2018年4月15日訪問です
栄町は、会津若松市役所のすぐ北側です
国道118号線の東側に興徳寺があり
北側の寺の墓地の中に見事な桜が在ります
有料駐車場が有ります
山門です
北向きの本堂です
蒲生氏郷公墳墓の地の石柱が建ちます
蒲生氏郷公の説明版です
蒲生氏郷公(1556~1595年)
蒲生氏郷は江州(滋賀県)日野城主蒲生賢秀の子、織田信長に仕え
その婿となった、後、豊臣秀吉に属し、天正18年(1590)会津
入封、天下人秀吉の奥州仕置お任地に代表奥羽の都督を以て目され、
治府若松は東北の都と𧦅われた、黒川の旧称が若松の新称に改まるの
もこの時である。はじめ近江商人の町日野、ついで伊勢商人のふるさ
と松坂に封を受けた氏郷は、蒲生第三の都市にもその伝統を移して、
城下町若松を商売繁盛のまちとした。なによりも七層(今五層)の天
守、四方石垣の整然とめぐる名城鶴ヶ城が、名将最大の後世への遺産
となった。
利休七哲の随一に数えられた数奇大名氏郷の面影は、鶴ヶ城の一角
に復原された茶亭戸麟閣にしのばれる。利休次子千少庵ゆかりのもの
。利休切腹後、氏郷は彼を保護し、千家再興に道を開いた。霊名を「
レオ飛騨」と称した氏郷は東北切支丹の先がけでもあった。
文禄4年(1595)2月7日、40才を一期に英雄は都に逝いた
。「限あれば吹かねど花は散るものを、心短き春の山風」。花のあわ
れに人のあわれをかさねよんだ優婉な辞世の歌が後に残された。遺髪
を納めた興徳寺五輪の塔が、永くその英魂を弔っている。
蒲生氏郷公の五輪塔です
五輪塔の説明版です
こちらも説明版です
墓地への入口です
墓地の左手奥に桜が在ります
南側から見ました、見事に満開の桜です
では、次へ行きましょう
栄町は、会津若松市役所のすぐ北側です
国道118号線の東側に興徳寺があり
北側の寺の墓地の中に見事な桜が在ります
有料駐車場が有ります
山門です
北向きの本堂です
蒲生氏郷公墳墓の地の石柱が建ちます
蒲生氏郷公の説明版です
蒲生氏郷公(1556~1595年)
蒲生氏郷は江州(滋賀県)日野城主蒲生賢秀の子、織田信長に仕え
その婿となった、後、豊臣秀吉に属し、天正18年(1590)会津
入封、天下人秀吉の奥州仕置お任地に代表奥羽の都督を以て目され、
治府若松は東北の都と𧦅われた、黒川の旧称が若松の新称に改まるの
もこの時である。はじめ近江商人の町日野、ついで伊勢商人のふるさ
と松坂に封を受けた氏郷は、蒲生第三の都市にもその伝統を移して、
城下町若松を商売繁盛のまちとした。なによりも七層(今五層)の天
守、四方石垣の整然とめぐる名城鶴ヶ城が、名将最大の後世への遺産
となった。
利休七哲の随一に数えられた数奇大名氏郷の面影は、鶴ヶ城の一角
に復原された茶亭戸麟閣にしのばれる。利休次子千少庵ゆかりのもの
。利休切腹後、氏郷は彼を保護し、千家再興に道を開いた。霊名を「
レオ飛騨」と称した氏郷は東北切支丹の先がけでもあった。
文禄4年(1595)2月7日、40才を一期に英雄は都に逝いた
。「限あれば吹かねど花は散るものを、心短き春の山風」。花のあわ
れに人のあわれをかさねよんだ優婉な辞世の歌が後に残された。遺髪
を納めた興徳寺五輪の塔が、永くその英魂を弔っている。
蒲生氏郷公の五輪塔です
五輪塔の説明版です
こちらも説明版です
墓地への入口です
墓地の左手奥に桜が在ります
南側から見ました、見事に満開の桜です
では、次へ行きましょう