20210703
ぽかぽか春庭アート散歩>2021建物散歩春(2)旧本多邸
近代建築巡りを趣味のひとつとして、せっせと建物を見に歩いています。
今回は愛知県の春旅で、岡崎市の本多忠次邸を見てきました。
昭和の華族邸宅、スパニッシュ様式のお屋敷は新宿の旧小笠原邸と似ています。旧小笠原邸は、レストランとして存続する前は、ボロボロの状態でしたから、タイルなどの材料は復元ものが多いのは仕方がありません。こちらの旧本多邸は、実際に本多家が住み続けた建物を解体し、そっくり東京から岡崎市に移築。70%は元の材料をそのままにして復原したのだそうです。古い建物の移築復原の方法のひとつの見本になるのではないかと思います。
2020年11月29日(日)からと、再放送2021年1月17日(日)にこの旧本多忠次邸が「百年名家」という番組で紹介されたのだそうですが、残念ながら見逃しました。

旧本多忠次邸は、現在は岡崎市が管理運営しています。岡崎市の口上。
旧本多忠次邸は、旧岡崎藩主本多家(本多忠勝系)の末裔にあたる本多忠次が、昭和7年(1932年)東京・世田谷に建てた住宅と壁泉の一部を移築し復原したものです。
岡崎市では、建築・意匠・技術・室内装飾にいたって学術的な価値がある旧本多忠次邸を保存し、その活用を通じて、文化財の保護についての関心や理解を深めていただくことを目的に公開展示しています。
館内では当時の家具、ステンドグラス等の調度品が常設展示されています。また年数回の企画展示や歴史文化講座、サポーターの会による案内やおもてなし企画の開催のほか、一部の部屋は展示室としてご利用いただくことができます。
旧本多忠次邸は、1932(昭和7)年、忠次が36歳のときに自ら基本設計を手がけ、現在の世田谷区野沢の所有地(約2200坪)内に、和洋折衷の住まいとして建設されました。
本多忠次(1896-1999)は、最後の岡崎藩主本多忠直の孫(子爵本多忠敬次男)で、1999(平成11)年に103歳という長命でなくなりました。
ご当主忠次の存命中は言い出すことができなかった世田谷のお屋敷を取り壊す、という課題が遺族に残されました。
旧本多邸 車寄せ

岡崎市の旧本多邸説明。
建物は、昭和初期の邸宅建築に好んで用いられたスパニッシュ様式を基調に、一部チューダー様式を加味した木造2階建ての洋風建築です。屋根に赤褐色のフランス瓦を葺き、1階の西側には車寄せをつけた玄関、南側中央には三連アーチのアーケードテラス、続く東側には2階まで続く半円形のボウ・ウィンドウを配置しています。外壁は色モルタル仕上げで、アーチや窓の枠にはスクラッチタイルが貼ってあります。
また前庭には、日本のスパニッシュ建築様式には欠かせないといわれる壁泉があり、吐水口であるシャチのレリーフが建物の妻飾りにある獅子と向かい合うように造られています。
内部は日本間と洋間を共存させた和洋折衷式となっており、接客空間と生活空間をうまく区別させた間取りは、家族の団らんやプライバシーを重視し始めた現代住宅へと変化する時代の先駆けといえます。各部屋の照明器具や家具は施主による趣向が凝らされ、当時流行したステンドグラス、モザイクタイルとともに邸内を彩っています。館内のあちこちにはラジエターが設置され、廊下には個人の邸宅には珍しい消火栓も見ることができます。
玄関内側 スペイン風に内側の壁についているライオンの口から水が出てくるアルコーブのある玄関。水は出るようになってなかったけれど。


玄関床のタイル

邸宅の案内図

玄関脇の使者の間

階段

団欒室

食堂

婦人室につづく半円形の日光浴室

日光浴室の床

2階和室

和室欄間

邸内のステンドグラスもすてきでした。
階段踊り場



浴室と浴室のステンドグラス


2階ベランダ

2階の照明具

2階から池(壁泉)を見る

池の真ん中についている海獣の彫刻と屋根の獅子彫刻は見交わす位置に置かれていて、家を守る姿になっています。


屋根の獅子

本多邸は「復元」ではなく「復原」である、という説明がありました。古建築を移築する場合、部材のほとんどが新調され、元の設計図通りにくみたてる場合が復元。ほとんどが移築前の部材を用いて、組み立てる場合が復原。本多邸は、70%が元の部材をそっくりそのまま使っているので「復原」と名乗れるのだと。
住人であった一家が、家を大切に保存しつつ住んできたから多くの部材がそのまま使用できたのだろうと思います。
これから先は、岡崎市の大切な文化財として保存されていくと思います。思いがけない岡崎市訪問で、見学できてよかったです。

<つづく>