20241109
ぽかぽか春庭アート散歩>2024アート散歩みのりの秋(1)はにわ展 in 東京国立博物館
11月1日。夫タカ氏と東京国立博物館で「はにわ展」観覧しました。タカ氏は、美術展で絵を見るのは、美術の教科書でみたことあるなじみの画家以外はパス。科博や東博で人類学や歴史関連を見るならつきあうと言う。今年2024年は、娘と東京都美術館で「永遠のローマ展」を見て、私とは東博で2023年に「古代メキシコ展」を見ています。
東京国立博物館の口上
埴輪とは、王の墓である古墳に立て並べられた素焼きの造形です。その始まりは、今から1750年ほど前にさかのぼります。古墳時代の350年間、時代や地域ごとに個性豊かな埴輪が作られ、王をとりまく人々や当時の生活の様子を今に伝えています。
なかでも、国宝「埴輪 挂甲の武人」は最高傑作といえる作品です。この埴輪が国宝に指定されてから50周年を迎えることを記念し、全国各地から約120件の選りすぐりの至宝が空前の規模で集結します。素朴で“ユルい”人物や愛らしい動物から、精巧な武具や家にいたるまで、埴輪の魅力が満載の展覧会です。東京国立博物館では約半世紀ぶりに開催される埴輪展にどうぞご期待ください。
第1章 王の登場
なかでも、国宝「埴輪 挂甲の武人」は最高傑作といえる作品です。この埴輪が国宝に指定されてから50周年を迎えることを記念し、全国各地から約120件の選りすぐりの至宝が空前の規模で集結します。素朴で“ユルい”人物や愛らしい動物から、精巧な武具や家にいたるまで、埴輪の魅力が満載の展覧会です。東京国立博物館では約半世紀ぶりに開催される埴輪展にどうぞご期待ください。
第1章 王の登場
第2章 大王の埴輪
第3章 埴輪の造形
第4章 国宝 挂甲の武人とその仲間
第5章 物語をつたえる埴輪
エピローグ 日本人と埴輪の再会
「 挂甲の武人 」が埴輪として国宝に指定されてから50年を記念する本展の目玉は、日本各地の博物館やアメリカのシアトル美術館に離れ離れに展示されている5体の武人をそろい踏みで」展示すること。
第4章の「国宝挂甲の武人とその仲間」の展示に大勢の埴輪ファンが集まっていました。
武人5体の勢ぞろい(画像借り物。観覧時には人の頭で武人が隠れてしまっていて5体いっしょの姿は撮れなかった)
5体の武人は、全部同じ場所で作られたことが判明しています。鶴舞う形の群馬県の鶴の首にあたる地域。現在の群馬県太田市あたりに埴輪工房があり、5体は少しずつ衣服や武具のちがいを表しながらも、同じ地域の工房で作られたであろうという解説。
武人像を眺めていると、古代の上毛野で馬を飼ったり埴輪を作ったりしながら暮らしていたご先祖さまを思い浮かべることができました。もっとも母方のご先祖は鶴舞う形の羽の上のほう、父方のご先祖は魚沼こしひかりの出身ですけど、想像する分には馬飼いだろうと埴輪工人だろうと自由。
混みこみの観覧客が途切れなくてカメラを向けられない。アングルによっては光が反射してしまって思うような姿にとれない。素人はすっこんでいろ、というところですが、数点の撮影禁止のほかは撮影自由なので、下手でも撮りたくなる。埴輪は素朴な素焼きのイメージだったけれど、表面に残されていた塗料を分析し、古代の彩色を復元した武人像も展示されていました。白と赤の彩色、思った以上に派手でした。
国宝・群馬県太田市飯塚町出土6世紀 東京国立博物館蔵
復元古代の彩色
太田市出土シアトル美術館・太田市世良田町相川考古館・伊勢崎市歴史民俗博物館
埴輪のはじめは、円筒埴輪です。王の死後を守るために、古墳の周囲に立てめぐらされました。顔がついている円筒など、きっとにらみをきかせて墓泥棒などに供えたのかもしれません。
最大の円筒埴輪は2m40cm。背比べのために、タカ氏に並んでもらう。
強大になっていった大王が広い地域を統治するようになると、王権の象徴としてさまざまな宝物が古墳に埋蔵されました。
金象嵌銘大刀(天理市東大寺山古墳)4世紀(刀身後漢2世紀)
(銘文)
中平□□(年)五月丙午 造作文刀 百練清剛 上応星宿 □(下)辟不□(祥)
刀身は後漢時代の作だということですが、大陸や半島から島にもたらされ、鉄製の刀が地上に出土するまでよくぞ眠っていてくれたと思うと、千数百年の時間の流れに思いが寄せられます。
