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ぽかぽか春庭「野見山暁治展前期 in 練馬区立美術館」

2024-11-19 00:00:01 | エッセイ、コラム


20241119
ぽかぽか春庭アート散歩>2024アート散歩秋(7)野見山暁治展前期 in 練馬区立美術館

 野見山暁治(1920-2023 )は、2021年100歳まで画業を続け2023年に102歳で没しました。美術学校繰り上げ卒業で満州に出征して、からくも帰還できたことを忘れず、戦没学生の描いた絵画収集を行うなどの活動も続けました。文化勲章受章などの栄誉も得て画家としてに生涯をまっとうし、練馬区と福岡県糸島に建てたアトリエを行き来して作品を描き続けました。

 練馬区立美術館の口上
 練馬区立美術館では開館準備中から野見山の作品の収集を続けてまいりました。1996年と2007年には野見山の個展を開催、近年では、2021年・2024年に新たに作品を収蔵しコレクションを充実させてまいりました。「追悼 野見山暁治 野っ原との契約」展では、当館への収蔵後、初公開の作品を含む、油彩画、ドローイング、版画に加えて、練馬区のアトリエでの野見山の愛用品など、前後期を通じて約80点を展観いたします。2025年に開館40周年を迎える練馬区立美術館は同年より建て替えを予定します。建て替えを目前に控えた本展覧会は、2階のみの展示となりますが、1930年代の最初期から2020年代の最晩年までの野見山の画業をご覧いただくまたとない機会です。 
 本展覧会では池袋モンパルナスで過ごした東京美術学校時代から、戦後の炭坑や骸骨といった具象的なイメージを描く時期を経てフランス留学にいたる[前期]と、帰国後、自然や身近な事物をモチーフに独自のイメージを展開させ追究し続けた晩年までの[後期]に分けて展観します。絶筆作品を含む油彩画や版画、ドローイングおよび関連資料等、前・後期を合わせた約80点を通じて、野見山の画業の軌跡を辿ります。併せて、野見山の暮らしと制作の拠点となったアトリエの風景にも焦点をあてます。野見山は、1971年に練馬区に、ついで1976年に福岡県糸島市に住居兼アトリエを構えました。ともに建築家の篠原一男(1925-2006)の設計によるものであり、柱のない広いアトリエ空間や開口部が切り取る風景、特徴的な階段などは、野見山の制作を支えただけではなく想像力を掻き立てるものであったと考えられます。本展覧会では、アトリエに残された制作の道具や愛用の品等を展示するとともに、アトリエでのインタビュー映像やこの度新たに撮影した練馬と糸島のアトリエ内部をご紹介いたします。 

 一章 池袋モンパルナスから戦地へ1930~1943
 「自画像」1937      渋谷風景1938
  

「札幌の冬」1939      「糸満」1940    
   

「佐野の道」1943


 東京美術学校卒業後、応召し満州で発病。帰国入院し、敗戦後に退院しました。戦没画学生の慰霊美術館である「無言館」の設立に奔走したのも、この応召経験によるものです。戦病兵となって帰国できた自分と比べ、多くの美術を志した若者が戦死しました。
 
2章 焼け野原でみつけたもの1940年代後半~1951
 1948年、妹(田中小実昌夫人)の同級生内藤陽子と結婚。
 
「植木鉢と燭台」1948    「花と骸骨」1948頃
    

「静物 牛骨」1949      「横浜郊外」
 

「街はずれ」1949頃         「炭鉱」1951
 

「廃坑D」1951            
「青年」1952          「坑内」1952
  

3章 渡欧時代 人間像と風景の探求1952~1964
 1952年渡仏。1956年、妻陽子はがんを患い、病死。1964年帰国。
 渡欧前は暗い色調が多かった野見山の画風が、ヨーロッパの人と光景にふれ、妻の死というつらい時期を乗り越えて、しだいに明るい色調へと変化していきます。12年間の渡欧時代、作風は具象から抽象的になっていく過程がよくわかります。

「セーヌ川」1955          「ロアール河ノ町」1955
 

「シーナの部屋」1957頃       「岩上の人」1958
 
 
 シーナとは、本の装丁家になっていた椎名其二(1887-1962 )のこと。野見山の「自選の作品を語る」で「低い天井には製本用にとりどりの色の紙がつるしてあった。そこは地下室で奥が暗く、部屋というより奇妙な空間だった」(アトリエ659号1982年1月号)と語っている。日本で知ってきたキュビズムやフォービズムの色彩や形に、渡仏以来さらに強い印象を得ていたことはむろんだろうが、当時のどの日本人よりもフランス文化を語りうる晩年の椎名に影響を受けたように、私には見える。椎名の頭上にひらめくいろとりどりの紙は、野見山を色の世界にいざなっているように思えるのだ。
 椎名が1962年に亡くなった後、野見山は日本に帰国する。
 
「落日」1959              「花」1961            
   

「青い景色」1963-1964


 1964年に帰国後、芸大教授として後進を指導しつつ、1971年に練馬にアトリエ「海の階段」、1976年福岡県糸島に「糸島の家」を建て、50歳で再婚した福岡のクラブ「みつばち」のママ武富京子と、東京福岡を往復しつつの別居結婚を30年続けました。毎年初夏から秋は糸島ですごしていたそうです。80歳のとき京子もまたがんで失う。
 102歳まで描き続けた野見山暁治の後期の展示は11月12日-12月25日

<つづく>
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