20210213
ぽかぽか春庭アート散歩>2021アート散歩(3)美を結ぶ美をひらくその2エミール・ガレ in サントリー美術館
新年最初の美術館めぐり、娘が見たがったのは、エミールガレのガラス器。
古代から、色ガラス、クリスタル、切り子、さまざまな美しいガラス製品が作られてきましたが、エミールガレやルネラリックなど、モダンガラスの制作者たちの作品はその洗練されたデザインと色によって現代でも人気が高い。
エミール・ガレ(1846–1904)は高級食器ファイアンス焼きと家具の工場の息子として生まれ、ドイツでガラス工芸技術を習得しました。1878年、パリ万国博覧会にガラス製品を出品し好評を得ました。ガラス工房のほか家具工場も経営し、58歳で亡くなるまでデザイナーとして、また企業家として活躍しました。
しかし、白血病により59歳で死去。死後30年近くは遺族のもとでガラス器製造などが続けられましたが、1931年にエミールガレ工房は閉鎖しました。現在ガレ作品と伝わっているものの中には、エミールの手になるものと、ガレ工房の作品とがある。
サントリー美術館のエミールガレコレクション。名品が並んでいました。
エミール・ガレコレクションのコーナー

ガレデザインの家具

ガレの飾り棚下部の模様

ガレのガラス器
花器「木立」1900頃


花器「アイリス」 花器「おだまき」


花器「木立」 花器「かわせみ」


花器

花器

植え込み鉢「水景」

「ひとよたけランプ」
ひとよたけランプと私

エミール・ガレは、ガラス器や家具のデザイナーとしても、工場経営の企業家としても成功を収めました。たいていはデザインの才能がある芸術家気質の人は企業を経営する才能に恵まれないものですが、ガレはその両方の才に恵まれ、工房がガレ亡き後も製作できるよう経営も安定させてきました。
初期の時代のガレは、まだ自分の様式を確立しておらず、伝統的なロココ様式やゴシック様式、オリエント様式などを混交したデザインの花器などを制作していました。
エミールガレが独自の作風を確立したのは、浮世絵などの日本美術に出会ったことによります。積極的に日本美術の意匠や要素を取り入れ、独自の表現を作り上げました。
1878年のパリ万博に出品した『鯉魚文花瓶』は、北斎漫画の『魚濫観世音』の鯉の図をそのまま引用し、梅や桜の文様を散らしたデザインでした。
北斎『魚濫観世音』

エミール・ガレ『鯉魚文花瓶』

あまりにもそっくりそのまんまの鯉の形。現在ならデザイン盗用で著作権にひっかかるところでしょうが、100年前のことだし、フランスのデザイナーが日本の絵の図案をそのまんま利用したことが公になっていたとしても、パリ万博での好評はかわらず、ジャポニズムデザインは人気沸騰となったことでしょう。エミール・ガレの北斎漫画利用からゴッホの浮世絵模写もマネの和服を着た女性像も生まれてきました。
「美を結ぶ美をひらく」の展示は、日本と西欧東洋の美が交流しあい、新たな美を生みだすことを美術史シロートにもわからせてくれ、よい展示だったと思います。
次回は、琉球中国日本の交流によって生み出された紅型について。
<つづく>
ぽかぽか春庭アート散歩>2021アート散歩(3)美を結ぶ美をひらくその2エミール・ガレ in サントリー美術館
新年最初の美術館めぐり、娘が見たがったのは、エミールガレのガラス器。
古代から、色ガラス、クリスタル、切り子、さまざまな美しいガラス製品が作られてきましたが、エミールガレやルネラリックなど、モダンガラスの制作者たちの作品はその洗練されたデザインと色によって現代でも人気が高い。
エミール・ガレ(1846–1904)は高級食器ファイアンス焼きと家具の工場の息子として生まれ、ドイツでガラス工芸技術を習得しました。1878年、パリ万国博覧会にガラス製品を出品し好評を得ました。ガラス工房のほか家具工場も経営し、58歳で亡くなるまでデザイナーとして、また企業家として活躍しました。
しかし、白血病により59歳で死去。死後30年近くは遺族のもとでガラス器製造などが続けられましたが、1931年にエミールガレ工房は閉鎖しました。現在ガレ作品と伝わっているものの中には、エミールの手になるものと、ガレ工房の作品とがある。
サントリー美術館のエミールガレコレクション。名品が並んでいました。
エミール・ガレコレクションのコーナー

ガレデザインの家具

ガレの飾り棚下部の模様

ガレのガラス器
花器「木立」1900頃


花器「アイリス」 花器「おだまき」


花器「木立」 花器「かわせみ」


花器

花器

植え込み鉢「水景」

「ひとよたけランプ」

ひとよたけランプと私

エミール・ガレは、ガラス器や家具のデザイナーとしても、工場経営の企業家としても成功を収めました。たいていはデザインの才能がある芸術家気質の人は企業を経営する才能に恵まれないものですが、ガレはその両方の才に恵まれ、工房がガレ亡き後も製作できるよう経営も安定させてきました。
初期の時代のガレは、まだ自分の様式を確立しておらず、伝統的なロココ様式やゴシック様式、オリエント様式などを混交したデザインの花器などを制作していました。
エミールガレが独自の作風を確立したのは、浮世絵などの日本美術に出会ったことによります。積極的に日本美術の意匠や要素を取り入れ、独自の表現を作り上げました。
1878年のパリ万博に出品した『鯉魚文花瓶』は、北斎漫画の『魚濫観世音』の鯉の図をそのまま引用し、梅や桜の文様を散らしたデザインでした。
北斎『魚濫観世音』

エミール・ガレ『鯉魚文花瓶』

あまりにもそっくりそのまんまの鯉の形。現在ならデザイン盗用で著作権にひっかかるところでしょうが、100年前のことだし、フランスのデザイナーが日本の絵の図案をそのまんま利用したことが公になっていたとしても、パリ万博での好評はかわらず、ジャポニズムデザインは人気沸騰となったことでしょう。エミール・ガレの北斎漫画利用からゴッホの浮世絵模写もマネの和服を着た女性像も生まれてきました。
「美を結ぶ美をひらく」の展示は、日本と西欧東洋の美が交流しあい、新たな美を生みだすことを美術史シロートにもわからせてくれ、よい展示だったと思います。
次回は、琉球中国日本の交流によって生み出された紅型について。
<つづく>