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ぽかぽか春庭「龍子記念館」

2023-06-10 00:00:01 | エッセイ、コラム


20230610
ぽかぽか春庭アート散歩>2023アート散歩6月(4)龍子記念館

 6月2日金曜日、台風2号の影響で線状降雨隊も発達している、という最悪なお天気でしたが、せっかく当選した無料コンサートの機会を無駄にしたくなくて、雨の中でかけました。

 以前娘と川瀬巴水の版画を見るために大田区立郷土博物館へ行ったおりに、近所に龍子記念館があることに気づきました。川端龍子の自宅と庭園を大田区が譲り受けて管理している区立美術館で、一般200円65歳以上無料で入館できます。しかしながら、どの駅からもバスに乗るか徒歩15分とか、とても不便な場所にあるので、なかなかでかける気分にならないでいました。今回は無料のコンサートがあるというので、電車バス乗り継いで出かけました。

 バス停徒歩2分の静かな住宅街のなかにあった川端龍子の自宅の中に龍子記念館がたっています。庭園は区立公園となり、保存されている旧居とともに公開されています。雨の中、庭園見学はどうかなと思って行ったら、そもそも庭園は10時12時14時の1日3回30分のみ公開。私が記念館に着いたのは15時でしたから、お庭の見学はまた次の機会に。
 あとから来た娘は線状降水帯真っただ中の移動になってしまい、くつも服もびしょぬれになりました。水もしたたるいい女のままでは、記念館に入るのも顰蹙になるのではと、大森駅で30分時間を過ごしてからバス停坂下臼田坂下まで来ました。

 龍子記念館の口上
 龍子記念館は、近代日本画の巨匠と称される川端龍子(1885-1966)によって、文化勲章受章と喜寿とを記念して1963年に設立されました。日本画家・川端龍子(かわばたりゅうし、1885-1966)が78歳を迎える誕生日1963年6月6日の開館。当初から運営を行ってきた社団法人青龍社の解散にともない、1991年から大田区立龍子記念館としてその事業を引き継いでいます。
 当館では、大正初期から戦後にかけての約140点あまりの龍子作品を所蔵し、多角的な視点から龍子の画業を紹介しています。展示室では、大画面に描いた迫力のある作品群をお楽しみいただけます。
龍子記念館の向かいの龍子公園には、旧宅とアトリエが保存されており、画家の生活の息づかいが今も伝わってきます。

 ひねくれ者の私は、画家の生涯についても、早世の画家とか、生前は2枚しか絵が売れなかった、というような「薄幸好み」で、龍子は敬遠していました。横山大観や川端龍子のように、長生きして文化勲章も受けて功成り名を遂げた画壇の雄という大家に対して、ちょっと斜めに見るひがみ精神の持ち主で、たぶん絵画の見巧者にはなれない。

 今回の展示は、1963年の開館から60周年の間の歩みをまとめたもの。壁の展示や展示ケースの中には、過去の展覧会ポスターなどが並んでいました。
 作品は大作中心。3m×2mという、どでかい日本画がずらりと並び、壮観です。
 ロビーから展示室に入って最初の作は、『源義経(ジンギスカン)』。義経が大陸に渡りジンギスカンになったという伝説を表しています。
 義経は立派な甲冑をつけ兜をかぶっている姿なので、ジンギスカンになる前の姿らしい。龍子がこの絵を描いたのは、1938(昭和13)年。日中開戦の翌年で、国をあげて大陸侵攻に燃え立っていた時だったので、古くから伝説として流布していた義経ジンギスカン説をとりいれて、人々の大陸への士気をかきたてる作となったと評されています。こういう「時勢にかなう絵を描ける」という画家に、共感できない、と思ってきたのですが、実際に絵を目にして少し違う感想も生まれました。

 ジンギスカンの駱駝!江戸時代に見世物として各地を巡回したというラクダの絵を、江戸の絵師も書き残しています。そして、龍子の時代には、上野でもどこの動物園でも、現実のヒトコブラクダ、フタコブラクダを観察する機会はあったろうと思う。それなのに、画面のラクダは、金色のたてがみフサフサと、じっと前を見つめて座っている。これは、現実のラクダではない。麒麟や鳳凰のような、幻想の中のラクダ。龍子は、義経伝説を利用して「伝説の中に息づく幻」を描きたかったのではないか。この絵が現実には大陸侵攻を鼓舞する時流に利用されたのが事実としても、龍子自身はこの絵によって時流時節とは関係なく、狭い現実を抜け出て広々としたところへはろばろ出かけて行こうとする敗者を描いた。それでラクダは、このような金色鬣のありえへん姿の描かれた、と思って鬣を見る。金の鬣は背中のこぶも覆い、白馬の前に座る義経はややうつむき加減で悲しそうに見える。大陸は遠い。



 展示されている絵、かっぱの母子とか、ほのぼの系もあり、高丘親王航海記に取材した「真如親王」のトビウオ飛翔する中の泰然とした高丘親王もいて、どの大作も迫力がありました。
 「似ている」と題されたカッパの絵。龍子は、パイナップルを手にとって、てっぺんの葉っぱを見ているうちに、それがカッパに見えてきたのだと思う。


 略年譜でのみ画家を見きて、功成り名を遂げた成功者の龍子、と思っていました。が、実際には、長男と長女に先立たれ、1941(昭和16)年には弟の俳人川端茅舎が病没。戦中に三男が戦地で亡くなり、1944(昭和19)年には妻にも先立たれたました。さらに1945年敗戦の2日前には空襲に遭い、龍子の家も被災。龍子は爆撃直撃をまぬがれましたが、使用人ふたりが亡くなりました。

 一番こころ惹かれたのは、「爆弾散華」という絵。
 散華とは、ホトケへの供養のために花をまき散らすこと。「爆弾散華」には、金色の背景に枝からちぎれた葉や実が描かれています。龍子が自宅庭を畑にして栽培していたかぼちゃやトマトが、一撃の爆弾で飛び散ったようすを、「散華」として描いています。


 龍子の家と庭に降り注いだ爆弾。家の手伝いをしていた人も亡くなり、大勢の空襲被災者が廃墟となった東京にあふれました。戦死した息子やそれ以前に亡くなっていた弟川端茅舎や妻。亡き人々への哀悼の思いを「散華」という絵に込めたかったのかと思います。

 娘の紀美子は父を支え伊豆の別荘などにも同行したし、孫の岡信孝は祖父を継いで画家になったし、近しい人々を失った悲しみをうめる家族はいたと0思いますが、龍子は人々への供養として四国遍路を続けました。

 80を過ぎて急激に衰え、絵が描けなくなった自分を嘆いての自殺というのもありえるかと思う。未完の龍の天井画が残された、という。

 龍子美術館、季節ごとに展示が変わるようなので、また訪れてみようとおもいます。


<おわり>
コメント
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