庭のがくあじさい
20230622
ぽかぽか春庭日常茶飯事典>2023文日記6月(8)梅雨時の庭
2020年、コロナのひきこもり時に、猫の額の庭を畑にして野菜やハーブを収穫しようと思い立ちました。まずは堆肥を作って土づくりと思って、糠や培養土を買ってきて、混ぜ入れた段ボールに野菜くずを入れていったのですが、管理が悪く、土からコバエがわいたのを見て、私には農作業は無理と見極めがつき諦めました。
2022年夏に娘の懸賞生活でトマト苗が当選し、植木鉢で4本のトマトを育てましたが、わき芽を摘み取るなどの手入れを怠ったために、4本の苗から小さなトマトが10個収穫できたところで苗は力つきました。やはり、私に農耕生活は向いていなかった。
放置トマトが枯れて以来、猫の額庭は雑草伸び放題になっています。
年に2回、12月と6月に姑の知り合いのスズキさんが手入れに来てくれるのですが、毎年「今年もスズキさんは来てくれるのだろうか」と、運まかせ。姑より4歳若いというスズキさん、今年の誕生日がくると94歳。2022年12月も梯子をカエデの幹に立てかけ枝を剪定してくれたので、ハラハラしました。
今年は6月18日が「庭の日」になりました。
スズキさんは、ドクダミを「やたらはびこる雑草」として退治するので、2022年6月は、庭のドクダミはすべてゴミになりました。
2023年、スズキさんが来る前に、とりあえず目立つほど伸びたどくだみ採集。引っこ抜いて、洗った葉っぱを乾燥させ、お茶用にします。今飲んでいるのは、2021年に取り入れたどくだみの葉。
スズキさんは庭のシダ類とどくだみを2袋のごみ袋につめて「あじさいはまだ花盛りなので、花が終わったころにまた着て剪定します」ということになりました。
ミョウガは、去年ほっといて収穫しなかったので、今年はひとりでにいっぱいに増えて勝手に伸びています。
スズキさんは、「もう小さいミョウガが出てきていますが、食べごろはもうちょっとです」と教えてくれました。伸び放題になっている葉っぱを「これ、なんていう葉っぱですか」と尋ねたら「うこぎです」と教えてくれました。「ええっ、うこぎって食べられる葉っぱですよね。私、田舎育ちで、毎年家族で山菜取りピクニックに出かけたことあるのに、うこぎが目の前に生えているのに、これがうこぎだってわかっていませんでした。舅姑の実家の山形では、上杉鷹山の教えによって、どの家も生け垣はうこぎの木にして、庭には花よりも食べられるものを植えなさいって教えたので、米沢出身の姑は自分の庭にもうこぎを植えたんでしょうね」「今はもう葉っぱは固くなっていて食べられませんから、来年の春に若葉が出てきたらゆでておひたしもいいし、天婦羅もいいですよ」と、スズキさんに教わりました。
来年が愉しみです。
アジサイの剪定は花が終わってからということになったので、庭仕事は午前中だけで終わり、お茶タイム。これまではさっさとお茶を飲んで次の仕事にかかっていたスズキさんも、18日は「あとの仕事は次に来た日に」と、ゆっくりお話ししてくれました。
スズキさんは、1929年生まれ。私の父が1919年生まれで、ちょうど10歳若い。父の年㈹の男は、みな徴兵され戦争に行くことになりましたが、スズキさんは終戦の時に15歳。父は、青春時代のほとんどをすべて戦争の中ですごしたけれど、それより若い世代のスズキさんは、勤労動員世代です。農学を学ぶために入った旧制中学の卒業前の4年生と5年生の2年間は、福島の中学から全員で横須賀八景島近くの飛行場近くの工場に動員され、寄宿舎暮らし。毎日毎日、工廠で爆弾作りに従事しました。近くに試験飛行のための飛行場があり、連日米軍が爆弾を落とす。最初は警報が鳴るたびに防空壕に入ったけれど、1年も爆撃が続くと、だれも空襲警報で防空壕に入らなくなった。訓練飛行する飛行機は機体がペなぺなで、こんなものに乗ったら死ぬしかないと、飛行兵でなくともわかる。それで勤労動員工員も、死ぬときは防空壕に入ろうと入るまいと死ぬのだ、と、覚悟ができたのだ、とスズキさん。二十歳で徴兵される前に必ず死ぬのだ、と思っていた。
スズキさんの数年先輩は旧制中学生から予科練や海軍特別年少兵 になったも多く、戦死者もでたけれど、スズキさんの同級生で戦死した学生はいなかった。スズキさんが生き延びた理由は。1945年7月に原因不明の40度の高熱が続き、横須賀の山の中に掘り込まれた防空壕病院に入院させられた。天皇玉音放送の日は、ベッドに寝ている病人も一か所に集められて「陛下の放送がある」というので、電波の届かない山中防空壕で待機していた。「これから本土決戦だから、皆しっかりやれ」というお話があるのだろう」と思い、まさか敗戦の放送とはだれも想像できなかった。しかし、電波が届く病院の外で放送を聞いた看護婦が、泣きながら「日本は負けた」と教えてくれた。
高熱で1か月も入院していたおかげで、爆撃にも遭わずに戦後を迎えたのだ、というお話でした。後輩たちは、旧制中学から新制高校に編入した者もあったが、スズキさんは5年生の途中で繰り上げ卒業となり、戦後社会を会社員として働くことに。会社退職後、区のシルバーワークに申し込み植木剪定に登録したけれど、その職業訓練はとても植木職人として一人前になるほどのことは教えてくれないので、自分でさまざまな植木屋に出入りして技を身につけた。
シルバーワークを退職する年齢に達したあとも、うちの姑とご近所さんのタイラさんとはずっと仲良しで、こうして何軒かのお宅ではいまだに庭の手入れをまかせてもらっている、という一代記を聞くことができました。タイラさんの奥さんは福島の女学校から動員されて同じ横須賀の近くで暮らしていたということもわかり、山形の旧制女学校から工場動員されそうになったので、つてを得て郵便局で働くことにした、という姑と、いつも3人寄ると東北から東京に出てきた苦労話もできて、よい話し相手だった、ということです。
昔の話を聞けてよかった。「今、戦時中の話を語れる人が少なくなっているので、ぜひお孫さんの前で語って録音しておいてください」と頼んだのだのだけれど、スズキさんは、いや、興味を持って聞いてくれる人はいない、と嘆く。スズキさんが小学生のころ、祖父母や両親が日清日露の戦争経験を語ったときに、「そんな古いこと、聞きたくもない」と思ったのだそうで、今の若い連中も、70年80年昔のことを話しても、聞く耳もたない、とスズキさんは残念がる。区の図書館なりで「昔の経験を聞く会」でもやってくれたらいいのに、と思いました。
玄関前のあじさい。こちらの剪定はまた別の日に。
<つづく>