちも、なお、私にとって「宇宙」だけは明るい夢のまま存在し得た。
しかしもう一つの共同幻想であった「体制変革」は、東欧・ソ連の崩壊を見る以前に、われらの中ですでに、「あの幻想は、クラゲなす漂うヨミに流された水蛭子にすぎず、夢はとうに醒めてしまった。」というようなことで、了解済みになってしまったらしい。(潰された夢を今なお追うのも自由だが)
二十年前に「体制変革」の共同幻想を打ち砕き、幻想を悪夢として顕現化したものこそ連合赤軍の一連の事件であった。
道浦母都子『生かされて存(ながら)うことの悲しみに満ち満ちていむ永田洋子よ』
同 『私だったかもしれない永田洋子 鬱血のこころは夜半に遂に溢れぬ』
私の世代の人々の中で、この道浦の思いに共感しえぬ人もいよう。「永田洋子は私だったかもしれない」と心震えることのない人は、われらの幻想をヒルコに過ぎなかったと笑える人であろう。
私など、道浦のように真剣に体制変革を夢見たわけでもなく、深く運動に関わったわけでもなく、この時代の若者が「時代の中に生きる当然」としてデモや集会にでた程度の参加であった。
あまり考えもせず、悩みもせず不和雷同していたにすぎない。逮捕される心配もないベ平連のデモのシッポなどにくっついていく程度の時代への関わり方は、日々を運動にかけて生きている友人からは、「日和見」と非難されノンポリと蔑まれた毎日であった。それでもやはり、「私だったかもしれない永田洋子」という道浦の共感は、私の胸を打つ。
共同幻想を、赤軍派リンチ殺人事件の悪夢でしか顕在化できなかった、われらの世代。道浦のこの歌は、「世代の悲しみ」といったようなものになって私の胸に沈む。
閉ざされた集団の中にいるときの、しだいに不穏になっていく心理状態については、ケニアのゲストハウスにいたときに、ほんの片鱗だけにせよ味わった。
本当に、限られた人だけと限られた場所に追い詰められて起き伏しすると、人は異常を異常と思わないようになり、人格も変質していく。赤軍派のあの状況の中にもし私がいたら、私もまた、リンチ殺人者となるか、または殺され埋められていただろう。今、殺されもせず殺しもしなかった者として私がここに生きているのは、偶然にすぎないかもしれない。
あのころから二十年がすぎ、六十年代後半と七十年代の再検証が始まりつつある。歴史として見直せる時間がたったということだろう。
よど号で北朝鮮へ渡った者にも二十年、パレスチナへ行った者にも二十年、永田と坂口にも二十年、そして何もしなかった私にも二十年。
道浦母都子『ああわれらが<共同幻想>まぼろしのそのまた幻となりし悲しみ』
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もんじゃ(文蛇)の足跡:2012/10/21のつけたし
坂口弘の短歌 抜粋(小見出しは勝手な編集による)
これら坂口の短歌をコピーしておいたのは、死刑囚は「すでに死んだ者」であるので、家族以外には外部とコミュニケーションをとることができず、彼の短歌も死刑確定前に出版したもののほかは、世の人の目にふれることができなくなったためです。
<リンチ>
榛名山の林のなかの片流れ造りの小屋にてリンチをなしき
リンチせし者ら自ら総括す檸檬の滓を搾るがごとく
思い余り総括の意味を問いしとぞ惨殺される前夜に彼は
この冬の寒くなれかし雪降らばリンチの記憶鮮やかにならむ
元旦のあの日は小屋に小雪降り総括の惨吹き荒みたり
総括をされて死ねるかえいままよと吾は罪なき友を刺したり
落葉見れば落葉踏み分け亡骸を運びし夜の榛名山を想う
