20210501
ぽかぽか春庭アート散歩>2021アート散歩早春~春(1)和宮展 in 江戸東京博物館」
ステイホーム、テレビ漬け生活の3月7日、日曜日。前に一度見た「英雄たちの選択スペシャル大奥贈答日記」の再放送を視聴。
13代将軍家定と14代家茂の将軍付お年寄り瀧山の残した「贈答の記録」を読み解きながら、幕末の歴史と大奥の暮らしをエンタメにしていました。2度目だけれど面白かった。
家定の正室篤姫天璋院、家定生母本寿院、家茂正室和宮、家茂生母実成院。大奥の女達の壮絶なやりとりの中、幼いときに大奥勤めに出て、己の才覚で大奥のトップに上り詰めた瀧山。幕末の大奥を取り仕切り、江戸城明け渡しの前に、侍女の実家をたよって川口に家を起こして隠居しました。隠居後は夫婦養子に「瀧山」の姓をを名乗らせ、1876(明治9)年70歳で死去。
番組の中、瀧山が残した葵紋のついた拝領品などを見て、大奥の生活が偲ばれました。瀧山が拝領した贈り物の中、一番数が多かった贈り主は和宮、二番は天璋院だったそうです。天璋院も和宮も、幅広い人脈を持つ瀧山の取り仕切りがなければ、時代を渡っていけなかったのです。
江戸東京博物館で開催されてきた「和宮展」が終了してしまうので、会期終了前に観覧。常設展示の入場なので、シルバー料金は300円。
企画展『和宮 江戸へ ―ふれた品物 みた世界─』2021年1月2日(土)~2月23日(火・祝)
江戸江戸東京博物館の口上
時代において、将軍および将軍世子の正室は、3代徳川家光の正室孝子以降、宮家・摂家などから迎えるのが習わしでした。
そのなかでも異例だったのは、皇女との婚姻です。仁孝天皇の皇女で孝明天皇の皇妹和宮は、14代家茂の正室として降嫁しています。このように、将軍の正室の多くは公家社会の出身で、彼女たちを介して京都の宮廷文化が江戸城の奥に浸透しました。
和宮は、大奥における生活習慣を武家風と御所風の和合に努めた人物です。では、その和宮は江戸城において何を見て、どのようなものに触れ、いかなる暮らしをしていたのでしょうか。本展覧会では、徳川宗家に伝来する和宮が使用した調度品をはじめ、孝明天皇から和宮が拝領した銀製品、和宮直筆の和歌や消息などを中心に、東京都江戸東京博物館所蔵品を加え、和宮が実際に見たり触れたりした様々な作品を展示します。これらの作品を通して、和宮の内面や暮らしぶりを感じていただきたいです。
時代劇歴史劇の幕末ものにはたいてい登場する和宮(1846-1877)。仁孝天皇(1800-1846第120代)の側室典侍橋本経子(1826-1865)の所生。
第1章 江戸下向の決意
和宮肖像写真

5歳のとき仁孝天皇によって有栖川宮熾仁親王との婚約(内約)。しかし公武合体策により、婚約解消のうえ、1862年、14代将軍徳川家茂の正室となりました。徳川財団の所蔵品は撮影禁止でしたが、江戸東京博物館所蔵品は、フラッシュ禁止で撮影可能でした。
孝明天皇より親子(ちかこ)と名を授けられ、江戸下向。婚礼行列の華麗さは、展示されていた「和宮婚礼行列図」などで見ることができました。
和宮江戸下向絵巻

1861年、和宮が孝明天皇に江戸下向の挨拶に御所に出向いた際に天皇より下賜された木地香合。包み紙に「御いとま御参内のせつ御拝領の御香かう御きやらも入」とあり、天皇からの別れの品を拝領したことがわかります。
梅に鶯蒔絵・香合香木「若木梅」

