春庭Annex カフェらパンセソバージュ~~~~~~~~~春庭の日常茶飯事典

今日のいろいろ
ことばのYa!ちまた
ことばの知恵の輪
春庭ブックスタンド
春庭@アート散歩

ぽかぽか春庭「鳩山会館」

2021-07-04 00:00:01 | エッセイ、コラム

20210704
ぽかぽか春庭アート散歩>2021建築巡り春(4)鳩山会館

 私は、東京都内近郊を中心に明治から昭和初期に建てられた洋館・宮殿を中心に見学してきました。日帰りで見学できる地域に残された近代建築です。
 赤坂迎賓館はじめ、旧前田邸、旧細川邸、旧島津邸、旧岩崎邸等々、何度も訪れてきたお屋敷。旧小笠原邸や旧や旧千葉常五郎邸のようにレストランとして存続している邸宅もあり、旧朝香宮は都立美術館、旧島津邸は大学本部として公開されています。どの邸宅も、修復がなされ、建築遺産としてこれからもきちんと保存がなされていくと思います。

 都内にあるお屋敷のうち、まだ訪れていない邸宅もいくつか。ひとつは、一般人に見学が許可されていない、三菱開東閣。コンドルが岩崎一族のために建てた邸宅が、現在では三菱グル-プ俱楽部として利用され、重役以上の会員の同伴がなければレストランも利用できない。一般の三菱社員は、結婚式のときに申し込みが許可されれば利用できるのみ。私には重役様にお知り合いもいないし三菱社員と結婚する予定もないので、 見学チャンスはない。

 もうひとつは、電通の研修所になり、一般見学ができなかった電通八星苑。フランク・ロイド傑作の一般住宅です。
 電通が資産を見直すことになり、ついに八星苑が売却されたそうです。(汐留の本社ビルも売却検討中とか。業績不振はコロナのせいだけじゃなく、高橋まつりさんの過労自死など、電通のイメージ低下もあると思う。社員を自殺に追い込むほど過酷な労働の結果、どんな立派な宣伝広告ができようと、電通に依頼したってこと自体がマイナスイメージになると感じる企業もあったかも。東京五輪の規模縮小も利権減少になったでしょうね。一般公開をしてこなかった電通が、八星苑を売り払ったのはいいことかも。八星苑をどこが買ったのかわからないけれど、どうか、見学を可能にしてくれるような形での売却でありますように。文化財は独り占めすべきでない。公共のものにすべき。

 鳩山会館は、1924年に建てられた鳩山一郎邸を、鳩山記念館として1996年から一般に公開しています。東京都文京区音羽にあることから、通称は音羽御殿。現在の館長は鳩山由紀夫。

 エントランス・車寄せ

 建物は、1923年関東大震災後、岡田信一郎によって設計されました。岡田は鳩山一朗と中学校時代からの友人で、明治生命館や歌舞伎座などを設計しました。
 鳩山一郎私邸ですが、その応接室には政財界の要人が集まり、政治を動かす舞台となりました。

 玄関

 屋根の上にはミミズクの飾り。


 改修後、1996年から鳩山会館として一般公開、鳩山一郎やその妻薫、威一郎などの記念室があり、2階は寝室3室をひとつにして大広間 にし、会合などに利用できるように改装されています。

 サンルーム


 1階応接室


 応接室暖炉

 階段

 2階大広間


 私が鳩山邸に来た理由のひとつは、小川三知のステンドグラスが見たかったからです。歌舞伎座や明治生命館を建てた岡田信一郎の建物以上に興味がありました。
 ステンドグラス、5月の明るい陽射しの中、きれいでした。
 玄関上の鳩。


 応接室のステンドグラス

 サンルームと応接室の間のステンドグラス 



階段踊り場


 みどりの日の鳩山会館、思った以上に見学者がいましたので、見学者がフレームに入り込まないアングルにするのが難しかった。でも、16時を過ぎて建物が閉館されたあと、「庭は10分くらい薔薇の写真をとっていてもいいですよ」と言ってもらいました。しばし撮影タイム。だれもいなくなった庭で、ゆったり撮影できました。



 次は、世田谷区成城に建つお屋敷、旧山田邸に行ってみたいです。コロナ終息までは閉館中みたいですが。スパニッシュスタイルの木造洋館を、世田谷区が買収して改修し、一般公開されている建物です。