なぜ吾の解明努力を君達は認めないのだ同志殺害の
少年は泣き叫ぶ「総括」などしたって誰も助からなかったじゃないか
わが胸にリンチに死にし友らいて雪折れの枝叫び居るなり
リンチ事件を解明せりと糠喜びせしこと過去に幾度ありけむ
凍傷に果てゆく間際「ぺつ、総括をせよだと」と友は吐き捨てて言ひぬ
<死刑判決>
九年前われの新生はじまりぬ死刑判決ありたるこの日
死刑ゆゑに澄める心になるといふそこまでせねば澄めぬか人は
犯したる罪深ければ昼の星映せる井戸のやうな眼となれ
二審にて述ぶるに備え独房にこもりし日日の菜種梅雨どき
走り梅雨来りて房に古びたる訴訟記録の臭いこもれり
被告なれど生ける吾が身はありがたし亡き同志らの言えざるを思えば
リンチにて同志の逝きし場面なり気持新たに明日書くべし
求むるは本質のみの死囚ゆゑ本の多くは底浅く見ゆ
事件には未開封なる事実なしただ解釈が難しきなり
物事はこころ直なれば善き方へ向ふと信ず死囚なれども
<独房にて>
清楚(せいそ)なるフリージアにして果つるいま強き香りを苦しげに吐く
朝日すつと壁に映りて伸びゆけり花開くよと房に見てをり
払ひのけ払ひのけつつ蜘蛛(くも)の巣の多き山下る夢に疲れぬ
クリスマス・イブに保釈で出でし日が岐路にてありき武闘に染みて
過ちを正すレーニンの教えをば全うするは身をも切ること
ひと冬を補充書作りに傾けて彼岸に入りぬ腕立て伏せをす
武闘には意義ありたりと君は言う二十年経て変わらざりけり
壁のほこりを落として房に春を呼びこれより書かむ山荘事件を
あかつきの獄のさ庭に小揺ぎし桜艶めく春のめぐり来
きそ読みし折々のうたの蘇生歌をけさ口ずさむ明日もさあらむ
そのむかし易者が吾をいぶかりておりたりと言いぬ面会の母が
獄蒲のべてふと寂しみぬ独り寝を十九年余重ねしを思いて
逆立ちをして今日のみの運動を楽しみており獄の連休
吾を外に出してゆくての花花を見せむと君は面会に来しや
新しき週のはじめに吾が房の便器洗えばこころ清しも
面会所裏のつつじを抜きしは誰ならむわりなきを悔やむ西行がごと
今われが切りたる爪を黒蟻が運びゆきたり獄のグラウンド
亡き夫もリンチに加担していますかと夫人が迫りぬ真夏の面会
獄に咲く石榴(ざくろ)の花見むと病いつわり医務室へゆかむか
人屋にて日のおおかたを座しおれば脚立て伏せの技編み出しぬ
憂きつゆも今年ばかりは長かれと願えり最後の補充書書きて
熱き湯に浸りて風呂を出でにけりつゆ寒くして舎房の暗く
反派兵デモの後尾に寄り沿わん小菅を去れるものならばすぐ
四十四の歳よさらばと人屋にて桶の張り水に顔を映し見る
検診後噛み締めており御大事にと獄医の掛けたる言葉を幾度も
覚悟せしにまたも延びたる命なり補充書提出期限延長さる
リ ズムよく鉄扉の向こうで箒掃く音優しくてペンを擱くなり
初雪の降りて納めの手紙を出し年始の明けまで獄門は閉ず
夢のなか母の手首をわが手もて握れば吾より太くありたり
牢に住み目を守れるは目を回す体操のおかげ筋みしみし鳴る
牢に来し君の手紙に謝するなり真剣に生きんとありぬ
獄の春手紙を書けば手袋を脱ぎしわが手のみずみずしさよ
原始なる海をゆったり泳ぎいし夢から覚めて充足があり
外廊下を歩みガラス戸の前に来て老けし中年のわれに驚く
振り向けば窓と格子のあわいにて猫が見ており行きて頬寄す
そこのみが時間の淀みあるごとし通路のはての格子戸のきわ
紙を滑る筆ペンの音の心地よさよ房にも秋はひそやかに来ぬ
始発電車の音する前の真夜中のわが魂遊べる獄の平安
とどまれる秋雨ぜんせん房暗く少年のころふと思い出ず
