春庭Annex カフェらパンセソバージュ~~~~~~~~~春庭の日常茶飯事典

今日のいろいろ
ことばのYa!ちまた
ことばの知恵の輪
春庭ブックスタンド
春庭@アート散歩

ぽかぽか春庭「 Bull shit Job」

2022-02-24 00:00:01 | エッセイ、コラム
20220224
ぽかぽか春庭ことばの知恵の輪>2021年のおことば拾遺(3) Bull shit Job

 2022年にも新しい言葉を発見して、「虎の子」を得たごとく悦に入り、「お金無くても楽しい生活!」を実践していきます。とは言っても、「お金なくても楽しい生活、あったらあったでなお楽し」ですから、心ある方、私がなおいっそうたのしくなるために、投げ銭などいただければ幸いにぞんじます。
 
 2021年も年末になって、「ブルシットジョブ」ということばを知りました。Bull shitという語は知っていました。それは、直訳の「雄牛の糞」という意味だと勝手に解釈して済ませていました。牛のクソ、すなわち「汚くて価値のないもの」の意味だと。
 たしかに、英語Bull shitは、スラングで「嘘」「たわごと」「でたらめ」「無価値」などの意味を持ちます。It's Bull shit ! などの表現が使われたら、それは非常に強い調子で「うそつけ!」「ばか言ってんじゃないよ! 」と、非難する語になる、というのです。

 もし、通常の感覚で表現するなら、It’s not good to me.私にはよろしくないことですね。 It’s not right.正しくないですよ。 That’s not true.本当ではないです、とというようなおだやかなフレーズで言うほうが無難であり、Bull shitなんて「クソ!」と言う語を使ったら、品がないし言われたほうも怒り出す。

 ところが、2021年夏にこの語は日本の経済学、社会学、文化人類学の専門用語として「Bull shit Job」が知る人ぞ知る語として巷をかけめぐりました。
  「紀伊國屋じんぶん大賞2021」で第1位を獲得して一気に有名なことばになったのです。(じんぶんをなぜ人文という漢字にしなかったのは謎ですが)

 『Bull shit Job』は、デイヴィッド・グレーバーによる著作。無意味な仕事の存在と、その社会的有害性を分析している書です。巷間「Bull shit Job」ばかりなのですって。
 日本では2020年に翻訳出版され、2021年に「紀伊国屋じんぶん大賞」の1位になったことで、注目を集めました。本のタイトル翻訳が秀逸『クソどうでもいい仕事』

 私がこの語を知ったのは、「100分で名著マルクスの資本論」という番組で。
 資本論、完読したことないので、テレビ見てよんだ気になれるかと。

 番組中、伊集院光が講師の斎藤幸平に教わりながら「マルクス資本論」を読み解くなかで、経済学、哲学で使う用語としてBull shit Job について聞きかじったのです。
 (斎藤幸平は、日本の哲学者、経済思想史研究者。専攻はヘーゲル哲学、ドイツ観念論、マルクス主義哲学。大阪市立大学大学院経済学研究科・経済学部准教授。「資本論」読み解きの講師として選ばれたのは、2021年に著書『人新世の「資本論」』で新書大賞を受賞 したから)。

 Bull shit Jobのデヴィッド・グレーバーによる解説。
 ブルシット・ジョブとは、被雇用者本人でさえ、その存在を正当化しがたいほど、完璧に無意味で、不必要で、有害でもある有償の雇用の形態である。とはいえ、その雇用条件の一環として、本人は、そうではないと取り繕わなければならないように感じている。

 例としてあげれば。
 プラスチックのコップを売らんがために、宣伝用のモデルが「より美しく鮮やかに」彩られたコップで何かを飲んでいる写真を仕上げ加工をする仕事。モデルが実際にこのコップを使って飲んでいなくともよい。あくまで宣伝用の写真にすぎず、写真はコップの色や品質を保証するものではありません。ただ消費者がこの写真を見て「私もこんな色のコップが欲しい」と欲望をおこし、消費行動に出ればいいのです。

