
20241114
ぽかぽか春庭アート散歩>2024アート散歩みのりの秋(4)明治時代の歴史物語月岡法然を中心に in 町田市立国際版画美術館
第四水曜日65歳以上無料入館の町田市立国際版画美術館に出かけてきました。JR町田駅前から第四水曜日のみ、シャトルバスが出ます。シャトルバスが休止していたとき、路線バスで版画美術館に一番近いと言うバス停まで行ってみたことがありました。広い公園の中を延々と歩き、美術館に着いたときはぐったり。シャトルバスがないとき、高齢者には行き着くまできつい美術館です。
昔と停車位置が変わった駅前発の乗り場がわからずうろうろしましたが、高齢者が並んでいる列を見つけたので「美術館行のバスを待っていらっしゃいますか」と列の人にたずねて確認。私は9人目の乗客で、もうひとりきて10人定員いっぱいになりました。11時に出発。
美術館について、まずはレストランけやきで日替わりランチを注文。腹ごしらえをしてから絵を見る。朝ご飯もたっぷり食べたのだけれど、早めのランチもすんなり腹に納まる。
2階の館所蔵版画の企画展「明治時代の歴史物語」
現在は主流の説ではない伝説なども含む明治時代に人々が「日本の歴史」として求めていた場面が描かれています。
町田市立国際版画美術館の口上
月岡芳年 (1839-92)は幕末・明治期を代表する浮世絵師です。歌川国芳の高弟として名を馳せ、現在その評価は一段と高くなっています。本展では、「歴史」に取材した作品に焦点を当て、芳年の画業を紹介します。
とはいえ、「歴史」とは非常に曖昧な存在です。学術研究で未解明な領域は数限りなく、また同一の出来事であっても、見る者によってその意味は大きく異なります。芳年が描く「歴史」も今日の私たちが思い浮かべる歴史と比べると、少しばかり違和感を覚えるかもしれません。明治10年代における芳年の作では、天皇を国家の中心とした明治政府の歴史観を踏まえ、『古事記』に綴られる神々や、忠義を重んじる賢臣が多く登場します。他方、晩年にあたる明治20年代の作では、講談や謡曲など芳年が好んだ文芸趣味が色濃く反映され、そこに描かれるのは虚実入り混じる幽玄な世界です。静と動の表現を巧みに使い分け、今なお人々を魅了しつづける芳年の作品を通じ、「歴史」を描くことがいかに創造的であるのかを探ります。
あわせて本展では、芳年門下の水野年方と右田年英のほか、回顧的な作風に長じた尾形月耕、そして芳年に私淑した風景画の名手・小林清親の作品を紹介します。彼らが描いた「歴史」には、芳年の影響だけでなく、独自の作風を模索した新時代の息吹が感じられます。
明治の浮世絵師が織り成した様々な「歴史」。その豊かな物語性をお楽しみください。
とはいえ、「歴史」とは非常に曖昧な存在です。学術研究で未解明な領域は数限りなく、また同一の出来事であっても、見る者によってその意味は大きく異なります。芳年が描く「歴史」も今日の私たちが思い浮かべる歴史と比べると、少しばかり違和感を覚えるかもしれません。明治10年代における芳年の作では、天皇を国家の中心とした明治政府の歴史観を踏まえ、『古事記』に綴られる神々や、忠義を重んじる賢臣が多く登場します。他方、晩年にあたる明治20年代の作では、講談や謡曲など芳年が好んだ文芸趣味が色濃く反映され、そこに描かれるのは虚実入り混じる幽玄な世界です。静と動の表現を巧みに使い分け、今なお人々を魅了しつづける芳年の作品を通じ、「歴史」を描くことがいかに創造的であるのかを探ります。
あわせて本展では、芳年門下の水野年方と右田年英のほか、回顧的な作風に長じた尾形月耕、そして芳年に私淑した風景画の名手・小林清親の作品を紹介します。彼らが描いた「歴史」には、芳年の影響だけでなく、独自の作風を模索した新時代の息吹が感じられます。
明治の浮世絵師が織り成した様々な「歴史」。その豊かな物語性をお楽しみください。
月岡芳年「上毛野八綱田 狭穂姫」