紺綸子地竹雌雄鶏図刺繍 袱紗

紺綸子地竹雌雄鶏図刺繍 袱紗

葵と菊葉の茶道具
第2章 徳川家茂
江戸東京博物館の解説
背の君、徳川家茂は、弘化3年(1846)閏5月24日に御三家の11代紀伊藩主徳川斉順の長男として生まれた。13歳の時に13代将軍家定の継嗣に選定されて江戸城に入り、安政5年(1858)10月25日に14代将軍となった。将軍就任時は、西欧列強の対外的圧力や尊王攘夷運動の激化など内憂外患の情勢で、公武合体や幕政改革をもとに難局を打開することが求められた。 入り、安政5年(1858)10月25日に14代将軍となった。将軍就任時は、西欧列強の対外的圧力や尊王攘夷運動の激化など内憂外患の情勢で、公武合体や幕政改革をもとに難局を打開することが求められた。
和宮と家茂の結婚生活は、文久2年(1862)2月の挙式より家茂が慶応2年(1866)7月に21歳で早世するまでのわずか4年あまりだった。家茂は公武合体を目指し、将軍としては3代背の君、徳川家茂は、弘化3年(1846)閏5月24日に御三家の11代紀伊藩主徳川斉順の長男として生まれた。13歳の時に13代将軍家定の継嗣に選定されて江戸城に家光以来となる上洛を果たしたが、家茂の3度にわたる上洛は2人の結婚生活をさらに短くした。
和宮と家茂の仲は睦まじく、和歌やかんざしなどを贈りあった。家茂が上洛した際は、和宮は夫を案じて家茂の産土神である氷川神社に祈祷を命じ、自らは増上寺の黒本尊にお百度を踏んだ。また夫婦間での手紙のやり取りを欠かさなかった。和宮と家茂の縁組は、公武合体を実現させるための政略結婚であったが、ともに17歳の若い夫婦はその意義を理解し、誠実な態度でお互いを思いやっていたのである。
婚礼後、将軍正室は「御台様(御台所)」と呼ばれるのが慣例でしたが、将軍より身分が上の皇族であるからと「和宮様」と宮号で呼ばれる特例。
大奥内で京都御所風と江戸武家風の対立が起こりました。江戸との縁組みを拒む実母観行院らに「婚儀後も和宮の生活はすべて御所風を続ける」と約束をして婚姻を承知させたのですが、そんな婚礼前にという約束は大奥には伝えられていなかったのです。伝えられていれば天璋院はじめ大奥側の抵抗もあったことでしょう。
さまざまな軋轢の中、和宮と14代将軍家茂との夫婦仲はむつまじく、京都に滞在している家茂との間にかわされた文が展示されていて、互いを気遣う思いやりの言葉が綴られていました。1863(文久3)2月13日、家茂は江戸を出立し京都へ。和宮は24日から増上寺の黒本尊の御札を江戸城内に勧請し、お百度踏みました。家茂の無事を祈るためです。そんな妻の願いもむなしく家茂は死去。和宮にもとに家茂が妻のためにと用意したお土産の西陣織が届けられたのですが、和宮はそれを寺に寄進、僧衣に仕立てられて今に伝えられています。
第3章 調えられた品々
和宮は、夫婦仲がよかったことも幸いし公武合体の意義を理解していきました。大奥において御所風と武家風のそれぞれの生活様式を和合させ、幕府瓦解後、和宮は徳川家存続のために姑天璋院とともに奮闘することとなります。
葵と菊葉の調度品
村梨子地葵葉菊紋散花桐唐草蒔絵 櫛台

第5章 エピローグ(明治時代の和宮)
江戸東京博物館の解説
夫に先立たれた和宮は、江戸城にとどまり、薙髪して静寛院宮と名のった。慶応4年(1868)正月から始まった戊辰戦争では、13代家定正室の天璋院とともに徳川家存続のために奔走し、江戸無血開城に尽力した。江戸開城が実現した後は北の丸の清水邸に移り、明治2年(1869)正月には京都へ戻って5年間滞在した。そして、夫の墳墓の地を終の住まいにすることを決心して再び東京に帰った。その後の和宮は、歌道や雅楽など文芸の道に勤しみ、皇室、徳川家一門とともに親交を密にして平穏な生活を送り、晩年は持病の治療のために箱根塔ノ沢温泉で過ごした。
明治政府の意向に従って、一度は京都に戻った静寛院宮でしたが、夫の墓のそばにいたい、死後は同じ場所で眠りたいと考え、1874(明治7)年東京に戻りました。
1878(明治10)年、療養先の箱根塔ノ沢で脚気のために薨去。夫と同じ増上寺に葬られました。
31歳で亡くなった和宮ですが、夫家茂との間に交わされた手紙を読むことができ、たとえ短い間でも夫とむつまじい日々を過ごすことができたこと、墓には夫が写されたガラス板写真を胸に抱いて埋葬されたこと、ということから考えても、決して不幸な一生では無かったと感じます。
<つづく>