 一面から見れば「宣伝」という最先端の仕事に携わっていて、高い報酬も約束されている、と言えるのだが、冷めた目で見れば、実際にはないかもしれない「コップの価値」を高めて売り物にするいわば「詐欺行為」に当たる仕事に加担しているともいえる。
 この仕事に価値を見出し「売れる」ために寄与したと生き甲斐を感じる人もいるだろうけれど、もし働きながら「本当にこのコップを使っているのでもないモデルを写して美しい品に見せかけるだけの仕事」と感じてしまったら、むなしい「クソどうでもいい仕事」にしかならない。

 ほとんどの人は、働いても働いても真に満足感を得られず、世に貢献したという実感ももたず、「クソどうでもいい仕事」に従事している、とグレーバーは論じています。資本家は、労働者の労働の内容や質を云々するよりも、より効率的に働かせ、より多くの利潤を上げればいいので、労働者が「ほんとうに生きがいややりがいを感じる労働」なんぞに目覚めないほうがいいと思っています。

 自分を「資本家に都合のよいロボットのように働いている」と感じるか、「人々の中に立ち、コミュニティの一員として人間らしく働いている」と感じるか、働き方は選べますが、現代社会の中では、「クソどうでもいい仕事」のほうがずっと高い報酬を得ることができる。

 プラスチックコップの例でいえば、生産ラインの工員となって、ベルトコンベアのコップを仕上げていく作業より、詐欺のような美しい写真をとって売り上げに貢献したほうが報酬が高い。さらに言うと、山奥の山岳民族のだれかが山の木を彫って飲み物用のコップを作ったとして、それは高名な民藝批評家がアート作品として取り上げ、褒め讃えない限り、大量生産品のプラスチックコップより高い値段で売れることはない。(民藝という名詞がくっつく前、日本の民芸品も同じようにタダ同然でした。今では土産物屋でよい値段で売られているし、工芸展に入選でもすれば、高額商品となる)

 春庭のような教育産業従事者はどうか。昔のように、教師が手作りプリントなんぞ作って、教え子に作文書かせて表現力のある子供に育てようなどとしたら、校長がすっとんできてやめさせる。教科書に書かれていることを、教師用マニュアル書に書かれている通りに授業をちゃきちゃき進めていかないと、親が「うちの子の担任教師は、無駄なことを生徒にやらせる。入試には役立たないことを」なんて言って教育委員会に抗議する。大事なのはテストに合格点をとること。より偏差値の高い学校に入学させること。講師がたの意見は反映するけれど、教育分野に関しては経営者から全権委託されている。

 その点、春庭は、現在勤務中の日本語教育の分野では、基本テキストは初級中級上級と決めてあるが、自分で教え方も決めることができるし、クラス担当の講師にもできる限り「自分の裁量で授業をすすめる時間」を持てるよう、スケジュールを決めている。講師は朝出講してくると、自作の補助プリントをコピーするところから仕事を始めます。PPTスライドも自由作成。

 仕事に対して上から押し付けられるストレスはない。(今のところストレスの多くは、オンライン授業のWifeだけ。「接続が不安定です」という文字が出ると、ストレス満杯)、ない。人様から見たら私がやっていることも「クソどうでもいい仕事」かもしれないが、「青雲の志を抱いて日本に留学してきた学生たちが、よりよい人生の選択ができるように力を尽くしている」つもり、、、、なのは自己満足だろうけど、いいの。

 そうそう、40年前に泊まりにいったケニアのマサイ族の家では、「牛のクソ」は、燃料として日々の生活に欠かせず、また、家の壁に塗りこめる建築材料でした。乾燥しているので臭いもなく、有用なものでしたから、「牛のクソ」を決して「無駄でどうでもいい」と感じたことはなかったです。「Bull sit Job」を「クソどうでもいい」と訳したセンスは買うけれど、「牛のクソ」を決して無駄なものと思っていない者にとっては、ちょい残念な気も。
 
 牛のクソ画像なんぞ見たくない人は、ここで終了してくださいませ。

 牛のクソ

<つづく>
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする