浄蔵寺は、太田市役所の南西約7km、利根川の左岸、支流の早川近くにあります
東武伊勢崎線きざき駅の南東2kmの県道276号線沿いです、
もともと周りに目印のない所に突然現れる大イチョウ自体が目印となっています
山門です
案内板です
浄蔵寺
所在地 太田市堀口町二二三番地
浄蔵寺は、駒形山宝珠院といい、高野山真言宗に属し、本尊は地蔵菩薩である。寺の創建は鎌倉時代新田氏の
開基を伝えるが詳らあでない、開山(中興)を慶順といい、寺地四町九反余を有する密教寺院として壇徒の信仰
を集め、法灯・堂宇が良く護持されてきた、明治七年本堂を利用して「惟勤学校」が開設され、学制初期の地域
初等教育に貢献した、本堂は、棟札に「宝暦五年(1755)当寺十一世専秀隆勝ハ、八世弘賢以来四十有余年
にわたる先住の遺書を継承し檀家の協賛を得て、堂宇の建立を果たした」とあり、建築は当村中村平右衛門 久
安養寺村橋本藩右衛門相久らにが携わっている、以後、安政三年(1856)十六世漂栄のとき、茅葺を本瓦に
葺替え、明治三十八年(1906)十九世善隆祐範の代に屋根葺替が行われ、その後小修理が加えられ現在にい
たっている。
当村鎮守賀茂宮の南に、新田の一族堀口氏の館跡があり、美濃守貞満の建立と伝える真言宗正覚寺があったが
早川治水の築堤によりその寺堂を失ない、昭和四十三年浄蔵寺と合併、当寺に墓所を移し不動堂を建立した。
浄蔵寺の西方一帯の低地を「字ザラメキ」といい、かつて利根川の流路であった、ここから鎌倉時代中期の板
碑が出土しており、そのうち文永十一年(1274)の銘文に、大檀那沙弥西願をはじめ、源・藤原・菅原・高
麗姓などの結衆の名が見られ、浄蔵寺および新田・堀口氏にかかわる資料として重視されたが、現存せず拓本を
残すのみである。
寺伝に、元弘三年(1333)五月、新田義貞鎌倉攻めのとき、利根川渡河をまえにして、義貞の軍隊が当寺
に兵馬を休め、戦勝を祈願したことから、駒形山を称するようになったという。
境内に聳える大銀杏は、樹令 四百年といわれ、駒形山の森を偲ばせるとともに、浄蔵寺に変遷を物語ってい
るかのようである。
浄蔵寺の文化財
五智堂 本尊 大日如来(享保九年寄進名あり)
建立 天明五年
願主 新島太郎右衛門
修復 明治二十七年 本瓦葺
昭和六十年
不動堂(旧 正覚寺)
本尊 不動明王
建立 昭和四十三年
鐘樓堂 建立 明治三十四年十一月
棟札 武州妻沼村 林門作斉部正啓
修復 昭和六十年
山門 建立 安政六年
願主 新島治左衛門
棟札 尾島宿 長浜庄八
修復 昭和五十年
平成元年三月 太田市教育委員会
徳川氏発祥の地世良田の観光案内板です
本堂です
鐘楼です
五智堂です、御堂の裏側(西)に見えるのが大イチョウです
緑のオブジェの様です
説明版です
太田市指定天然記念物
浄蔵寺の大イチョウ
指定年月日 昭和五十三年三月十日
所 在 地 太田市堀口町223番地
駒形山宝珠院浄蔵寺は古義眞言宗に属し、鎌倉時代の創建といわれる。
この大イチョウは雄株で、根元周囲十四メートル、目通り周囲十二メートル、樹高二十八メートル、枝張りは
十八メートルほどである。樹齢は四百年ほどと推定される。
落雷により主幹が折れ傷められたため、幹が多くに分かれているが樹勢はきわめて旺盛である。
イチョウは落葉高木樹で成長は比較的早いが、このような大木は、尾島町はもちろん県内でもめずらしく、
貴重なものである。
このイチョウは、枝にその形からちち(乳)といわれる呼吸根(気根)が垂下している。乳の出ない産婦が
これを取って呑むと、乳が多く出るようになると云う伝承がある。
イチョウは雌雄異株の裸子植物で、今から一億五千万年ほど前の中世白亜紀には世界中に繁茂していた。
その後絶滅したと思われていたが、中国の浙江省に野生しているのが発見され、日本にもたらされたもので
生きた化石といわれている。
昭和五十三年三月 太田市教育委員会
根元まで、葉で覆われて幹を見る事が出来ません
又、秋になって葉が落ちる頃、取材したいと思います