房より見る箱ほどの空にありたるに仲秋の月見過ごしにけり
身に近くおみなあるさま木犀の香り漂い獄も華やぐ
この手紙あす福岡に着くという不思議を思う獄よりの速達
歩きつつ盗み見すれば独房で物書く被告の姿よろしき
枯るる前茎断ち切りて看視を避けカーネーションを胸に押しおり
十数年ぶりに手にせし労働の果実稿料よ獄に昂ぶる
そを見ればこころ鎮まる夜の星を見られずなりぬ展房ありて
外に出れば女区の桜咲き満てり仕置場望み房に帰らん
歌詠めば豊けくなりて何ものも生まず壊しし武闘を思う
房ごもりつづく連休近づけば庵で蠅とる歌口ずさむ
この年も鈴蘭見せに面会に君来給いぬ夏立ちにけり
獄廊に手錠と足の音のせり裁判に行かずなりて久しも
二冊目の上申書を今日書き終えぬ歌は償いの一部と記して
あと十年生きるは無理と言う母をわれの余命と比べ見詰めつ
つゆ寒の獄舎の夕べラジオより君の名流るリクエスト曲
事件をば書く手休めてしばしおり呼吸の数に時をはかりて
死の記録書きつつおれば夏草を刈りたる臭い房に満ち来ぬ
にわとりの小屋と呼ばるる運動場に覗きて咲ける薊いとしも
向日葵の写真はしまい花をまた買わん人屋に涼風吹けば
獄蒲にて満ちて微睡むひと時よきょう良き本に吾は出会いぬ
<罪と罰>
われら武闘合目的にあらざりき沖縄返還の闘いにおいて
紅衛兵たりし人の本を読みおれば身につまさるる極左の惨
社会主義破れて淋しさびしかり資本主義に理想はありや
疎まるるも堅物に吾はなりにけり連合赤軍の品位たもつと
永久に輝くこと無き過去なれば仄かな影を著しくせん
ドア破り銃突出して押入れば美貌の婦人呆然と居き
山荘事件を書きいる紙に映りたる格子の影に陽炎立てり
雪晴れて格子の雫星のごと輝きくるる吾に一瞬
済まないと風呂に入るたび詫びるなり裸で埋めし亡き同志らに
ああやはり転びバテレンは年老いて告白せりと続編にある
山荘でニクソン訪中のテレビ観き時代に遅れ銃を撃ちたり
活動を始めし日より諫められ諫められつつ母を泣かせ来ぬ
長男が悲しき姿で夢に出しと遺族の方の便りにありき
運動場へ野菊の花を見に行かんリンチの筆記に心乾きて
エル・ニーニョ終りて寒くなるらしき未決最後の冬を迎える
革命の功罪閲する世紀末十月革命も危うく見えて
その前に武闘を精算しておれば奪還指名をわれは拒みき
判決は如何にありとも掘り下げし弁護書面に救わるる思い
世にはやる癒し閉塞なる言葉そんなものではなしとひとりごつ
過ちの分析の途次縊られて断たれむ不安をつね抱きをり
人の為ししことにて解けぬ謎なしと信じて事件の解明をする
高松塚古墳壁画の発見を聴かされてその日われ救はれぬ
挫折せし過激派われが信ずるに足るものは一つヒューマニズムのみ
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20200728
赤軍派事件&あさま山荘事件に関しては、死刑囚がまだ生存しています。
さまざまなドキュメンタリーや小説に描かれるなど、検証も深まってきたのではないかと感じます。
坂口弘は、死刑囚として独房で過ごしています。73歳。彼が独房で過ごしてきた50年。
彼が独房に収監されてから50年間の日本の変化を、彼はどのように見てきたのでしょうか。
坂口の短歌を繰り返し再録してきたのは、彼の短歌に読む価値があると思うからです。死刑囚は、家族以外との面会ができず、社会からは隔絶されます。彼の短歌を繰り返し読み返すのは、彼を忘れないためです。彼を忘れない人間がひとりでもいることを表明するためです。
<おわり>