宮本三郎「描かれた女たちチラシ」
20210218
ぽかぽか春庭アート散歩>2021アート散歩(5)描かれた女たち in 宮本三郎記念館
世田谷美術館の「沿線物語」という展示の説明にもあったように、世田谷区には多くの画家美術家たちがアトリエ兼住まいを建て制作活動を行っていました。
画家が亡くなったあと遺族によって、アトリエと土地、作品などがまとめて区に寄贈され、世田谷区はアトリエをそのまま展示室にしたり新たに展示館を設立しました。向井潤吉、宮本三郎、清川泰次の記念館が世田谷美術館分館として公開されています。
各地の茅葺き屋根の風景を残した向井潤吉の記念館は何度か訪れて、季節ごとに展示替えされる茅葺き家屋のある風景画をみてきました。
2月6日、初めて宮本三郎記念館に行ってきました。自由が丘に買い物に出たついででしたが、開催中の企画展、「描かれた女性たち」を観覧しました。
アトリエ兼住まいがあった土地に世田谷区が記念館を建てたということで、展示スペースは2階の2室のみ。展示数もそう多くはなく30分ほど絵を眺めて、買い物にいきました。
宮本三郎記念館の口上
画家・宮本三郎(1905-1974)は生涯にわたって、数多くの女性像を描きました。モデルとなった女性たちに目を向ければ、その実像は時代によってさまざまです。絵画上の身体表現の追求のため、要求に応えポーズをとったのは、アトリエに呼ばれたプロのモデルたちでした。戦中の疎開時期など、そうしたモデルの手配が困難な時期には、妻や娘など家族が題材となり、家庭内の場面が描かれています。やがて戦後日本の復興期には、歌手や女優、バレリーナといった、華やかな表舞台で活躍する表現者たちが多く描かれました。また、浅草の踊り子など、エネルギッシュな都市文化の担い手たちを、舞台裏まで取材し描くこともありました。
作品にあらわされた女性たちは、それぞれ異なる社会的立場を持っています。宮本の絵筆は、そうした「役割」をまっとうする彼女たちの姿を描きながら、次第に、その奥底から輝き発せられるエネルギーをも表す方向性へとむかっていきました。理想化された美の体現ではなく、自らに内在する生の力を画面の外へも表出させるような、逞しさを感じさせる女性たち一画家・宮本を制作へと駆りたてたのは、そうした女性のなかにある強さだったのかもしれません。
展示室1
宮本三郎は、1938年に渡欧し洋画の研鑽に励みましたが、第2次世界大戦の激化により帰国。軍の嘱託となり小磯良平藤田嗣治らと戦争画を描きました。1943年 「山下、パーシバル両司令官会見図」で帝国美術院賞受賞。「海軍落下傘部隊メナド奇襲」で朝日賞受賞など、戦争画でも高い評価を受けました。
戦後の美術界は、戦争協力の罪を藤田嗣治一人に負わせました。藤田は日本に見切りをつけ、夫人とともにフランスに脱出。レオナルド・フジタとして生き直しました。
藤田ひとりが画壇を追われることで、他の戦争画を描いた画家同様、宮本が非難されることはありませんでした。私は、この「藤田をスケープゴートとする」戦後画壇のあり方に釈然としないものも感じるのですが。
戦後を生き抜いた多くの人が、国民を戦争へと駆り立てたことなどなかったように戦時中の言動を封印したのです。一度は戦犯となった岸信介が首相として返り咲いたくらいですから、日本社会というところはそういう社会なのでしょう
自分の言説をくるりと反転させて「戦後を生き抜く」のは、第2次世界大戦だけのことじゃない。
60年代末から70年代に医療労働者教育労働者として働いていた私をさして「日和見主義者」だの「ブルジョア主義から抜け出せない奴」だのと非難を浴びせた学生運動の先端で旗振っていた人々が、大学卒業したあとは、一転忠実な会社人間モーレツサラリーマンとなり、今ではけっこうな年金をもらってゆうゆう暮らしています。一方、私はパート講師を続け、国民年金しかもらえない。資本社会の正社員として給与ボーナスをもらえる人間とはならなかった私は、71歳の今も必死で働いている。国民年金というのは、孫のおこずかいに渡してやる分くらいしかもらえない仕組みですからね。孫を持てないのは、年金少ないせいかも。
宮本三郎は、戦後は金沢美術工芸専門学校、多摩美術大学などで教鞭を執る傍ら、婦人公論の表紙として女優や歌手の肖像画を描き、日本美術家協会会長になるなど、画家人生として家庭も画業も順風な69年の生涯でした。私、どうしてもナントカ会長という肩書きを身につけた人に点が辛い。
女を入れると会議が長くなる、と女性蔑視を発言したショーモない老害の会長が、トップとして君臨してきた社会ですから、私ごときが何を言っても世の中動かないのかもしれませんが、それでも言いたい。なめんなよ。(言うことがいちいち古いが、古稀すぎた人間ですから、古いのもお許しあれ)
女性蔑視発言して世界中からの非難を浴びても、会長の座に居座る気満々だった人を「これまでの功績に免じて」と守ろうとした与党です。ようやくやめることになったのは祝着でしたが、老害の仕事納めらしく、密室で自分と同じタイプ同じ年代の老害2を後釜にごり押ししようとした姿は、まさに「晩節を汚す」
宮本三郎記念館、65歳以上は100円。私の収入でも入場できたし、さまざまな女性の姿の絵を楽しむことができました。
宮本の作品の女性像は、踊り子や女優ほかさまざまな女性が描かれていました。
展示室2
戦時中「非常時」としてモデルを雇うこともままならない時代、家族をモデルにした絵も多く描かれました。
展示作品中、娘が最も気に入ったのは、妻の文枝をモデルとして描いた看護婦像。踊り子や舞妓を描くと眉をひそめられた時代でしたが、看護婦ならOK。娘はモデルが夫人と知って「奥さんは看護婦さんだったんだね」と言っていましたが、私はモデルを雇えない頃のコスプレだと思います。文枝夫人が看護婦をしたことがあったのかどうか、記録を調べればわかることでしょうが、実際の看護婦だったとしたら、絵のモデルを務める余裕はなかったでしょうから。
《看護婦立像》1941年
戦後、宮本は金沢疎開から東京に戻り再出発。戦争勃発で中途半端に終わった洋行も、再度渡欧を果たしました。
婦人公論や週刊朝日の表紙絵を描くことで収入も安定し、専門学校や大学で教え、後進指導に当たりました。
演奏者 1956
私はモデルを特定できませんでしたが、このバイオリニストは巌本真理だそうです。
《薪を運ぶ人》1957年
《女優》1961年
私が見てモデルがはっきりわかった絵は、「鰐淵晴子像」と「雪村いづみ像」です。私が子どものころの人気女優、人気歌手でした。展示にはただ「歌い手」というタイトルしかついておらず、私は「雪村いづみだと思うけど」と娘に言いました。娘が手に取った図録のデッサンのほうに「雪村いづみ」と出ていました。
《歌い手》1964年
「若き妊婦」1964
雪村いづみがわかって嬉しかったから、この展示の絵ともう一枚雪村いづみモデルの絵ハガキを購入。花の絵のセットも、いずれ青い鳥さんに送ります。
宮本三郎記念館の紹介ンフレット
宮本三郎記念館の入り口
今回は宮本作品のうち、女性像の特集企画でしたが、風景のときも花の特集も見に行きたいと思いつつ、自由が丘の駅に向かいました。
<つづく>