では、次へ行きましょう
東武伊勢崎線きざき駅の南東2kmの県道276号線沿いです、
もともと周りに目印のない所に突然現れる大イチョウ自体が目印となっています
山門です
案内板です
浄蔵寺
所在地 太田市堀口町二二三番地
浄蔵寺は、駒形山宝珠院といい、高野山真言宗に属し、本尊は地蔵菩薩である。寺の創建は鎌倉時代新田氏の
開基を伝えるが詳らあでない、開山(中興)を慶順といい、寺地四町九反余を有する密教寺院として壇徒の信仰
を集め、法灯・堂宇が良く護持されてきた、明治七年本堂を利用して「惟勤学校」が開設され、学制初期の地域
初等教育に貢献した、本堂は、棟札に「宝暦五年(1755)当寺十一世専秀隆勝ハ、八世弘賢以来四十有余年
にわたる先住の遺書を継承し檀家の協賛を得て、堂宇の建立を果たした」とあり、建築は当村中村平右衛門 久
安養寺村橋本藩右衛門相久らにが携わっている、以後、安政三年(1856)十六世漂栄のとき、茅葺を本瓦に
葺替え、明治三十八年(1906)十九世善隆祐範の代に屋根葺替が行われ、その後小修理が加えられ現在にい
たっている。
当村鎮守賀茂宮の南に、新田の一族堀口氏の館跡があり、美濃守貞満の建立と伝える真言宗正覚寺があったが
早川治水の築堤によりその寺堂を失ない、昭和四十三年浄蔵寺と合併、当寺に墓所を移し不動堂を建立した。
浄蔵寺の西方一帯の低地を「字ザラメキ」といい、かつて利根川の流路であった、ここから鎌倉時代中期の板
碑が出土しており、そのうち文永十一年(1274)の銘文に、大檀那沙弥西願をはじめ、源・藤原・菅原・高
麗姓などの結衆の名が見られ、浄蔵寺および新田・堀口氏にかかわる資料として重視されたが、現存せず拓本を
残すのみである。
寺伝に、元弘三年(1333)五月、新田義貞鎌倉攻めのとき、利根川渡河をまえにして、義貞の軍隊が当寺
に兵馬を休め、戦勝を祈願したことから、駒形山を称するようになったという。
境内に聳える大銀杏は、樹令 四百年といわれ、駒形山の森を偲ばせるとともに、浄蔵寺に変遷を物語ってい
るかのようである。
浄蔵寺の文化財
五智堂 本尊 大日如来(享保九年寄進名あり)
建立 天明五年
願主 新島太郎右衛門
修復 明治二十七年 本瓦葺
昭和六十年
不動堂(旧 正覚寺)
本尊 不動明王
建立 昭和四十三年
鐘樓堂 建立 明治三十四年十一月
棟札 武州妻沼村 林門作斉部正啓
修復 昭和六十年
山門 建立 安政六年
願主 新島治左衛門
棟札 尾島宿 長浜庄八
修復 昭和五十年
平成元年三月 太田市教育委員会
徳川氏発祥の地世良田の観光案内板です
本堂です
鐘楼です
五智堂です、御堂の裏側(西)に見えるのが大イチョウです
緑のオブジェの様です
説明版です
太田市指定天然記念物
浄蔵寺の大イチョウ
指定年月日 昭和五十三年三月十日
所 在 地 太田市堀口町223番地
駒形山宝珠院浄蔵寺は古義眞言宗に属し、鎌倉時代の創建といわれる。
この大イチョウは雄株で、根元周囲十四メートル、目通り周囲十二メートル、樹高二十八メートル、枝張りは
十八メートルほどである。樹齢は四百年ほどと推定される。
落雷により主幹が折れ傷められたため、幹が多くに分かれているが樹勢はきわめて旺盛である。
イチョウは落葉高木樹で成長は比較的早いが、このような大木は、尾島町はもちろん県内でもめずらしく、
貴重なものである。
このイチョウは、枝にその形からちち(乳)といわれる呼吸根(気根)が垂下している。乳の出ない産婦が
これを取って呑むと、乳が多く出るようになると云う伝承がある。
イチョウは雌雄異株の裸子植物で、今から一億五千万年ほど前の中世白亜紀には世界中に繁茂していた。
その後絶滅したと思われていたが、中国の浙江省に野生しているのが発見され、日本にもたらされたもので
生きた化石といわれている。
昭和五十三年三月 太田市教育委員会
根元まで、葉で覆われて幹を見る事が出来ません
又、秋になって葉が落ちる頃、取材したいと思います
では、次へ行きましょう