白滝神社は、桐生市役所の北約6kmのところ
県道342号線から県道338号線へと進み
川内北小学校を過ぎると間もなく参道への入口です
大きなゲートに白龍神社の文字を見逃すことはありません
県道からもケヤキの大きな樹冠を見ることが出来ます
ここを入って山田川左岸に渡ると神社南側に駐車スペースが有ります
南向きの表参道鳥居です
参道は直角に右に曲がります
鳥居です
鳥居脇の大岩に注連縄が巻かれています
手水舎です
日本遺産の説明版が有ります
かかあ天下
-ぐんまの絹物語-
古くから絹産業の盛んな上州では、女性が養蚕、製糸、織物で
家計を支え、近代になると、製糸工女や織手としてますます女性
が活躍した。夫(男)たちは、おれの「かかあは天下一!」と呼
び、これが「かかあ天下」として上州名物になるとともに、現代
では内に外に活躍する女性像の代名詞ともなっている。
上州が群馬県と変わる頃、絹が主要な輸出品として外貨獲得の
切り札となると、県内の養蚕、製糸、織物はますます盛んになっ
た。明治の文豪、徳富蘆花は当時の群馬県の様子を「機の音、製
糸の煙、桑の海」と詠んでいる。
日本製の生糸が世界を席巻するなかで、また、絹織物も発展し
ていった。桐生は江戸時代から「西の西陣、東の桐生」と言われ
るように高級な絹の織物産地として知られていた。この桐生を支
えたのも職工と呼ばれた周辺の村から集まった女たちであり、織
物を伝えた白瀧姫を祀る白瀧神社には、多くの職工が、織物の上
達を願ってお参りした。彼女たちが奉納した額も残っている。
明治に入るとノコギリ屋根が特徴的な織物工場が数多く建てら
れていった。さらにその中で多くの女たちが織手として活躍した。
それらの製織技術は、現在に受け継がれている。
拝殿です
拝殿にかけられた額です、中央に描かれているのは繭でしょうか
本殿です
拝殿前左手にヒノキの御神木です
神楽殿です
太々神楽の説明版です
拝殿と南側建物の間を入ると
境内社?の後側に
目的のケヤキの巨木が在ります
北側から見上げました、細い注連縄が巻かれています
境内南側から見上げました、針塚の石碑に上に大きな樹冠を広げています
北側のゲートボール場から、神楽殿の上に樹冠を広げるケヤキが見えました
では、次へ行きましょう
県道342号線から県道338号線へと進み
川内北小学校を過ぎると間もなく参道への入口です
大きなゲートに白龍神社の文字を見逃すことはありません
県道からもケヤキの大きな樹冠を見ることが出来ます
ここを入って山田川左岸に渡ると神社南側に駐車スペースが有ります
南向きの表参道鳥居です
参道は直角に右に曲がります
鳥居です
鳥居脇の大岩に注連縄が巻かれています
手水舎です
日本遺産の説明版が有ります
かかあ天下
-ぐんまの絹物語-
古くから絹産業の盛んな上州では、女性が養蚕、製糸、織物で
家計を支え、近代になると、製糸工女や織手としてますます女性
が活躍した。夫(男)たちは、おれの「かかあは天下一!」と呼
び、これが「かかあ天下」として上州名物になるとともに、現代
では内に外に活躍する女性像の代名詞ともなっている。
上州が群馬県と変わる頃、絹が主要な輸出品として外貨獲得の
切り札となると、県内の養蚕、製糸、織物はますます盛んになっ
た。明治の文豪、徳富蘆花は当時の群馬県の様子を「機の音、製
糸の煙、桑の海」と詠んでいる。
日本製の生糸が世界を席巻するなかで、また、絹織物も発展し
ていった。桐生は江戸時代から「西の西陣、東の桐生」と言われ
るように高級な絹の織物産地として知られていた。この桐生を支
えたのも職工と呼ばれた周辺の村から集まった女たちであり、織
物を伝えた白瀧姫を祀る白瀧神社には、多くの職工が、織物の上
達を願ってお参りした。彼女たちが奉納した額も残っている。
明治に入るとノコギリ屋根が特徴的な織物工場が数多く建てら
れていった。さらにその中で多くの女たちが織手として活躍した。
それらの製織技術は、現在に受け継がれている。
拝殿です
拝殿にかけられた額です、中央に描かれているのは繭でしょうか
本殿です
拝殿前左手にヒノキの御神木です
神楽殿です
太々神楽の説明版です
拝殿と南側建物の間を入ると
境内社?の後側に
目的のケヤキの巨木が在ります
北側から見上げました、細い注連縄が巻かれています
境内南側から見上げました、針塚の石碑に上に大きな樹冠を広げています
北側のゲートボール場から、神楽殿の上に樹冠を広げるケヤキが見えました
では、次へ行きましょう