<おわり>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「旧本多邸」

2021-07-03 00:00:01 | エッセイ、コラム

20210703

ぽかぽか春庭アート散歩>2021建物散歩春(2)旧本多邸

 近代建築巡りを趣味のひとつとして、せっせと建物を見に歩いています。
 今回は愛知県の春旅で、岡崎市の本多忠次邸を見てきました。

 昭和の華族邸宅、スパニッシュ様式のお屋敷は新宿の旧小笠原邸と似ています。旧小笠原邸は、レストランとして存続する前は、ボロボロの状態でしたから、タイルなどの材料は復元ものが多いのは仕方がありません。こちらの旧本多邸は、実際に本多家が住み続けた建物を解体し、そっくり東京から岡崎市に移築。70%は元の材料をそのままにして復原したのだそうです。古い建物の移築復原の方法のひとつの見本になるのではないかと思います。

 2020年11月29日(日)からと、再放送2021年1月17日(日)にこの旧本多忠次邸が「百年名家」という番組で紹介されたのだそうですが、残念ながら見逃しました。
 
 
 旧本多忠次邸は、現在は岡崎市が管理運営しています。岡崎市の口上。 
 旧本多忠次邸は、旧岡崎藩主本多家(本多忠勝系)の末裔にあたる本多忠次が、昭和7年(1932年)東京・世田谷に建てた住宅と壁泉の一部を移築し復原したものです。
  岡崎市では、建築・意匠・技術・室内装飾にいたって学術的な価値がある旧本多忠次邸を保存し、その活用を通じて、文化財の保護についての関心や理解を深めていただくことを目的に公開展示しています。
 館内では当時の家具、ステンドグラス等の調度品が常設展示されています。また年数回の企画展示や歴史文化講座、サポーターの会による案内やおもてなし企画の開催のほか、一部の部屋は展示室としてご利用いただくことができます。
 
 旧本多忠次邸は、1932(昭和7)年、忠次が36歳のときに自ら基本設計を手がけ、現在の世田谷区野沢の所有地(約2200坪)内に、和洋折衷の住まいとして建設されました。
 本多忠次(1896-1999)は、最後の岡崎藩主本多忠直の孫(子爵本多忠敬次男)で、1999(平成11)年に103歳という長命でなくなりました。
 ご当主忠次の存命中は言い出すことができなかった世田谷のお屋敷を取り壊す、という課題が遺族に残されました。
 
 旧本多邸 車寄せ
 
 岡崎市の旧本多邸説明。
 建物は、昭和初期の邸宅建築に好んで用いられたスパニッシュ様式を基調に、一部チューダー様式を加味した木造2階建ての洋風建築です。屋根に赤褐色のフランス瓦を葺き、1階の西側には車寄せをつけた玄関、南側中央には三連アーチのアーケードテラス、続く東側には2階まで続く半円形のボウ・ウィンドウを配置しています。外壁は色モルタル仕上げで、アーチや窓の枠にはスクラッチタイルが貼ってあります
 
 また前庭には、日本のスパニッシュ建築様式には欠かせないといわれる壁泉があり、吐水口であるシャチのレリーフが建物の妻飾りにある獅子と向かい合うように造られています。
 内部は日本間と洋間を共存させた和洋折衷式となっており、接客空間と生活空間をうまく区別させた間取りは、家族の団らんやプライバシーを重視し始めた現代住宅へと変化する時代の先駆けといえます。各部屋の照明器具や家具は施主による趣向が凝らされ、当時流行したステンドグラス、モザイクタイルとともに邸内を彩っています。館内のあちこちにはラジエターが設置され、廊下には個人の邸宅には珍しい消火栓も見ることができます。
 
 玄関内側 スペイン風に内側の壁についているライオンの口から水が出てくるアルコーブのある玄関。水は出るようになってなかったけれど。
 
 
 
 玄関床のタイル
 
 
邸宅の案内図
 
 
  玄関脇の使者の間
 
 階段

 
 団欒室
 
 食堂

 
 婦人室につづく半円形の日光浴室
 
 日光浴室の床
 
 2階和室
 
 和室欄間
 
 邸内のステンドグラスもすてきでした。
 階段踊り場
 
 
 
 浴室と浴室のステンドグラス
 
 2階ベランダ
 
 2階の照明具
 
 2階から池(壁泉)を見る
 
 池の真ん中についている海獣の彫刻と屋根の獅子彫刻は見交わす位置に置かれていて、家を守る姿になっています。
 屋根の獅子
 
 本多邸は「復元」ではなく「復原」である、という説明がありました。古建築を移築する場合、部材のほとんどが新調され、元の設計図通りにくみたてる場合が復元。ほとんどが移築前の部材を用いて、組み立てる場合が復原。本多邸は、70%が元の部材をそっくりそのまま使っているので「復原」と名乗れるのだと。
 住人であった一家が、家を大切に保存しつつ住んできたから多くの部材がそのまま使用できたのだろうと思います。
 これから先は、岡崎市の大切な文化財として保存されていくと思います。思いがけない岡崎市訪問で、見学できてよかったです。
 