第11代垂仁天皇の最初の后、狭穂姫。第10代の崇神天皇以後は実在も考えられるという古代の大王ですが、140歳で崩御したという古事記の記事からも、伝説を集めてまとめた支配者のひとりと考えられます。垂仁天皇の后狭穂姫は、兄狭穂彦の謀反を天皇に打ち明け、兄と共に焼き滅ぼされる。上毛野八綱田は古代の地方豪族のひとりとみられ、狭穂姫が燃える火の中生んだ一人子の皇子誉津別命(本牟智和気御子 応神天皇) を託される。古代の伝承の中でも、劇的な物語であり、上毛野八綱田が「大日本名将」のひとりとされるのも納得。上毛野にそんな豪族がいたという古事記日本書紀の記事があり、古墳が上州に多く存在すのも納得です。
尾形月耕「縫乃工」1929

呉織、穴織という姉妹が応神天皇の時代に大陸から織物を伝えた、という伝説に基づいて描かれました。織物の原型は縄文時代にだってあったと思いますが、高度な織物技術が伝えられたのが、古代の大王の時代だったのでしょう。
月岡芳年「雄略天皇」1879

狩りのさなかに突進してきた猪をひと蹴りで仕留めたと言う雄略天皇(大泊瀬幼武 )の伝説を描きました。勇猛な豪傑にして冷酷無比だったというワカタケル。富国強兵へと向かう時代には英雄として求められたのだとわかります。
伝説の初代神武や実在の可能性もあるという崇神よりも、中国の史書にも登場する倭の五王の武が、万葉集の歌のはじめとして名を遺す。こもよみこもちの万葉集の第一首目が雄略天皇の求婚歌に擬せられているのも、さもあらん。
月岡芳年「月百姿 石山の月」1898

石山寺に参篭中、月を眺めて源氏物語を構想する紫式部の姿。
NHK「光る君へ」も残り6回。石山寺参篭の回は、ドラマでは道長とあれこれあってゆっくり月なんか見ていたシーンがあったかどうか、もう忘れていましたが、伝説では石山寺で執筆を始めたって信じられてきました。
月岡芳年「最明寺時頼」1878

鎌倉幕府第5代執権北条時頼が佐野の里で吹雪にあったとき、所領を奪われた貧しい一家が盆栽を火にくべて暖を取らせてくれた。後に上野国松井田荘を褒美を与えたという謡曲「鉢木」で知られた伝説。黄門様が全国漫遊を行ったという伝説もそうだけれど、その伝説を求める社会だった、ということでしょう。
月岡芳年「地獄大夫悟道の図」1890
右は背景のどくろ花魁道中が見える版(画像借り物)


室町時代の遊女の図。衣服には地獄変相の図を繍り、常に心に念仏をとなえていたという地獄大夫。古代の皇后も室町江戸の遊女も、仏法の前には同じ価値ある存在として描かれ、明治の庶民はその絵図を求めました。
西洋化著しい近代社会の荒波のなかで、伝説も含む歴史ですけれど、日本の歴史をたどることで人々は西洋に収斂されない心のふるさとを確認してきたのでしょう。
今またAIはじめIT全盛の世の中で、私たちは自分とは何かを問われ続けています。自分のできることなんぞAIがもっと上手にやり遂げるに違いない、と思ってしまいます。
久しぶりに本名エゴサーチしたら、私の修士論文博士論文が、けっこういろんな日本語文法論者の論文末に参考文献として名があがっているのを発見。何事もなさない人生と思っているけれど、つたないながら書き上げた論文を、どこぞのだれかが参照しているのを知って、明治の人が、室町の地獄大夫の絵を眺めてほっとしているような気分になりました。だれかの一生は、別のだれかにとってまったくの無ではないと。ま、無でもいいんだけど。
<つづく>