20200809
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2020二十重日記ピース(1)黒い雨訴訟勝訴
原爆投下後「黒い雨」を浴びて原爆症に苦しんできた人々について、当初に「原爆被害者」として設定したに地域よりはるかに広範囲に原爆症被害が広がっていたことを、長年の裁判を経てようやく「申し出のあった地域で放射線を含む雨を浴びた人々を原爆症被害者として認定する」という判決が下されました。判決に喜ぶ人々、みなお年寄りです。被爆者として認定されても、もう亡くなっている方々も多かったのではないかと思います。もっと早く原爆の後遺症に悩む人々に手を差し伸べられなかったのかと思いますが、なにはともあれ、画期的な判決が出たこと、よかったです。
原爆投下直後に降った「黒い雨」を浴びたのに、援護区域外だったため、被爆者健康手帳の交付申請を却下されたとして、広島市などの男女84人が処分の取り消しを求めた訴訟で、が7月29日、広島地裁は、原告全員を被爆者と認める判決を言い渡しました。
被害者は、1945年8月6日・8月9日から75年という長い歳月を、被害者として認められないまま原爆症に苦しみ、仕事にも結婚にも差別を受けて人生を過ごしてきたのです。多くの被害者は認定されないまま亡くなってしまいました。
「黒い雨」とは、原爆投下後に広範囲に降り注いだ雨の色が真っ黒に見えたことから名づけられました。原爆の放射能を含む塵が舞い上がり、雨に含まれたためその色が黒くなったのです。
井伏鱒二の小説『黒い雨』、それを原作とした映画などによって、「黒い雨」という言葉は原爆被害の象徴となりました。
8月9日、長崎への原爆投下の日から、75年たちます。
8月6日の広島、8月9日の長崎、この日を忘れないために、後世に伝えていくために、小説の一部をコピーします。井伏鱒二が1993年に亡くなってからまだ著作権は残されていますが、もし、一部分のコピーも許されないのであれば、削除いたします。
『黒い雨』
八月六日の午前八時十五分、事実において、天は裂け、地は燃え、人は死んだ」「広島はもう無くなったのだ。それにしても広島という町が、こんな惨状で末路をつげるだろうとは思いもよらなかった。
矢須子さんのあの日記、あそこのところ、省略した方が宜しいのじゃないでしょうか。あの頃なら、黒い雨のことを人に話しても、毒素があることは誰も知らんので、誤解されなんだでしょう。でも、今じゃ毒素があったこと、誰でも知っています。あそこのところを清書して出すと、先方で誤解するんじゃないでしょうか。
「黒い雨に打たれた」ということを人に話すと、誤解差別が生まれる、ということを懸念している部分です。被爆者であることが「差別」につながったこと、井伏は見ています。結婚や就職で差別を受けることを恐れて、被爆者であることを隠し続けた人も多かったようです。
今回の黒い雨訴訟、高齢の被爆者が、今後十分な医療と生活を保っていけるよう願っています。
「コロナ」罹患者や医療を仕事としている人々への差別を聞くにつれ、被爆者が身を潜めていた日々のつらさが思われます。
だれの身にも、いつふりかかるかもしれない厄災。厄災から逃れることだけを考えるのではなく、不運にも、身に黒い雨を、ハンセン氏病を、コロナ肺炎を負ってしまった人がいたとして、その人々に寄り添えるだけの強さを持っていけるように、というのが8月9日の感慨です。
<つづく>
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2020二十重日記ピース(1)黒い雨訴訟勝訴
原爆投下後「黒い雨」を浴びて原爆症に苦しんできた人々について、当初に「原爆被害者」として設定したに地域よりはるかに広範囲に原爆症被害が広がっていたことを、長年の裁判を経てようやく「申し出のあった地域で放射線を含む雨を浴びた人々を原爆症被害者として認定する」という判決が下されました。判決に喜ぶ人々、みなお年寄りです。被爆者として認定されても、もう亡くなっている方々も多かったのではないかと思います。もっと早く原爆の後遺症に悩む人々に手を差し伸べられなかったのかと思いますが、なにはともあれ、画期的な判決が出たこと、よかったです。
原爆投下直後に降った「黒い雨」を浴びたのに、援護区域外だったため、被爆者健康手帳の交付申請を却下されたとして、広島市などの男女84人が処分の取り消しを求めた訴訟で、が7月29日、広島地裁は、原告全員を被爆者と認める判決を言い渡しました。
被害者は、1945年8月6日・8月9日から75年という長い歳月を、被害者として認められないまま原爆症に苦しみ、仕事にも結婚にも差別を受けて人生を過ごしてきたのです。多くの被害者は認定されないまま亡くなってしまいました。
「黒い雨」とは、原爆投下後に広範囲に降り注いだ雨の色が真っ黒に見えたことから名づけられました。原爆の放射能を含む塵が舞い上がり、雨に含まれたためその色が黒くなったのです。
井伏鱒二の小説『黒い雨』、それを原作とした映画などによって、「黒い雨」という言葉は原爆被害の象徴となりました。
8月9日、長崎への原爆投下の日から、75年たちます。
8月6日の広島、8月9日の長崎、この日を忘れないために、後世に伝えていくために、小説の一部をコピーします。井伏鱒二が1993年に亡くなってからまだ著作権は残されていますが、もし、一部分のコピーも許されないのであれば、削除いたします。
『黒い雨』
八月六日の午前八時十五分、事実において、天は裂け、地は燃え、人は死んだ」「広島はもう無くなったのだ。それにしても広島という町が、こんな惨状で末路をつげるだろうとは思いもよらなかった。
矢須子さんのあの日記、あそこのところ、省略した方が宜しいのじゃないでしょうか。あの頃なら、黒い雨のことを人に話しても、毒素があることは誰も知らんので、誤解されなんだでしょう。でも、今じゃ毒素があったこと、誰でも知っています。あそこのところを清書して出すと、先方で誤解するんじゃないでしょうか。
「黒い雨に打たれた」ということを人に話すと、誤解差別が生まれる、ということを懸念している部分です。被爆者であることが「差別」につながったこと、井伏は見ています。結婚や就職で差別を受けることを恐れて、被爆者であることを隠し続けた人も多かったようです。
今回の黒い雨訴訟、高齢の被爆者が、今後十分な医療と生活を保っていけるよう願っています。
「コロナ」罹患者や医療を仕事としている人々への差別を聞くにつれ、被爆者が身を潜めていた日々のつらさが思われます。
だれの身にも、いつふりかかるかもしれない厄災。厄災から逃れることだけを考えるのではなく、不運にも、身に黒い雨を、ハンセン氏病を、コロナ肺炎を負ってしまった人がいたとして、その人々に寄り添えるだけの強さを持っていけるように、というのが8月9日の感慨です。
<つづく>