 
<つづく>
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ぽかぽか春庭「豊橋市公会堂」

2021-07-01 00:00:01 | エッセイ、コラム
  豊橋市公会堂
 
20210701
ぽかぽか春庭アート散歩>2021建築巡り春(1)豊橋市公会堂
 
 愛知県豊橋市を訪問。緊急事態宣言が解除され、都外に出るのもそうそうお咎めはないか、と、おっかなびっくりの旅でしたが、豊橋、蒲郡、豊川と、お天気にも恵まれ、桜日和のよい日々をすごすことができました。
 
 3月24日、新幹線ひかりを降り、駅から歩きました。娘が「建物見物趣味の母に合わせたアレンジ」という訪問先のひとつは「豊橋公会堂」。
 3月21日以後は、通常の公開時間(基本午前9時から午後9時まで)ということで、私と娘は午前10から1時間ほどの観覧でした。
 
 豊橋市公会堂は、中村與資平(1880-1963)の設計で1931年に竣工。鉄筋コンクリート造(屋根は鉄骨トラス造)3階建。国の登録有形文化財。 
 
 豊橋市の口上。
 豊橋市公会堂は、ロマネスク様式で正面両側のドーム頂上までの高さは、16mもあり市内の鉄筋コンクリート造りの近代的建築物の発祥ともいわれています。また、風格のある雄姿、意匠など建築界においても高く評価されています。講演会や各種式典はもちろん、歌謡大会、舞踊大会などが数多く開催され市民に親しまれています。
 
 公会堂東側
 
 外観はルネサンス風。スペイン風の円形ドームは、スパニッシュ・コロニアル・リバイバルという1910-20年代にカリフォルニア州で流行したスペイン統治時代の建築様式の復興を試みたスタイルを模倣した、ということで、玄関内のもとになった建築物の写真が竣工当時の公会堂と並べて展示してありました。 
 講堂客席部を中心に改修をしてありますが、外観はもちろん、ほとんどのドアや窓サッシ等は当時のまま。戦中に供出された金物も一部復元され、正面外観を飾っています。
 
 室内
 
 スクラッチタイルが柱を飾る玄関
 
 半円形ドームを飾る4羽の鷲のレリーフ。本物は建物東側に展示され、現在ドームに飾られているのはレプリカです。金属製の本物は、重すぎてドームの耐震基準を満たせず、レプリカを載せたのだそうです。
 こんな裏話を聞けたのも、他に観客がおらず、私と娘のために案内してくれた係員が懇切丁寧に説明してくれたおかげ。普段、公会堂は市民のためのコンサートや演劇用のホールとして公開されており、使用されていないときは公開されていても、市民の訪れもないので、わざわざ建物を見に来た観客は珍しかったみたい。
 屋上にあがってドームを見る
  
 
 設計者の中村與資平は1905(明治38)年に東京帝国大学を卒業した後、 辰野金吾の事務所に入りました。朝鮮銀行本店(現在の韓国銀行)を設計ののち、独立。 朝鮮で設計活動をおこないました。1923(’大正12)年に帰国し、東京で事務所を開き、関東大震災後の日本の建築界に貢献しました。
 
 中村は辰野事務所で「辰野式」とも呼ばれる様式建築を会得し、朝鮮での活動の間、ドイツ人の若い建築家アントン・フェラーからモダン建築を学びました。アントン・フェラーはドイツ軍に従軍中、第一世界大戦で ロシア軍の捕虜となりシベリアから脱走してきたのです。中村は、様式建築とモダン建築両方をこなせる幅広い建築家でした。
 
 スパニッシュ・コロニアル・リバイバルのスタイルを「取り入れた」というより、写真で見る限りでは「まんまそっくり」のデザインで、このころの新進建築家が「辰野式」から飛躍しようと懸命に自分のスタイルを探し求めていたそんな心意気が感じられる屋上の半円形ドームと4羽の鷲でした。
 「いつもは案内しないことになっているんだけど」と言いながら、屋上ドームへ上がる階段を開けてくれた係員さん、ありがとうございました。
 
 もとはドームを飾っていたのですが、改修の耐震工事調査によって、元の鉄製のワシでは、重すぎて建物がもたないことがわかりました。そのため、屋上にはレプリカを飾り、元の鷲は、玄関横に転じされています。
 
 内部のステンドグラスなどは、できる限り現物を修理して用い、足りない部材は補修して、元の建物を再現しているそうです。
 
 ステンドグラス、柱の彫刻など。
 
ベランダの柱の装飾
 
 豊橋市が公会堂の建物を大切に保存しようとしていることがよくわかった建物見学になりました。
 
 
<つづく>
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする