若澤寺跡は、松本市役所の西南西約13kmのところ
波多神社前から西へ家並みの中を山の中に向かいます
白山(標高1387m)の北東山麓です
この分かれ道を右へ約1,5kmのところです
丁目石10丁目は下の遊歩道にあるようです
祠の脇を更に登ります
間もなく林道はゲートで行き止まりになります
はた「歴史の遊歩道」案内図です
若澤寺跡入口です
説明版が有ります
松本市特別史跡
若澤寺跡
所在地 松本市波多9103
所有者 水沢山共有林組合 ほか
指定年月日 平成23年3月22日
指定内容
若澤寺は、山号を慈眼山あるいは水沢山といい、新義真言宗
京都智積院の寺院で、江戸時代には広大な伽藍が整備されて多
くの人々が訪れ、「信濃日光」と呼ばれていた。しかし、明治
初年の廃仏毀釈により廃寺となり、多くの建物は取り壊された
り、移築された。現在寺跡に残っているのは、田村堂、金堂、
中堂、護摩堂、方丈の石垣と一部の礎石だけだが、その規模の
大きさは賑わった時代を彷彿とさせる。
若澤寺は、室町時代に2kmほど山中に入った元寺場から水
沢谷の現在地に下りたと伝えられ、戦国時代から江戸時代初期
には、武田勝頼や小笠原氏により寺領を安堵された。江戸時代
後期の文化年間(1804~17)に、「若澤寺一山之絵図」
に描かれている伽藍ができあがったといわれている。
平成24年3月 松本市教育委員会
ここを登って行きます
方丈・護摩堂跡です?
草花が咲きほこる中を進みます
こちらが方丈跡のようです
礎石が残っています
護摩堂跡です、大きな柱礎石が並んでいます
石垣が続きます
若澤寺絵図です
中堂救世殿跡です
水澤観世音霊場の石碑が立っています
石垣沿いの道を上へ行きます
金堂跡です
もう一段上にも郭が有ります
宝篋印塔の台石です
隣の石には仏託功徳経白が刻まれています
田村堂・宝篋印塔跡です
方丈や護摩道跡を見下ろしました
若澤寺跡の山側斜面上に石塔が並びます
石塔から降りて来ました、中堂救世殿跡です
では、波多山城跡へ行きましょう
波多神社前から西へ家並みの中を山の中に向かいます
白山(標高1387m)の北東山麓です
この分かれ道を右へ約1,5kmのところです
丁目石10丁目は下の遊歩道にあるようです
祠の脇を更に登ります
間もなく林道はゲートで行き止まりになります
はた「歴史の遊歩道」案内図です
若澤寺跡入口です
説明版が有ります
松本市特別史跡
若澤寺跡
所在地 松本市波多9103
所有者 水沢山共有林組合 ほか
指定年月日 平成23年3月22日
指定内容
若澤寺は、山号を慈眼山あるいは水沢山といい、新義真言宗
京都智積院の寺院で、江戸時代には広大な伽藍が整備されて多
くの人々が訪れ、「信濃日光」と呼ばれていた。しかし、明治
初年の廃仏毀釈により廃寺となり、多くの建物は取り壊された
り、移築された。現在寺跡に残っているのは、田村堂、金堂、
中堂、護摩堂、方丈の石垣と一部の礎石だけだが、その規模の
大きさは賑わった時代を彷彿とさせる。
若澤寺は、室町時代に2kmほど山中に入った元寺場から水
沢谷の現在地に下りたと伝えられ、戦国時代から江戸時代初期
には、武田勝頼や小笠原氏により寺領を安堵された。江戸時代
後期の文化年間(1804~17)に、「若澤寺一山之絵図」
に描かれている伽藍ができあがったといわれている。
平成24年3月 松本市教育委員会
ここを登って行きます
方丈・護摩堂跡です?
草花が咲きほこる中を進みます
こちらが方丈跡のようです
礎石が残っています
護摩堂跡です、大きな柱礎石が並んでいます
石垣が続きます
若澤寺絵図です
中堂救世殿跡です
水澤観世音霊場の石碑が立っています
石垣沿いの道を上へ行きます
金堂跡です
もう一段上にも郭が有ります
宝篋印塔の台石です
隣の石には仏託功徳経白が刻まれています
田村堂・宝篋印塔跡です
方丈や護摩道跡を見下ろしました
若澤寺跡の山側斜面上に石塔が並びます
石塔から降りて来ました、中堂救世殿跡です
では、波多山城跡へ行きましょう