円筒埴輪の次に王墓に配されたのは、古墳の頂に載せられた家形埴輪だそうです。王の御霊が死後も安寧に暮らすための家。
誉田御廟山古墳(応神天皇陵墓に比定)から出土した家型 埴輪、現在も伊勢神宮などの千木や鰹木 に同じ形が残されています。
古墳時代の後期になって墳墓に配されたのが、祭祀の場などに王の権力を示すために「物語」を表すようにおかれた、人の形の埴輪や動物の形。それぞれとてもすばらしい造形で、魅力的な埴輪でした。
<人の像>」
乳をふくませる母と子を背負う母。子の健やかな成長を願う古代の人の心、伝わります。
王に仕え跪く人
琴を弾く人 踊る人(または馬の口取り) 捧げものを持つ人
武人と巫女(?) 杯を持つ人 捧げものを持つ人
さまざまな役割をはたす人
鷹匠 力士
<王の身の回りの器物>
いす 船 船レプリカ
<動物>
馬 旗指物をつけた馬
鹿 水鳥 羽を広げた鳥
大山古墳(仁徳天皇陵に比定)とイヌ サル
古代王権の宗教的な面を受け持つのは卑弥呼のような巫女。卑弥呼とコンビで邪馬台国を納めていた男弟など、王権者は、軍事と米作に欠かせない治水をつかさどりました。王が水を管理していたのをしめすのではないか、という「囲型埴輪」に木槽樋(もくそうひ) が出土しており、「治水のようすを表す」「水洗トイレを表す」「古墳が築かれるまでの殯(もがり)の宮 」などの説が出ている、というのが、興味深かった。トイレ説の根拠は、囲型埴輪の出土から寄生虫卵の痕跡も見つかっているからだというのですが、どうでしょうか。
埴輪というと画像にでてくる「踊る人」。最近の説では、馬の口取りをしているのではないかと。腰の紐は、馬をつなぐ紐であったろう、という説。
平成館1階の休憩所でお茶休憩。タカ氏は、私のコンパクトカメラはつかいづらいと文句を言い続け、夫が私を撮ると手ブレや斜めっている絵になる。
東洋史専攻のタカ氏は、娘といっしょに兵馬俑展を見たと思い出し「埴輪は、兵馬俑とは関係ないのか。兵馬俑を作った人々が大陸からやってきて埴輪を作ったってこともあるかも」と馬が大陸や半島からもたらされたのといっしょに埴輪工人も島にやってきたのかもしれないという説をのべる。学生時代に騎馬民族説に魅了されたことがあるタカ氏っぽい説だけど、私は2007年に西安の始皇帝陵で兵馬俑を見てきて、ひとりひとりの兵士の姿を忠実に写しているリアルな兵馬俑と素朴な見た目の埴輪では作風が違う、と思いました。で、東博の兵馬俑展を見たタカ氏説に賛同せず。「前3世紀の秦の始皇帝の墓の兵馬俑と後3世紀から6世紀につくられた埴輪では5,600年の隔たりがあるので、秦の滅亡で亡命してきた工人が直接大陸から来たとは考えられない」と、反論。タカ氏不満そうでしたけれど。
私は、テレビの関連番組で「埴輪は大王の墓奥深くに埋められていたのではなく、人々に王の権威を示すために、墓の前の祭祀場に物語を上演するように並べられていた」という説に大いに共感しました。だから、始皇帝とともに土中深く埋められており二千年以上人目にふれずに墓を守る兵馬俑と、人々の目に触れるように墓前に並べられた埴輪では、役割が異なると思えたのです。
東博のエピローグは、近代以後の埴輪像の受け入れについての章でした。「日本人と埴輪の再会」に展示されていたのは、大正元年に作られた明治天皇の陵墓、伏見桃山陵を守る土人形のレプリカです。挂甲の武人の衣服に鎌倉武士のようなカブトをかぶった姿にかたどられた武人が守る天皇陵。
明治期以前に描かれた古事記などの古代説についた挿絵。坂上田村麻呂は鎌倉武士のような恰好で描かれるし、衣通姫や神功皇后は宮中女官の緋袴小袿の姿で描かれることが多かった。しかし、小学校の歴史本にヤマトタケルや神武天皇がミズラを結い、埴輪武人のような衣服を着た姿で描かれるようになると、たちまち日本中に挂甲の武人の姿がいきわたりました。日清・日露以後の軍拡の世相に乗って、人々は千五百年前の勇ましい武人に「大和魂」を重ねて武力拡大に熱狂していきました。
この「エピローグ」のつづきは、東京近代美術館の「ハニワと土偶の近代」に引き継がれています。近代以後の芸術家たちが埴輪や土偶からインスピレーションを得て創作した彫像や絵が飾られています。
「日本の歴史」の源流として土偶や埴輪が受け入れられ、日本の原始・古代のイメージが定着していく近代を知りたければ、東京近代美術館の「ハニワと土偶の近代」へ。
平成館前で
<つづく>